11. 蟹鍋
健二に勧められたこともあって、律保は神経内科の受診を決意した。実際に診察を受けてみてよかったと思った理由は、自分の偏見が拭えたから、というだけにとどまらない。
「岩田さんのような若い世代の娘さんで、こんなにもがんばってる方は、そういませんよ」
主治医となった老医師に、「本当に大変だったね」と優しい声でねぎらわれ、初めて健二以外の他人に泣き顔を見せた。付き添った健二の肩を借りてふらつきながら診察室を出たほど、全身の力が抜けてしまった。だがそれは決して、負の感情を抱くような脱力ではなかった。
診断書をもらい、会社に提出した。主治医に「自分のためのぜいたくな時間を作りましょう」と言われ、残っている有休すべてを八月いっぱいまでの休職に充てた。
「旅行に行きましょうか」
健二が律保にそう持ち掛けた。彼の夏休みを使って赴いたのは、健二が二十年ぶりに訪ねたいと強く推した別府だった。現場を訪れたときに、初めて「俺の両親、ここで事故死したんです」と、ここを選んだ理由を告白された。
「両親に律保さんを紹介したいと思ったら、ここしか思い浮かばなくって」
まるで風景の変わった道路の脇で、健二は二十年前に自分たちを乗せた自動車が落ちた崖に向かって合掌した。
「お父さん、お母さん、供養できなくて、今まで本当に、すみませんでした」
途切れがちな声が少しずつ震え出す。丸めた健二の背中が、大きなはずの体をますます小さく見せた。
「独りぼっちじゃあ、なくなりました。安心して、成仏してください」
彼の誓いへ同じ想いを添えるように、律保も合掌したまま「お義父さん、お義母さん」と呼び掛けた。
「岩田律保と申します。ふつつかな自分ですが、よろしくお願いします。どうか私たちを見守ってやってください」
たった二人しかいなかった健二の家族に、律保は心からの祈りを捧げた。
剛三の件については、健二がしばらく赴けない旨を伝えた、と言って律保を驚かせた。
「でも、放っておいたらまた仕出し弁当ばっかりだとか、飲んでばかりだとか、心配になることばかりするんじゃないかしら」
焦る気持ちがあからさまに反対する言葉に滲み出た。
「律保さんが闘病中だってことを話しました。あ、もちろん律保さんだってことは内緒ですけど」
二人も病人を抱えられないからと釘を刺しておいたと、おどけた口調で笑って言う。そんな健二に、お礼を伝えたいやら怒りたいやら、なんとも言えない顔つきになってしまった。
「親父さんが言ってました。“事故娘”の病気は、親父の借金を無理して返していたせいで心労がたたったんじゃないか、って、律保さんの心配をしてました。“おめえは大丈夫なのか”って俺の看病疲れにまで気が回っていたくらいですから、きっと自制してくれますよ。信じましょう」
だから、年内にどうこうと考えるのもやめにしましょう。健二は無理のない笑顔でそう言った。
別府の温泉が功を奏したのか、それとも薬との相性がよかったのか。
「それとも、気持ちが楽になったから、かしら」
常にもやの掛かった感覚の鈍い頭痛が、いつの間にか消えていた。湿疹も少しずつ引いていき、復職した九月に入ると、顔や手の内側などの人目につく場所が元の白い肌に戻るほどに回復した。
再び動き始めた忙しい毎日は、律保を急きたてるように過ぎていった。カレンダーを見れば、もう十一月。今年も残すところあと二ヶ月を切っていた。
そんなとある週の末。退勤時間が迫った夕刻に、律保の席にある内線が鳴った。
「はい、設計二課、岩田です」
『浜崎さまが面会のお約束とのことでお見えになっておりますが』
「え? 浜崎、と仰っているの?」
