10. 雪鍋(1)
今年中には式を挙げたい。そんな健二と律保の思惑は、予想外のアクシデントによって阻まれた。
ことの始まりは、新年度早々に律保を襲った強い偏頭痛だった。
「三十七度、二分。ちょっと高いですね。休んだほうがいいですよ、絶対」
健二はそのとき、律保の頭痛の原因を風邪の初期症状だと思った。これから熱が上がるだろうと考えてそう提案したのだが、律保は頑なにそれを拒んだ。
「年度始めの月初に休むなんて、新入社員に示しがつかないわ」
「誰もそこまで細かいことなんか気にしませんよ。それに、新人だって自分のことで精一杯だから、律保さんの勤務態度をチェックしている余裕もないでしょうし」
「ひどい。私の存在感はないってこと? 仕事の貢献ができていないってこと?」
細く尖ったまなじりを更に吊り上げて律保にすごまれたら、「そんなことを言っているんじゃない」という反論の言葉が出せなかった。
「じゃあせめて、仕事が終わったらすぐ帰って受診してくださいね。新歓の飲み会には出られない、って俺が幹事に伝えておきますから」
反論は喧嘩に発展すると考え、健二はそんな妥協案だけを律保に返して口を閉ざした。
どうも年度末辺りから、律保の苛立ちが目についた。始めのうちは、期締めの多忙で過労気味なのだと思っていた。
だが、ゴールデンウィークを迎えようとする時期になっても、律保の体調はよくなるどころか、より深刻な症状に変わっていった。
「どうして? やだ、こんな顔じゃあ、出勤できないじゃない」
ある朝、律保が目覚めて鏡を見るなり、そんな悲鳴を上げた。頭痛やふらつきに加え、顔や二の腕など、柔らかい部分のいたるところが赤い湿疹で埋め尽くされていた。
連休前ということもあり、これまで受診を渋っていた律保も、休暇を半日取って福岡医院へ赴いた。
「とりあえずステロイド剤を出しておくけど、専門科を受診したほうがいい」
福岡はそう言って、大学病院の皮膚科に宛てた紹介状を律保に手渡した。
この連休中にブライダルサロンを訪ね、挙式の打ち合わせや解らないことを調べる予定にしていた。もちろん、その前に律保が剛三と再会を果たし、その後二人揃って剛三を訪ねて挨拶を済ませてから、というつもりで計画していた。
「律保さん、急かすようでこちらからはあまり訊けなかったんですけど」
健二が律保の機嫌を探りながら曖昧に連休の予定を尋ねると、律保は薬を塗りながら鏡に映った健二に向かい、
「予定通りのつもりよ。まだお父ちゃんには会えていないけれど、この顔で行ったんじゃあ、却って心配させるだけかもしれないし」
とぶっきら棒に返された。
「でももし親父さんが許さなかったら?」
「ちゃんと説得するつもりよ。式場は遅くても半年前には押さえないと間に合わないけど、お父ちゃんとは会おうと思えばいつでも会えるじゃない。それとも、お父ちゃんが許さなかったら、結婚はなかったことにする?」
鏡越しに睨む律保の目が、とても不安定な心情を滲ませていた。
「そんなことはないっすけど……日にちの決めようがないんじゃないかな、と」
健二がしどろもどろとそう返す間に、律保がくしゃりと顔をゆがめた。
「痛……ッ」
「また、頭痛ですか?」
健二は問いながらも、すぐに頭痛の頓服薬に手を伸ばし、PTPシートから錠剤を取り出した。グラスに水を用意し、律保がすぐに飲めるよう、それら二つをすっと差し出す。一連の流れがスムーズにできてしまうほど、そんな状態が当たり前になっていた。
「ありがとう。それから――ごめんなさい」
グラスを覗く律保が力なくそう零すと、ほどなくグラスに注がれた水の表面に小さな波が立った。
「泣くほどのことじゃないでしょう。どうしたんですか」
ドレッサーに腰掛けたままの律保の傍らから、俯いて涙を零す彼女の頭をそっと撫でた。
「どうしたんだろう……私、こんなにひ弱だったかしら」
「ひ弱なんかじゃないですよ。こうして仕事に音を上げないでがんばってる強い人じゃないですか、律保さんは」
「思う通りに、体が動いてくれないの……本当に、ちゃんとミスせずにできてるのかしら……」
「安田さんって、そういうところ妥協しないでしょう。何も言われてないってことはミスがない、ってこと。気にし過ぎです」
