08. ハリハリ鍋(3)
平成十年三月二日。月日が流れ、また新年度がやって来る。健二と出逢ったころには二十六歳だった律保も、あと十日で二十八歳になる。
あれからも人事は半期ごとに変わり、もし今も人事部にいれば「御用納めの年だね」と嫌味ったらしく言いそうな“元”人事部長も定年を迎え竹内工務店を去っていた。
来月から勤続七年目、設計部へ異動してからは二年目になる。新年度が始まって新入社員の研修期間が終われば、部署内では新人扱いの律保にも後輩と呼べる若手が入って来る。そう思うと仕事にも新たな張りが感じられた。
今日は健二と暮らし始めてからちょうど十ヶ月目を迎える日だった。そして、剛三や健二と三人で払い続けて来た借金の振込最終日でもある。
(今日でやっと、また一つ結婚に近付けるよ、健ちゃん)
健二を起こさないよう小さな声で耳もとに囁く。律保は隣で寝息を立てている横顔へ、愛しげにそっと口付けた。律保は一つの大きな決心を、今日のこの日に健二へ伝えるつもりでいた。
仕事を終えてから、健二と駅で待ち合わせる。通勤ルートから少しだけ外れた電車に乗り換えた。グルメ通の福岡から、新しい鍋料理の店を教えてもらったのだ。どうしても健二とハリハリ鍋を囲みたかった。
「ハリハリ鍋って、鯨肉の鍋なんですか」
「そう。贅沢の極みよね。身軽になれた今日には打ってつけのねぎらいだと思って。健ちゃん、ハリハリ鍋も初体験なのね」
「はい。ハリハリってなんですか」
「水菜っていう関西の野菜の一つなんだけど。最近では関東でも売ってるから、健ちゃんも知ってる?」
「ああ、はい、知ってます。春菊よりも、バリっとした食感が堪らないですよねっ」
律保に答える健二の語尾が弾んだ。それに釣られて隣を見上げれば、律保のサプライズ鍋の提案を聞いた健二が、少年のような好奇心に溢れた瞳で自分を見下ろしている。彼を喜ばせることのできた満足感が、律保の顔もほころばせた。
「それそれ。バリバリ鍋じゃあ美味しそうな響きに聞こえないから、ハリハリ鍋って名付けられたんですって」
「さすが、鍋奉行。よくご存知でいらっしゃる」
二人のくつくつと笑う声が、繁華街の雑踏に溶けていった。
久しぶりの外食に贅沢を感じながら、ハリハリ鍋を二人でつつく。
「健ちゃん。本当に、いろいろとありがとう。ごめんなさい」
完済の祝杯をあげてひとしきり鯨肉の感想などで舌を滑らかにしたあと、律保はアルコールに助けられる形でようやく本題への口火を切った。
「いやあ、まだまだ。親父さんが俺にしてくれたことの半分にも……え、ごめんなさいって?」
鼓膜を通り過ぎた言葉が戻って来たかのように、健二は言葉の途中で問い返して来た。
「返済が済んだら、一緒にお父ちゃんのところへ結婚の許可をもらいに行く、っていう話。まだ、もう少しだけ時間をもらえないかな」
弾んでいたはずの声に、勢いがなくなっていく。居た堪れなくなって顔が下へと向いていく刹那、笑みを湛えていた健二の口の端も、ゆっくりと下を向いていくのが見えた。
「どうしてなのか、訊いてもいいですか」
健二は一緒に暮らし始めてからも、一日も早くまっとうな形で一緒に暮らしたいと言っていた。だから少しでも早く完済しようと言って、二人でかなり強硬な返済をして来た。だからこその今日がある。籍も入れないまま暮らし続けるのは剛三に対して顔向けができない、という性格の人なのだから、健二がそう問うのは当然だった。
「まだ、やり残していることがあるの」
律保は松枝の親族について、健二に初めて問い質した。
「私が自分のことで精一杯になっていて、健ちゃんのご親族にまで頭が回らなくてごめんなさい。結婚って、やっぱり当事者同士だけの問題ではないと思うの。ああいう親を見て来ているからこそ、私からもっと健ちゃんのご親族にも関心を寄せるべきだった、と思うことが一点と」
続く言葉が口ごもる。驚いた風に目を見開いて、器を手にしたままじっと律保を見つめる健二の目がそうさせた。
「もう、一点は?」
健二にそう促され、ようやく言葉を繋げられた。
「浜崎の、お父さんの、こと、なの」
