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10. 雪鍋(2)

 コンビニに立ち寄って、簡素なレターセットを一つ買う。

「あ、それと八十円切手も一枚ください」

 健二は店員からそれらを受け取ると、今度はスタンドコーヒーショップに飛び込んだ。

 アイスコーヒーを形式的に頼み、買ったばかりの便箋へ思いつくままに言葉を書き綴る。手紙をしたため終わると、今度はシステム手帳を取り出し、住所録の“は”行を開いた。

「……の、五。浜崎豊様、と」

 健二が封筒に書いたのは、律保(りほ)の養父、浜崎の名前だった。書き連ねた手紙を封筒に収め、両面テープでしっかりと封をした。切手を貼ってポケットにそれを押し込むと、急いで家路を辿った。


 途中のポストで手紙を投函し、じれったい気分でアパートの鍵を乱暴にねじる。

「律保さん、遅くなりました、ただいまです!」

 わざと元気な声で挨拶をしてから、勢いよく玄関の扉を開けた。

「きゃっ」

 玄関のドアを開けた瞬間、扉の閉まった律保の部屋からそんな小さな悲鳴が漏れて来た。

「律保さん?」

 普段、部屋の扉など閉めていない。怪訝に思って健二が扉を開けると、

「あ、ダメっ」

 という声と同時に、両手で顔を隠す律保が、ドレッサーの前に座っていた。ドレッサーの前には、つい今しがたまで手にしていたと思われる化粧用のパフと、化粧品の瓶。健二が部屋に入ってそれを手に取ると、“リキッドファンデーション”という品名が書かれていた。

「家の中でも、化粧をしてたんですか」

 そんなことにも気付いていなかった。健二はファンデーションの瓶をドレッサーに戻し、律保の両手首を掴んだ。

「や、ダメ」

「どうして隠すんですか」

 と問い終わるよりも先に、その理由が判った。

「前より湿疹がひどくなってるじゃないですか」

「お願い……見ないで」

 もがく腕と俯いた頭が、子供のようにイヤイヤをして健二を強く拒んでいる。こみ上げて来るものが抑えられない。

「律保さん……」

 健二の目に映る律保の怯えた姿が、次第にぼやけていった。

「ごめん、なさい」

「健ちゃん?」

 気がつけば、縋るように律保をきつく抱いていた。

「俺のせいだ。ごめんなさい」

 自分が律保の症状を悪化させている気がした。見られることを拒む姿が自分を信じていないように見えてしまい、突然の恐怖が健二を襲った。

「俺、律保さんの顔がキレイだから好きになったってわけじゃないです」

 すっかり忘れていたことがある。律保を逃すまいと抱きしめながら、いつも胸のうちにある本心を改めて口にした。

「怒ったら本気で怖いのも、我を通す小憎たらしさも、すぐ年下のくせにって見下すのも、意地っ張りでかわいげがないのも、苦しいときほど元気な振りするバカなところも」

「ちょっと、帰って早々、喧嘩を売っているの?」

 解っているものとばかり思っていた。だから言葉にして伝えるのを忘れていた。だがこうして律保は、解っていないと知らしめる。

「腹立つところも、むかつくところも」

 尚も腕の中で暴れる律保を、もっと強く抱きしめた。

「健ちゃん、ビールくさい。酔い過ぎ」

「全部ひっくるめて律保さんが、好きなんです。前よりも、もっとずっと、知った分だけ……」

 抗って爪を立てていた律保の手から、すうっと力が抜けていく。彼女の呆れた声が、健二の耳もとをくすぐった。

「どうしたの? また安田に嫌味な言い方でダメ出しされたとか?」

 柔らかくなった律保の声が、二年前を思い出させた。初めて健二のことを「健ちゃん」と呼んで、孤独な気持ちをやわらげてくれた、包むような優しい声。健二は駄々をこねる子供のように、強く首を横に振った。

「俺、年下だし、情けないし、弱っちいし、だけど、でも。お願いです」

 追いかけっこではなく、一緒に肩を並べて歩く。霧香の言った言葉の意味を、ようやく理解した。

「俺をまた独りぼっちなんかに、しないでください。俺が傍にいたいんです。だから、いやなところや嫌いなところも、隠そうとなんか、しないでください」

 健二の腕から力が抜けていく。ドレッサーの椅子に腰掛けていた律保の体のラインを辿るように、体が崩れ落ちていく。頭に律保の柔らかな腹の感触が、頬に感じる膝枕の心地よい肉感が、健二から恐怖感を取り除いていった。

「弱っちくなんか、ないわ」

 力ない声が、頭上から降り注いだ。

「健ちゃんのほうが私よりあとから入社したのに、どんどん追い越していってしまうんだもの。健ちゃんはもう新人の教育を任されてるのに、私は仕事を減らされて」

 細い指が、健二の髪をそっと後ろへと撫でつける。

「お父さんやお母さんの懐に入るのも上手だし、素直だし、私にはできないこと、なんでも簡単にやっちゃうんだもの」

 不意に視界が部屋の景色から、何も見えない薄闇になった。

「あのお父ちゃんのことさえ、簡単にいなせてしまうんだもの。どれ一つとっても、私には巧くできないことばかり。自分が、かわいげのない、年ばかりとってしまった、つまらない女なんじゃないかって」

 健二に覆い被さるように身を寄せる律保から漂う風呂上りの香りが、健二の鼻を甘くくすぐった。

「お父ちゃんへの義理や責任感だけで一緒にいてくれるのかな、って、いつの間にか……いろんなこと、全部、すごく……怖くなったの」

 こんな弱い自分じゃなかったはずなのに、と悔しげに零す律保の腕を取った。

「怖くなったら、言ってください」

 彼女を傷つけないように、覆い被さる彼女の体ごと、ゆっくりと身を起こす。

「そしたら、なんべんでも伝えます」

 俯いて髪で顔を隠す律保の頬をそっと包み、逃げる瞳をまっすぐ捉えた。

「追いかけっこじゃなくて、肩を並べて、手を繋いで、この先もずっとおんなじ道を、一緒に転びながら進みましょう」

 濡れた頬をぐいと拭えば、またあとから溢れるもので健二の掌と律保の頬が元どおりになってしまう。

「俺が転んだら、助けてください。律保さんが倒れたら、俺が支えて起こします。だから、先でもあとでもなくて、ずっと俺の隣にいてください」

 健二はようやく伝えたかったことを告げ終えると、彼女の額にも残る赤いストレスの塊を癒すようにそっと口付けた。

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