意外な人物からの呼び出しに驚き、受付の子に問い返した。
『はい。お約束ではありませんでしたか?』
約束をした覚えはない。そもそも浜崎が職場まで訪ねて来ること自体が今までにない。その辺りは社会人である節度をわきまえている人だ。千鶴か淳也に何かあったのかと思い、一瞬背筋に寒気が走った。
「すぐ降りるわ。ラウンジへご案内をお願いします」
律保は受付の子にそう言付けると、急いで帰り支度を整えた。早退届に記入を済ませ、上司である安田のデスクへ向かう。
「どうした。顔色が悪い」
安田は届に捺印をせず、早退理由を尋ねて来た。
「浜崎の父が訪ねて来ているみたいなんです」
「浜崎のお父さんが? 初めてだね」
「はい。だから何かあったんじゃないかと思って。とりあえず下で待ってもらっているから、内容によってはそのまま帰らせてもらおうかと思ったんです」
「あと十分で退勤時間じゃん。いいよ、これは」
安田はそう言って、届をくしゃりと丸めてゴミ箱へ放り込んだ。
「ダンナには僕から伝えておくよ。打ち合わせのあとの接待も任せてあるから、当分連絡がつかないだろうし」
「ありがとうございます。でも、ダンナじゃないから」
「今はまだ、だろ?」
にやりと皮肉な笑みを浮かべる安田に、無理やり笑みをかたどって返した。そんな憎たらしい形が、彼なりの励まし方だと知っている。
「伝言、よろしくお願いします。ありがとう」
律保は二度目のお礼に個としての感謝を添え、追い払うように手をひらつかせる安田に背を向けた。
一階に下りて、受付に声を掛けると、浜崎の席まで案内をしてくれた。彼はオーダーも取らず、本を読みながら律保の退社を待っていた。
「お父さん、お待たせしました。お母さんか淳也に何かあったの?」
そう問う声が、上がる息で荒くなる。本を閉じて見上げて来た浜崎が、驚いた表情で律保を捉えた。
「いや、大したことではなかったんだが。却って余計な心配をさせてしまったようだね。そろそろ退社時間になるかと思って訪ねただけなんだ」
二人で夕食でもどうかと思って、という言葉に今度は律保のほうが驚いた。浜崎からそんな提案をして来たことなど、これまでに一度もなかった。律保に妙な緊張が走った。
「どうしたの、急に」
無理やり思い当たることを捻出してみれば、千鶴か淳也と喧嘩をしたか、もしくは剛三に何かあったか、といったところだ。だが浜崎からの回答は、そのどちらでもなかった。
「嫁入り前の娘を持つ父親の心境、かな? 律保と二人きりで話をしたい気分になってね」
今月の誕生日で還暦なんだよ、と言われ、初めてその年齢を意識した。
「お母さんと淳也から、律保を独り占めする権利をプレゼントしてもらった、というわけだ」
そう言ってはにかむ浜崎の照れる姿も、初めて見るものだった。空調から噴き出される乾いた風とは違う温かさが、律保の髪を優しく揺すった。
「やだ、お父さんったら。娘をナンパなんて、らしくないわ」
律保も釣られてくつくつと笑った。一大事でなくてよかった、という安堵感が律保に満面の笑みを宿らせた。
浜崎に招待された店を見て、思わず「あ」と声を上げてしまった。そこは岩田家がある駅の傍、律保も福岡に教えられて足繁く通っている鍋料理店だった。
「おや、やっぱり律保も知っている店だったのかい」
「ええ。自称グルメの福岡先生が教えてくれたところなの。お気に入りの一つなのよ」
「それなら、店選びは合格だった、というわけだね」
そんな他愛のない話をしながら二人でのれんをくぐり、引き込み戸をがらりと開ける。
「いらっしゃい。お、りっちゃん、久しぶりじゃねえか」
