クロエが帰った後
クロエが帰った後、本来であれば俺は夕食の給仕をしないといけなかったのだが、みんな気を遣ってくれて休んでていいと言われた。
その言葉に甘えて、厨房でまかないを食べ、浴室で身体を拭いて自分の部屋に戻ってきた。
現実の中世ほど不潔なイメージは無い世界だが、大量のお湯を沸かすのは結構大事なので、毎日湯船に入ることは出来ない。
むしろ、貴族より庶民の方が近所の銭湯みたいな施設に入るので、風呂に入っている回数は多いかもしれない。
うちの屋敷では大体はお湯で濡らしたタオルで身体を拭く日が多い。
そんなもんでも、身体はそれなりにはきれいになる。
髪の毛も毎日洗いたいところだが、この世界の洗髪料で髪の毛を洗うと結構痛むので毎日洗わない方がいいらしい。
え? 毎日洗わないと臭そう?
臭くないって!
臭くないんだよ!
洗うときはちゃんと念入りにやってるから、臭くないんだよ!
私は臭くない!
ひとまず落ち着いて、後は寝るだけという所になって、さきほどのクロエとのキスを思い出した。
「ああ……もう……クロエ~~~!!」
今更と言えば今更だけど、突然クロエの事が恋しくなってきた。
「クロエ、クロエ、クロエ! あーごめん! 本当にごめん! なんかもやもやした態度でごめん! でも、本人を目の前にするとそういうの無理で……」
私だって、あんなに積極的にこられたら、好きになっちゃうよ。
もう、クロエったら!
もう! もう!
「……ん?」
あれ、俺、今女モードになってた?
「お、落ち着け、落ち着くんだ……深呼吸だ」
マリーのことは好きだけど、クロエのことも気がつかないうちにかなり好きになっていたらしい。
マリーもクロエのことは認めているようだし、大丈夫だろう。
大丈夫だよね?
だって今更クロエのことを突き放せとか言われても、絶対に無理。
「今度会ったときはちゃんと私からも言うように頑張るから……」
もやもやした気分で貧乏揺すりをしていると、扉を叩く音がした。
振り向くと、コレットが入ってくる所だった。
いつものように、本を持っている。
「え……まさかキスしろって?」
「当たり前です」
と、コレットが堂々と言った。
さっき、クロエとお別れのキスをしたばかりだ。
その直後に他の人とキスをするのは、なんだか非常によくない気がする。
「ご、ごめん。また今度にしてくれる?」
「嫌です」
コレットは椅子に腰を落として、本を開いた。
しかし、本のページをめくる様子が無いので、実はほとんど読んでいないようだ。
「嫌って言われても……ちょっと、そういう気分じゃ無いんだ。帰って」
「今日の分がまだです!」
と、コレットは真剣な目で俺を見上げた。
「別に配給じゃ無いんだから、今日の分って……」
「さっき、クロエさんと相思相愛キスしてました。私もあれ欲しいです」
と、コレットが本で顔の下半分を隠しながら、俺をじーっと見つめてきた。
「……はい? いま、なんと?」
「とぼけないでください。さっきのキス見てました」
と、コレットがなおもじーっと俺を見てくる。
「はぁ!? そ、そういうのよくないでしょ! のぞきは止めなさい!」
そうやって、コレットの頭を叩く仕草をした。
実際には叩いていない。
普段のコレットだとこういう仕草をすると、目をつむったりしてかわいげがあるのだが、なぜか今日はそういう様子が無い。
「あれは……クロエがお別れにって言うから、やっただけだから」
「むー! マリーとクロエだけずるいです!」
コレットがちょっと大きい声を上げた。
「な、なにが」
「テープ剥がしも参加できませんでした。私も参加したかったです」
と、コレットが不機嫌そうに言う。
「いや、あれイベントじゃないから……。それに一回剥がしたでしょ」
「私はアリスに何も約束してもらっていません!」
と、コレットが本を閉じる。
相当にご機嫌斜めだ。
「あれはただの冗談だからさ。真に受けないでよ」
「冗談でも、アリスに『コレットの奴隷です』とか言って欲しかったですぅ!」
と、コレットが平然と言ってきた。
え……コレット、実は結構性癖やばいんじゃ無い?