「……本当に、ごめんなさい。私、八つ当たりばっかり」
そう言って、また顔をくしゃりとゆがめる。はたはたと、涙を零す。健二にとってこの数ヶ月は、できることなら律保の不調な体と自分のそれを代わってやりたいとさえ思う毎日だった。
健二のそんな殊勝な気持ちも、夏の声を聞くころになると苛立ちに変わっていた。
「律保さん、いい加減にしてください。紹介状を書いてくださった福岡先生の厚意を無駄にする気ですか。みんな心配してるんですよ」
健二が声を荒げてそう言えば、
「みんなって、誰よ。まさか健ちゃん、お母さんに私の状態をしゃべったの?」
と律保がヒステリックな口調で言い返して来る。
「言えるわけないじゃないですか。あなたが患者の権限で福岡先生に口どめをしたんでしょう。お義母さんに知れたら、福岡先生が責められるじゃないですか。ずるいですよ、律保さんのそういうところ」
「じゃあ、放っておいて。私だって子供じゃないんだから、ちゃんと考えてるわ」
「どう考えてるんですか。こっちだって、親父さんがイライラし始めてるん――あ」
言ってからついしまったと口を閉ざす。だが、途端に表情の曇った律保を見て、健二まで余計に肩を落とした。
「……解ってるわよ……」
「……すみません、言い過ぎました」
律保と健二の間にも、どんよりとした梅雨空の暗さが立ちこめる。気付けばそんな日々に変わっていた。
正直なところ、個人として安田に借りを作るのは嫌だった。第一印象が悪かったせいだろう。安田は決して悪い人間ではない。健二はそう自分をなだめたものの、頼む姿勢がかなり露骨に屈辱感で満ちたものになった。
「霧香……僕のワイフと、律保には内緒で話をしたい?」
剣呑な目つきで見下ろす安田に、下げた頭を元の高さに戻して挑むように睨み返す。
「そんな怖い顔をしないでください。律保さんが相談しそうな友人と言えば、霧香さんしか思いつけないから、ちょっと伺いたいことがあるだけです」
「で、そこに僕がいちゃいけない理由は?」
「面白半分で、律保さんに全部しゃべっちゃいそうだからです」
「ひどい。健ちゃんって僕のこと、そういう目で見てたんだっ」
安田は大袈裟なほど気色悪いしなを作り、健二を侮蔑の目で見てそう罵った。
「三十路のおじさんが何ふざけてるんですか。そんなんだと千夏ちゃんに嫌われますよ」
「う、痛いところを」
途端に真面目な態度に戻る安田の最近の弱点は、生まれてから半年ほどになる彼の長女、千夏だ。かわいい盛りの千夏に話題を振れば、厳しい口調や表情を一気にゆるめてしまうほど溺愛している。
「律保さんと霧香さんが親友でいる限り、ずうっと俺もついて回りますからね。物心ついたころを見計らって、千夏ちゃんにお父さんの意地悪なところを全部バラしますよ」
とどめの脅し文句は子供じみていると思ったが、安田には効果てきめんだった。
「よし、じゃあこうしようじゃないか。僕は絶対律保に口を割らない。健ちゃんは僕の同席を拒まない。これでどう?」
「どんだけ妬きもち焼きなんですか」
そんな文句を零しつつも、健二はその妥協案に乗った。
安田が無理やり健二を飲みに誘い出す芝居を打ち、律保に疑われることなく安田の自宅へ向かうことができた。
都心から少し離れた高層マンションの中ほどにある安田家を訪ねるのは初めてだった。
「いらっしゃい。初めまして。律保からお噂はかねがね」
そう言って出迎えた霧香は、安田や律保のようなクールな一見とはまるで違う、いわゆる典型的な専業主婦、といった柔らかな印象を抱かせる女性だった。
「初めまして、松枝と申します。突然お邪魔してすみません」
玄関口でそんな挨拶を交わし、突然の訪問という非礼を詫びる。
「ほら、会社を出たらプライベートなんだから。そんなかしこまってないで、上がった上がった」
安田がじれったいとばかりに健二を促し、自分は早々に奥のほうへと行ってしまった。
「千夏ー、パパが帰ったぞー」
そんな声が聞こえると同時に、健二は噴き出した。職場での安田からは想像もつかない、甘ったるくてでれりとした口調だったからだ。
「もう、お客さまをほったらかして、親ばかなんだから。松枝くん、ごめんなさいね」