すっかり顔馴染みになっている店主に、温かく迎えられた。
「福岡先生に何度かお誘いを受けたことがあるんだが。もっと早くお受けしておけばよかったなあ」
浜崎は和やかで落ち着いた雰囲気を醸し出すヒノキ材の内装をぐるりと見渡し、建築設計士らしい感想を漏らして微笑を浮かべた。
律保はそれにどうリアクションしていいのか戸惑った。浜崎が福岡の誘いを断って来た理由は、容易に想像がつく。剛三と千鶴と律保の三人で暮らしていたこの地域。この気弱で優しい養父が、ここへ足を踏み入れることにどれだけの勇気を携えて来たのだろう。
「お父さん、ありがとう」
岩田を名乗る律保がこの場所から嫁ぐことを、そして、挙式の形に迷いがある律保の内心を理解しているということも、彼の行動が暗に示している。そう思うと、自然にそんな謝辞が零れ出た。
「おや、まだご馳走するとは言っていないんだがね」
浜崎がおしぼりで手を拭きながら、おどけた口調でしらを切る。その顔には少し意地悪な微笑さえ浮かんでいた。
「そ、そっちじゃなくて。っていうか、今日は還暦のお祝いでしょう? 私の奢りに決まってるじゃないの」
話を逸らされたところへ、店主が熱燗のお銚子を運んで来た。浜崎が店主と雑談を交わすうちに、なんとなくその話題が立ち消えてしまった。
煮え立つ鍋の火をゆるめ、二人で黙々と蟹の身をつつく。浜崎と二人きりで外食をするのは初めてだった。あまり多くを語らない人なので、最初はどう間を持たせようかと考えていた。彼も律保と同じことを考えたのだろうか。蟹鍋をオーダーしたのは浜崎の希望だった。それを自身への言い訳にしているのか、沈黙に居心地の悪さを感じない。時折挟まれる
「美味いものを食うにも一苦労があると、美味さもひとしおだね」
「私たちだけこんな美味しい思いをして、お母さんや淳也に叱られるかも」
という自然な会話は、心地よいものだった。
「蟹というのは、人生を味わうことと似ているね」
最後の蟹を食べ終えた浜崎が、すっかり身のなくなった足を殻入れの器に落としてそう言った。
「人生を、味わう?」
律保は入れたばかりのうどんをほぐしながら、視線を浜崎に向けた。
「そう。苦労した分だけ、旨みをありがたく感じられる」
そう紡ぐ声音は感慨深さを漂わせ、律保を見つめるまなざしが強い何かを訴えた。
「この間、岩田さんと会って来たよ」
「!」
うどんを掻き混ぜる律保の手が、無意識にとまった。
「その前にお母さんが岩田さんを訪ねたんだ。もちろん、それは二人で話し合って決めたことなのだがね」
浜崎はすぐに強張る舌をほぐそうとするように、杯の酒を一気に流し込んだ。彼は「ふう」と一息つくと、父としてというよりも、一人の個と個、という対等な姿勢で、彼が知る限りの思い出を律保に語った。
長い時間抱き続けた千鶴への片想いの話や、笑えるほど判りやすい剛三の千鶴に対する言動など、目に浮かぶような思い出話のあと、少しだけ浜崎自身の心情も語り紡いだ。
「私は、汚い自分をずっと憎んでいたよ。岩田さんがお母さんを傷つけたことに憤慨するよりも、溝が深くなっていく様子を見て、自分でも嫌になるほど妙な期待が膨らんでいった」
もうやっていけない、という千鶴の言葉を聞いた瞬間、プロポーズの言葉が出てしまったという。
「もちろん、即答で断られたがね。それは君も充分察しのついたことだろう」
律保はお銚子へ伸びた手に気付き、浜崎よりも先にそれを手に取った。
「お母さんとあの家で暮らしている間、毎日電話をくれたわよね」
律保は浜崎に酌をしながら、かつて彼の紡いだ言葉を繰り返した。
『お母さんは、落ちこんではいないかい。ちゃんと食べているかな』