岩田を名乗ったままの律保を、実子の淳也と分け隔てなく接し育ててくれた浜崎に対して、律保は自分がどういう立場で健二のもとへ嫁いだらよいのか考えあぐねていることを告白した。
「地味に籍だけ入れて報告の挨拶だけで終わらせる、という手もあるんでしょうけど、それじゃあ健ちゃんのご親族や、左官店時代から健ちゃんを応援して来てくれたり、お父ちゃんを支えて来てくれた、葦原のおじさんやリケン設備さんや、そちら関係の皆さんにも申し訳ないと思ったの。でも、披露宴をする、ということになれば」
「そうですね、律保さんにとって、お父さんは二人、ですものね」
剛三を立てれば浜崎を披露宴に同席させるのが難しくなる。その逆もまた然り。律保の考えあぐねていることを、健二が代わって言葉にした。
「松枝の親戚のこと、ですけどね」
一つ目の問題点への答えと思われる言葉を健二が口にした。あまりにも重い声に、律保が思わず顔を上げると、ぎくりとさせる寂しげな微笑が心臓をきゅっと締めつけた。
「律保さんに話していなかったことがあるんです。聞いてもらえますか」
健二はそう言いながら、律保の取り鉢に鯨と水菜を盛りつけた。
「俺の中ではもう済んだ話だから、怒らずに聞いてくださいね」
そう言って器を律保の前に置いた健二へ、小さくこくりと頷いた。
「岩田家のことを知ったとき、ふと思ったんですよ。俺が子供のころ住んでいた家や親の遺したものはどうなっているんだろう、って」
伯父夫妻に余計な手間を掛けさせたのではないかと思い、健二は中学まで世話になっていた伯父の家を訪ねたそうだ。
「あいにく伯父は社員旅行で不在だったんで、父の姉に当たる伯母が玄関口に出たんですけどね」
健二の伯母は、甥の口から出た突然の問いにかなり動揺したそうだ。そして恐らく秘密にしておくつもりだったのだろう、
『保険金も遺産も、今ごろそんなこと言われたって』
という言い方で、後ろめたさを健二に晒した。
「俺は保険金なんて一言も言ってなかったんですよ。両親が保険を掛けていたなんて知りませんでしたから。家や家財の処分をほったらかしたままですみません、どうさせてもらいましょうか、と訊いただけなのにね。俺が悪いみたいな言い方をしたんで、思わず伯母に問い詰めちゃいました」
律保はその話を聞いて、彼にそんな強い一面があることを初めて知った。
「そう……どうだったの?」
「伯母曰く、俺の学費にしてやるつもりで、当時すぐに全部処分したそうです。なのに俺が勝手に家を出たから、従兄弟たちの学費や下宿代に充てた、ですって」
両親の遺骨は、無縁仏のように合同供養してくれる寺に預けてしまったらしい。松枝の本家からは、一切の支援がなかったそうだ。
「そんな……」
「考えてみたら、俺、父方の祖父母に会ったことがないんですよ。何があったのかは知りません。ただ、子供心に思ったのは、日曜参観のときに、どうして家はおじいちゃんやおばあちゃんがいないんだろう、ってことでした。要は松枝にとって、俺は始めからいないのと同じだった、ってことみたいです」
そんな話を、健二は笑って語る。まるで彼に代わるかのように、律保がまくし立てた。
「そんな……っ、いくら健ちゃんの親戚の方とは言え、そんなのひどすぎるわ」
思わず器を置いて、身を乗り出す。のん気におかわりの肉を自分の器に装う健二本人にまで苛立ちを覚えた。
「健ちゃんは腹が立たないの? 伯父さまのお宅には、ずっとお中元やお歳暮も送って来たじゃないの。顔を見せに行こうとして電話をしても、なんだかんだ理由をつけて断られていたのは、そういうことだったの!? 言わなかっただけというよりも、隠すことで健ちゃんの権利を横取りしたようなものじゃないの」
「ああ、ほら。やっぱり怒る。だから内緒にしてたのに」
怒らせるつもりで話したんじゃない、と、律保のほうが逆に諭されてしまった。
「ほら、律保さん。冷めないうちにどうぞ」
健二は笑みを湛えたまま、律保にハリハリ鍋を勧めた。律保は渋々勧められた肉に噛みついた。
「食べている間は、律保さんの口をチャックできますからね」