苦笑を交えてそう零す霧香から、仄かな甘い香りが漂った。
(あ、これって、知ってる匂いだ)
ふと浮かんだのは、左官業時代の現場で剛三が赤ちゃんを抱かせてもらったとき、施主の隣にいた奥さんの顔だった。
「安田さんは、いいお父さんですね」
そして霧香は、ステキなお母さんなのだろう。健二はそんな思いでまばゆげに霧香を見返し、笑みを浮かべた。
「そうね。それに、ダンナさまとしてもステキな人よ」
惜しみなくのろけを聞かせてくれる霧香にまた笑わされた。安田の家は、健二の憧れていた空気に満ちていた。
リビングへ通されると、冷房をしっかりと利かせた部屋でくつくつと何かを煮込む音が健二の鼓膜を心地よく揺さぶった。
「松枝くんは鍋料理が好きだと聞いていたから、すぐできるものを急いで作ったのだけど。暑い時期に鍋なんて、ちょっと食べづらいかしら」
と言う霧香にテーブルへ促され、目に入ったのは土鍋だった。薄いだしの中で煮込まれているのは、豆腐だけではなさそうだ。何かが豆腐と一緒に、鍋の中いっぱいに踊っている。健二はまるでスノーボールを見ているような錯覚に陥った。
「いえもう、全然。大好きですから。これは普通の湯豆腐と違うんですか」
霧香へ問い掛けた健二の言葉に、着替えを済ませて千夏を抱いた安田が代わりに教えてくれた。
「律保に教わったんだよ、これ。“雪鍋”とか“みぞれ鍋”って、地方によって呼び方が違うらしい」
ぐずる娘の背をさすってあやす安田に、羨望のまなざしを送りながら「へえ」と頷いた。
「下ろし大根をそのまま鍋に入れてしまうの。雪が舞っているみたいでキレイでしょう。千夏が喜ぶかな、と思ったのと、これで千夏の離乳食を作る手間を省いちゃった」
合理的な安田の妻らしい献立の理由を聞いて、健二は声を出して笑った。
律保は春からこの夏に掛けての数ヶ月間に、ここへ何度か訪れたらしい。健二が今日赴いた用件を伝え、律保の症状について詳しい話をする前に、彼女が健二の知らなかったことを話してくれた。
「松枝くんには知られたくなかったのかも。でも口どめはされてないし」
そんな前置きをして語ってくれたのは、律保が五月の半ばには大学病院の皮膚科を受診していたことだった。
「ストレス性湿疹と診断されたんですって。神経内科を受診し直せ、って。それで律保ったら、“精神的に病んでいるってことなのか”ってものすごく怒ってね。腹の虫が治まるまでいさせて、って電話をして来たの。神経内科を受診もしないでここへ来て愚痴っていったわ」
「受診、してたんですか。それに神経内科って」
「要は心因性だってことだろう」
安田がスプーンでつぶした豆腐を千夏の口へ運んでやりながら、二人の会話に加わった。
「診断書は断ったらしいけど、僕は霧香からその話を聞いていたから、仕事のストレスかと思って割り振りを少し減らしたんだ。健ちゃんは気付いてただろう、それ」
「はい。律保さんの不調に気付いて配慮してくれたんだろうと思ったので、自分も律保さんに定時退社を促してはいたんですけど」
「あのバカ、新人研修用の書類作りを手伝い始めたよな。人のことをボロクソに言いながら」
「ですね」
「律保らしいわね。自分のキャパシティを考えずに、なんでも自分がどうにかしなきゃ、って気負い過ぎちゃう。変わらないなあ、そういうところ」
霧香は溜息を漏らしてそう呟くと、空になった健二の取り鉢に、ほんのりとだし色に染まった豆腐と、とろりと煮込まれた揚げ餅を装った。
「ありがとうございます」
と、差し出された取り鉢を受け取る。
「揚げ餅は、オリジナルレシピなの。だしにとろみがついて、お豆腐によく絡むでしょう」
味わってみれば、しっかりと昆布だしの旨みが素材の味といい具合に絡み合い、薄味なのに次の一口へと箸を進めたくなるほど癖になる美味さだ。
「私ね、今、松枝くんからの話を聞いて思ったんだけど」
霧香がビールを傾けて健二へグラスを促しながら、憶測だとつけ加えた上で私見を述べた。
「仕事が原因ではない気がするの。家へ来たときも、仕事の愚痴より自分に対する腹立たしさとか、じれったさとか、そんな自分への文句ばっかり。……あと、松枝くん、気を悪くしないでね」