『受験前なのに大変なことになって、君は大丈夫かい。しっかり屋さんなのは知っているけれど、無理をし過ぎてはいけないよ』
自分の声で再生するのに、あのころの浜崎の声が蘇る。懐かしさが律保に自然な笑みをかたどらせた。
「お父ちゃんがああいう人だったから、声色や顔つきで建前か本音か、っていう程度のことは見抜けてしまう、生意気な子だったわよね、私」
「そうだね。私が自分の狡さを自覚して後ろめたい気分でいたことも、お母さんを口説く目的ではなく、岩田さんたちの溝につけ入ってしまったことへの罪滅ぼしでいたことも」
「最終的には、お人好しもいいところ、ってお父さんの及び腰に呆れてたわ。だから、じれったくなって、お母さんに“再婚したら?”って言ったのよ、私」
自分も過去を振り返りながら、くすりと苦笑が漏れる。それが浜崎の苦笑と重なった。
「そうだったね。君は人の心というものに、とても敏感な子だった。そういうところが、岩田さんとよく似ている」
――残念なことに、大切な人に対する目だけが曇りやすいというところまで、よく似ている。
「え……?」
傾けたお銚子をまっすぐに戻した律保の手が、再びとまった。相変わらずもったいぶる言い回しの浜崎に、目で疑問を投げ掛けた。
「まだ、岩田さんとお会いしていないんだろう」
そんな言葉とともに、お銚子を取り上げられた。それを傾けられ、反射的に杯を差し出していた。
「岩田さんから、初めてお褒めの言葉をもらって来たよ。“千鶴に求婚した度胸と、律保のためにツラを出して来た父親っぷりだけは、浜さんらしくねえほどの男気じゃねえか”って。私は、岩田さんには“ウジウジしてるんじゃねえ”と昔から叱られてばかりいたんだ」
あんなにも剛三から逃げていた浜崎までが、彼の変化や再会そのものを嬉しそうに語る。その根拠を伝える話が、頑なにまとい続けて来た律保の鎧を剥ぎ取ろうと、心の中に染み渡っていった。
「君が望むなら、浜崎律保として嫁がせてやって欲しい、と頭を下げられた。自分には父親を名乗る資格などないと。気付くのが遅れてすまないと伝えて欲しいと言付かって来たよ」
――お父ちゃんなんか大ッ嫌い。お父ちゃんなんか、仕事と結婚していればいいんだよ。
「君の言ったその言葉を、とても真摯に受けとめていた。金を入れて不自由のない暮らしさえさせていれば、それで立派に父親の役目を果たせているという勘違いしていた、と。そんな自分が情けない、と言ってね。お酒が回ったせいもあるのかな。あの岩田さんが、私の前で涙を零したので、驚いた」
そろそろ潮時ではないのかい、と浜崎は言う。問い掛ける形でありながら、柔らかな声音で律保を諭す。
「律保。なさぬ仲の私でさえ、君をこれだけ愛おしく思う。君の最もかわいい時期を見守り続けて来た岩田さんが、どうして君の幸せを阻もうなどと思えるだろう。それが痛いほど解るから、僕は岩田さんから親権を奪う気持ちを持てなかったのだよ」
――行っておいで。岩田剛三の娘として、君独りで。
「お、父、さん……私」
やっとの思いで絞り出した声が、そこでまた詰まってしまう。鼻をすする音が、恥ずかしいほど大きく個室に響いた。親という器の大きさを目の当たりにして、律保は胸の締めつけられる痛みに襲われた。
「二人の父親に挟まれて、長い間つらい想いをさせてしまったね。居心地の悪い想いをさせて来て、すまなかった。自己嫌悪や罪悪感も、ほどほどにしないと……とね。私は今回岩田さんと会って、彼からそれを学ばせてもらった気がするよ」
浜崎は手酌をしながら、自らを嗤った。