憎らしいくらいに笑顔を崩さない。律保はそんな健二にも腹立たしさを感じ、思い切り水菜も頬張った。
「だから、松枝のほうは、もういいんです。父さんや母さんは、俺の中にいますから。心の中で弔っていこうと思います。それでいいかな、なんて。全部終わったことなんです。そこで立ちどまってウジウジしているのは、もったいない」
健二はそう言って、自分の器にもハリハリを装った。
「俺ね、松枝に見切りをつけてから、ずっと考えていたことがあるんですよ」
その言葉にどきりとする。鍋の横で控えている、熱を通す前の水菜に負けないくらいに張りのある声だった。
「すごくいい案だと思ってることがあるんですよ。律保さんに松枝の話を打ち明ける気になったのは、それに同意して欲しいからです」
きっと同じことを考えている。律保がそれを口にすれば歯切れ悪く口ごもってしまいそうな、ある意味で健二にとても失礼な提案を、律保も彼に伝えようと思って今日この席を設けたのだ。
「律保さんも同じことで悩んでいるような気もしましたし」
苦笑いを浮かべてそう零す健二は、律保がこの数ヶ月悩んでいたことに気付いていたとにおわせた。それを知った途端、鼻の奥がツンと痛んだ。律保は鍋の熱さのせいにして、思い切り鼻をすすった。
「同僚たちだけでしょう、家の事情を知らないのは。上司も親父さん関係の人も、みんな家の事情は知っている。いまさら隠し立てする必要のない人が多いんだし」
「待って」
そこから先を、健二に持っていかれるのは悔しかった。
「もう、健ちゃんにこんな答えを返したくなかったんだけど」
負け惜しみの言葉が、妙にシャキリと張りのある声になった。
「健ちゃんからのプロポーズ、一旦お断りさせていただきます」
健二の目が大きく見開かれ、あっという間に潤んでいく。彼は眉間に深い皺を寄せ、せわしなく鼻をこすった。律保はそれを見て、満面の笑みを浮かべた。
いつからか、健二は律保に涙を見せなくなっていた。その代わり、新しい彼の癖を見つけた。
「どうして」
と問う彼に、そんな新たな癖を今また出させたのは、いつの間にか泣かされる一方になっていた律保からの、ささやかな仕返しだ。そんな理由を言えるはずもなく。律保はこの一年弱で溜まりに溜まった圧倒的な劣勢を巻き返せたと確信し、勝ち誇った微笑を保ったままに宣言した。
「プロポーズは、もらう側がする。だから、私が仕切り直すの」
――岩田健二に、なってくれませんか。
「岩田剛三の息子、松枝健二と、浜崎豊の娘、岩田律保として、二人に列席してもらおう、ということでしょう? おんなじことを考えていてくれて、ありがとう」
つるりと零した種明かしが、律保に逆転勝利を伝えた。健二の細い目が再び大きく見開かれ、釣られたようにあんぐりと口まで開いた。健二の握っていた箸が、ころりと畳へ零れ落ちた。久しぶりに見る彼の充血し始めた目が、律保の背中を優しく押した。
「お父ちゃんの娘として、健ちゃんとではなく独りで会って来ます。娘としてお父ちゃんとの和解が済んだら、結婚してください」
とどめのように、満面の笑みを零してみせる。
「び……っくり、したぁ……」
ぽつりと漏らされたそれは、健二の独り言だったのだろうか。
「仕事に、律保さんを、取られるのか、って、俺……う……ぁ、ビックリしたぁ~……」
「ちょ、私ってそこまで信用なかったの?」
「だって! いっつも律保さん、仕事で詰めてるときって、いっつも……ッ」
「ああ、もう。そりゃカリカリして当たっちゃってるのは悪いと思うけど。っていうか、だから、お返事は!?」
いろんな意味で恥ずかしくなって来る。色気もなければ、大人びた緊張の伴うプロポーズでもない。だが、これがとても自分たちらしい。
「はい……はいッ」
健二はぼろぼろと溢れるモノを子供のように袖で拭い、しゃくりあげながら何度も頷いた。
「よし! じゃあ、末永くの縁起を担いで、締めのおうどんを頼みましょう」
律保は鼻の奥で感じるツンとした痛みを堪え、わざと明るい声を出して締めうどんをオーダーした。