律保を急かしてはいないかしら、と問い質され、口をつけるつもりで傾けたグラスを持つ手がぴたりととまった。
「絶対に、そんなことありません」
そう返す言葉が、どうにもくぐもり暗くなる。
「ふぇ……」
食べることに専念していた千夏が、突然ぐずる声を上げた。
「あ」
「あらら。もうお腹いっぱいになって、おねむかな?」
安田の猫なで声を聞いても、笑う心境になれなかった。
「松枝くん、ごめんなさいね。ちょっと」
「ああ、いいよ。僕が寝かしつけて来る」
ごゆっくり、という安田の言葉さえ、嫌味に聞こえてしまう自分がいた。
「気を悪くしたなら、ごめんなさいね。でも、岩田のお父さんに婚約者さんを紹介しろと言われているって口にしてしまったのは、積み重なってしまった松枝くんの気持ちの表れではないかしら」
言葉にしなくても態度で解る。一緒に暮らしていれば尚のこと。そう諭す霧香に何も言い返せなかった。健二はただ黙って、器の揚げ餅を噛み千切っては、喉の奥へ押し込んでいた。
「だから松枝くんが悪い、という話ではないの。結局のところ、律保が自分の弱さを“それでいいんだ”と認められないところにある、と思うのよね」
居心地の悪い沈黙の中で、鍋がくつくつと小さな泡を立ててはそれのつぶれる音だけが響いていた。
「主人と娘を見れば、律保も少しは気付くと思ったんだけどねえ。やっぱ、実際に親をしてみないと解らないものなのかしら」
霧香はぽつりとそう零すと、手許に注いでいた視線を健二に向けた。
「娘っていうだけで、なんでも許せちゃうのが親なのだけれど。律保ったら、許さないのが岩田のお父さんではなくて、律保自身なんだってことに全然気付いてないの」
唐突とも思えるまったく違う話題に、健二は俯いた顔を少しだけ上げた。
「律保、松枝くんが一緒に岩田のお父さんのところへご挨拶に伺うと言ったのを断ったんですってね」
それは四ヶ月以上も前の話で、健二は思い出すのに少しだけ時間が掛かった。
「あ、はい。自分もそのほうが親父さんに変な憶測をさせずに済むかと思って」
本当は、連れ立って行きたかった。少しでも早くきちんと話して、剛三の許しを得たいと思っていた。
「けど、律保さんの気持ちを無視して自分の思うとおりにしたいってのはわがままな話かとも思いましたし。何よりいきなり連れ立って行けば、親父さんが驚いて何するかわかんないし」
「そこ、なんじゃないかしら」
「そこ?」
「そう、そこ。律保が直接関わって来たのは、十四年前のお父さんとだけ、なのよね」
霧香は言葉を探すようにしばらく口をつぐんだあと、一口だけオレンジジュースを飲み下して喉を湿した。
「なかなかね、幼いころについた沁みって、取れないと思うの。話を聞いて来ただけの私でさえ、律保から聞いて来た岩田のお父さんが、そこまで変わったなんて信じられないでいるし。だけど、律保は自分に対してではないものの、穏やかになった彼を見ているのでしょう? 混乱するわよね、きっと」
健二は逆に、霧香のいう“昔の剛三”が解らなかった。健二が霧香に尋ねたのは、健二には決して語らない本音の部分を律保から聞いていないかどうか、ということと、律保が自分に何を望んでいるのか知っていたら教えて欲しいということ。今の話がその問いの答えと関係があるのかどうかさえ判断がつかなかった。
そんな健二の疑問をよそに、霧香が自分の考えだけを口にする。
「今の律保は岩田のお父さんに対して、そんな自分であることに、すごく罪悪感を持っているんじゃないかしら。気持ちを切り替えられないと苛立ったり、許されるために会うわけじゃないのに、どこかで許されたいと思っていたり、それを自分のエゴだと自分を叱ったり、なんだか本当に、心が忙しそう」
と苦笑する霧香の表情は、どこか人生の先を往く“先輩”のように見えた。
「松枝くんと律保の、そういうところがよく似ているって、今日会ってみて思ったわ。なんでも自分がどうにかしないと、と気負い過ぎてしまうところ。松枝くんにしかできないことって、もっと別のところにあるんじゃないかしら」
――見守り、待ち続けるというのは、一緒には歩かない、ということではないの?