「結局私はそれを免罪符にしていたのだと思う。こんなに申し訳ないと思っているのだから、お母さんを横取りした私を許して欲しい、と、心のどこかで岩田さんに対して望んでいたのではないかなあ、と。それが君に居心地の悪さを感じさせていたと思うと、私のほうこそ、父親と名乗る資格がない、と思ったのだよ」
浜崎はそう語ると、呼び出し用のインターホンを押して、新しいおしぼりを二つ頼んだ。
「律保も、罪悪感はもう捨てなさい。私はね、君が“お父さん”と呼んでくれるだけで、充分に幸せだ。感謝もしている。岩田を名乗り続けることに、なんの抵抗もないんだよ」
顔を覆って俯く律保の心に、優しい言葉が水を吸うように沁み込んでいく。
「みんな、それぞれに苦しい思いやつらい思いもしたけれど、糧にできれば、それは人生の旨みに変わるものではないかな。岩田さんが私にそう教えてくれた気がしてならない。だからこのお節介な提案は、私なりの、岩田さんから教えられたことの恩送りのつもりだ。次は君の番だ。誰に恩送りをしようと思うのかな、君は」
そう語る浜崎の言葉が、襖の開く音で遮られた。
「失礼します。お待たせしました。おしぼりでございます」
律保が顔を伏せたまま髪の隙間からそっとテーブルを覗くと、あまり顔を合わせたことのないバイトの子だと教える若い手が、テーブルにおしぼりを置いていた。きっとこの店を予約したときに、浜崎があらかじめ店主に事情を説明していたのだろう。馴染みの客だからこそ、見られたくない場面もある。店主が顔を出さないという形で配慮をしてくれたに違いない。小さな優しさが集まって大きな優しさになり、それに包まれて生かされて来た。不意にその事実へ行き当たり、また律保の涙腺がゆるんだ。
「お父さん……あり、ひっ……ありがとう……え……っ……ありがとう、ございます」
何度もしゃくりあげながら、やっとの思いで謝辞を告げる。初めて浜崎に涙を見せた。初めて本当の自分をありのままに表せた。
「ごめんなさ……かわいげの、な……娘……ひぃっく」
「ほら。ごめんはもうなしだ。顔をお拭き」
差し出されたおしぼりに震える手を伸ばす。それは本当にとても温かで、それが余計に律保を泣かせた。
「たくさんつらい思いをした分、誰よりも幸せにおなり」
いい大人になった律保の頭を、養父の手がくしゃりと撫でる。その大きくしなやかな手は、剛三とは違うのに、それでもやはり父親のぬくもりを感じさせた。柔らかで温かな、そして律保に涙の堪え方を忘れさせるほどの愛情がこもった手。それが長い時間、律保の嗚咽をやませなかった。
律保にとっては歩いて自宅へ帰ることもできる近所だが、浜崎は電車を乗り継いで帰らなくてはならない。
「おや、そろそろ出ないと終電に間に合わないな」
彼はいそいそと立ち上がり、まだ食べ切っていないうどんすきへふと視線を落とした。
「律保、君はゆっくりしてお行き。健二君には迎えに来てくれるよう、先ほど電話をしておいたから。話が終わったら連絡をくれと言われているので、こちらから伝えておくよ」
「え、でも」
そう言いながら立ち上がった律保を、浜崎は半ば強引に押し留めた。
「いいから。ああ、そうだ。実は健二君から手紙をもらったのだよ。私がここへ置き忘れたことは、内緒にしておいてくれるかい?」
言われて初めて、浜崎の指差すほうへ意識が向いた。彼の座っていた座布団の脇に、わざと置いたようにしか見えない形で、健二の筆跡だと解る宛名を記した手紙が放置されていた。
「これを読みなさい、ということ?」
「読め、とは言わないよ。たまたま私が忘れてしまっただけだ」
浜崎はそう言って、また思わせぶりな笑みを浮かべた。
「解ったわ。ごちそうさまでした。また遊びに行くわね」