「ちょ、ちょっと、コレット、その本、見せてくれない?」
実は、コレットはいつも人の部屋ですごい本を読んでいるのでは無いか、という疑惑がわいてくる。
「い、嫌です」
コレットがうろたえて、本を自分の背中に隠した。
あ、怪しい。
しかし、見せてくれないならそれでいい。
「そっかー。じゃあ、キスはなしね。見せてくれたら考えてもいいけど」
そう言うと、コレットはもじもじして、少し悩んでから本を差し出してきた。
「レベッカとマリーには言わないでください」
え、出しちゃうの?
そこ、引っ込めといてくれた方が、俺がキスしない口実になってよかったんだけど。
しかし、出された物は仕方ない。
内心ドキドキしながら、その本を開いた。
ーウサギさんはキツネさんのおうちを訪ねました。
ー「もしもしキツネさん、小麦をちょっと貸してくれませんか。おいしいおいしいクッキーを作りたいんです」
ーすると、キツネさんは、大きな袋をウサギさんに渡しました。
ー「私の小麦を全部上げよう。おいしいクッキーをつくっておくれ」
「……ん?」
そのまま、ページをめくってみる。
どこを見ても、動物たちの名前が出てくる。
これ……童話というか、子供向けのお話?
本にかぶせてあるカバーを外してみると、
『読み聞かせの物語 4』
というタイトルが表紙に書かれていた。
「こ、子供ぽいって笑いますか」
と、コレットがうつむく。
あぁ、そういうことだったのか。
それが恥ずかしくてあんなに隠していたのか。
「別に、いいんじゃない? っていうか、もっとすごいのを読んでいるのかと……」
「すごいのって、なんですか?」
とコレットが不思議そうな顔で俺を見上げた。
「え……べ、別に」
言えるわけが無い。
それにしても、普段こんな本ばかり読んでいるくせに奴隷とかそういうアイディアが出てくるんだろう。
「アリス、本は見せました。だから、キスしてください。相思相愛のキスしてください」
と、コレットが俺の腕をつかんできた。
「い、いやいや、待ってよ。あれは特別だからさ。今日は勘弁して」
「ずるいです! 私の秘密を見ておいて、それはずるいです!」
コレットが必死で腕を引っ張ってくる。
秘密って……それぐらいいいじゃん、と思うのだが、本人的にはものすごく隠したいらしい。
「コレット! 頼むから、いい加減にして!」
と、叫んでいると、また誰かが入ってきた。
入ってきたのはマリーだった。
「コレット何してるの?」
「あ、マリー、いいところへ。コレットが、キスをしろって言うことを聞かなくて」
するとマリーが目を細めた。
張り付いた笑顔も怖いが、その表情も結構怖い。
「コレット、アリスの扱いは私が決めるって言ったわよね? なんで勝手にアリスに迫ってるの」
「だ、だって……」
コレットの声が小さくなる。
「そ、そうだよ、コレット。この前のリンチ……じゃなくて話し合いでそういうことになったじゃん。勝手に私にキスするのは駄目だから」
と、俺もコレットに言い聞かせる。
「そうよ。まず第一に、アリスは私の物なんだからね。クロエがいる間はおとなしくしてたけど、クロエがいなくなったら私の物よ。勝手なことは駄目!」
マリーの言葉に、コレットは完全に下を向いてしまった。
「マリー、あんまりきつく言わなくても」
「きつく言わないと聞いてくれないでしょ。ほら、アリス、私にキスをして」
と、マリーが自分の唇に人差し指を当てた。
「ちょっと待って、さっきクロエにお別れのキスしたばかりだから、なんか直後に他人にキスするのは申し訳ない気がして……」
「え? そうなの?」
と、マリーが怪訝な顔をする。
「そ、そうです。さっきのキスはすごかったです。私もやって欲しいです」
と、コレットが下を向きながら言った。
「なにそれ、アリス、どんなキスをしたのよ」
と、マリーが俺の顔を見てきた。
「ど、どんなって……普通だよ」
「普通じゃありません。あれは相思相愛な感じでした」
と、コレットが余計なことを言う。
「アリス、なにそれ!? 私じゃなくてクロエとそんなキスしたの? どういうこと?」
マリーが食いついてきた。
「ち、違うってば! コレット、余計なこと言わないでよ!」
「だって、本当です」
とコレットが言う。
「んん……もう!」
マリーが耐えきれないというように、顔を背けた。
「分かったわよ! じゃあ、今日は私もキスはしない! コレットもレベッカもキスは駄目! でも、明日からキスするからね!」
「は、はい……」
「コレット、行くよ」
マリーはコレットの手をつかんで、部屋を出て行った。
あぁ……本当に嵐のような数日間だった。