「一緒に転んだり間違ったりしながら、一緒に一つの道を並んで歩いていくのが、夫婦ではないかしら。夫婦って、二人三脚であって、追いつ追われつのかけっこではないと思うのだけど」
辛辣な言葉が、健二の心の奥底まで突き刺さる。遠回しに自分の間違いを諭され、健二はそっと唇を噛んだ。
「雪鍋って、実は大根おろしがネックなのよね」
霧香が鍋を覗いてそう言いながら、次の一杯を自分の器へ装った。
「火を通すと半透明で、本当に控えめなのだけれど。大根の甘みが鍋に入れた具の味を引き立たせてくれるの。目立たないけれど、とっても重要な役目。まるで素材を美味しく食べてもらえるようにって、そっと手助けしてくれる――どこかのお父さんみたいな存在ね」
どうして君たちはその存在に気付かないのかしら。
謎掛け、もしくは言葉遊びのような例え話に小首を傾げてしまう。目で疑問を訴える健二に、霧香は優しい微笑を返して来た。
「松枝くんは律保の父親にはなれないし、そもそもなる気もないでしょう? 律保の怖いものは、自分の中にある十四年前の岩田のお父さん。そして今の彼が、自分を許してくれないこと。それによって、松枝くんと岩田のお父さんの両方を失くしてしまうことが怖くて、無意識に体を壊してまでそれから逃げているんじゃないかしら」
両方を失くす怖さから、成すべきことから逃げてしまう。それは健二にも痛いほど覚えのある心情だった。
「自分は……どうしたら、いいんでしょう」
情けない問いが口を突く。自分で解決策を見い出せないことが腹立たしい。膝の上で握られた健二の手に力が入り、爪が掌に食い込んだ。
「最も適した人に、助けを求めてもいいんじゃないかな。いるでしょう?」
誰よりも一番、岩田のお父さんに近い立ち位置の人が。
はっと目を見開いた。こぎれいに整えられた白髪混じりの、上品で気弱な瞳をした、「これでも一応父親のつもりなのでね」と寂しげに零した人物が、健二の中で微笑んだ。
「父親って、娘というだけで、大概のことは許せちゃうものなのよ。私の父だってそうだったもの。だから学生結婚を認めてくれたんだと思うの。主人が竹内工務店で実績を見せてくれたから、安心してくれたんでしょうね」
霧香ははにかんだ笑みを浮かべ、のろけ混じりに遅まきの最大最終ヒントを告げた。
「律保が不安そうだったら、近くまで一緒に行ってもいいじゃない? 何も同席しなくたって、いつでも差し伸べる手がすぐそばにある。そう思うだけで、随分勇気をもらえるものだと思うわよ」
健二は「少しはヒントになった?」と微笑む霧香に、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
そうと思うといても立ってもいられなくなり、時間つぶしに飲むビールの進みが異常に早くなっていった。ついには腰を浮かして安田の戻りを窺う健二を見て、霧香が初めて声を上げて笑った。
「ホントに判りやすい人たちね。律保が松枝くんと会ったばかりのころを思い出しちゃうじゃないの」
「あ……す、すみません、えっと、あの判りやすいって?」
「きっと主人のことだから、千夏と一緒に寝ちゃってるのかも。だから、私も松枝くんを解放してあげる」
その言葉にかっと頬が熱くなる。健二はそれを心の中でひたすら鍋のせいだと言い訳しながら、促す霧香に何度も礼を述べ、安田家をあとにした。