律保は苦笑を浮かべてそう答え、再び元の席へ腰を落ち着けた。
律保は浜崎を店先から見送ると、席に戻って健二から浜崎へ宛てた手紙を開いた。
――前略、お義父さん。
走り書きの雑文、申し訳ありません。
お願いがあって一筆を執る次第です。
ご心配をお掛けするだろうと、律保さんも自分も黙っておりましたが、律保さんは現在、ストレス性の湿疹と頭痛に悩まされています。
律保さんの学生時代の友人から、昔の話などを伺いました。
自分が思っていた以上に、律保さんと岩田の親父さんの受けた傷の深さを痛感した次第です。
自分が不甲斐ないばかりに、お義父さんの手を煩わせてしまうお願いをお伝えすること、心からお詫びします。
父親として、娘に抱く思いというものがどんなものであるか、律保さんにお伝えいただきたいのです。
彼女の発症は、心因性だと診断されています。自分が岩田の親父さんにばかり目を向けてしまい、彼女への思いやりに欠けた急かすような言動をとってしまいました。結果、彼女を追い込んでしまいました。
浅慮の数々、本当に申し訳ありません。
どうか律保さんを助けてください。
彼女がためらいなく、望んで岩田の親父さんと会えるよう、ご助力お願いいたします。
そして、このように至らない自分ですが、どうぞ今後ともご指導のほどよろしくお願いいたします。
健二――
「健ちゃん……」
読んでいるほうが恥ずかしくほどの素直な手紙。自信のなさも、自分の弱さも、そして――律保の頬が熱くなるほどの赤裸々な胸の内も、そのまま行間に詰められた、手紙。それが真心に溢れた温かさで、律保をどこまでもぬくめてくれる。その消印は七月になっていた。浜崎は、目的を成し遂げる前に律保が健二の差し金だと気付かないよう、還暦という口実を持ち出したのだろう。
「お父さんまで……やだ、もう……ッ」
健二のしたためた文字が、律保の落とした涙で滲んでいく。迷ったり悩んだり苦しんだり。そうやって人は、旨みを蓄えていく。それを糧にして、人生の旨みを増していく。
「いつまでも逃げていたら、ダメ、だよね」
浜崎の紡いだ人生論を、頭ではなく心が受け容れた。憶測や理屈に流されて逃げるのではなく、自分で足を踏み外したり傷ついたりしながら、それでも自分で決めて進んでいくからこそ、人生の旨みを味わえる。
律保は手紙を封筒へ戻し、バッグへ忍ばせた。おしぼりで思い切り顔を拭いて涙を乾かす。律保はトイレに立ち、メイクを整えた。おしぼりで拭き取ってしまった素顔に近い律保の肌は、赤いストレスの塊がすでにほとんど消えていた。
席に戻って数分後、うどんすきに手を伸ばした絶妙なタイミングで襖が開いた。
「律保さんっ、お、お待たせ、しま」
「健ちゃん」
彼は相変わらず、こちらに逃げる気などないのに走って来たらしい。律保の一等大切な人が、こめかみから汗を伝わせながら最高の笑みを見せてくれた。
「今、お義父、さんから、電話、もらって」
「解ったから、とにかく息吸って」
律保は我慢し切れず、噴き出しながらそう言った。
「健ちゃん、ありがとう。まだうどんすきが残ってるの」
そう告げる律保の口角が自然と上がる。
「一緒に食べましょう?」
右手が彼を求めて伸びる。
「それに健ちゃんも、蟹、食べたいでしょう? もう一杯、頼みましょう」
オーダーストップだけれど、店主に無理を言ってしまおう。
「ラッキー。蟹っ。本当はお義父さんから聞いたとき、律保さんずるい、って思ったんですよ」
健二は子供のようにはしゃいだ声でそう言うと、すっかり馴染みになった口調で店主に律保のわがままを代弁してくれた。




