迷惑な行動
夕方、俺は廊下をのんびりとモップをかけながらマリーと話をしていた。
「マリー、なんで昨日は止めてくれなかったのさ。本当に酷い目に遭ったんだけど……。マリーまでノリノリでキスしてきてさ」
「そんなに嫌だった?」
マリーが普通に聞いてきた。
「止めてって言ったじゃんか……それを聞かないで三人でもみくちゃにしておいて……」
「そう? 男の子ならそういうの好きかなーと思ったんだけど……」
と、マリーがつぶやく。
「え、もしかして、三人でそういう相談してやったの!?」
「それは違うよ。あれは本当に偶然。でも、レベッカも本当に抜け目ないわよね。勝手に一人でアリスの部屋に入るなんて」
マリーがつぶやく。
「いや、もう……なにが正しくなにが間違っているのか、俺には全然分からないよ……」
肩を落としたままモップを押していく。
「えー、みんなにキスされてうれしくないの?」
横から同じようにモップを押しながら、マリーが声をかけてくる。
「俺が男の身体だったらね……。あのさぁ、本当に体格差考えてよ。それに敏感なんだから、あんまりベタベタされると変な刺激が来そうで怖いんだよね」
「そっか」
マリーが納得したように頷いた。
「っていうか、マリーだって俺がレベッカとかコレットにキスされるの嫌でしょ」
「そうね。嫌だけど、やっぱり喧嘩になるし……。私が恋人なのは変わらないけど、他の二人にもちょっとぐらい触らせてあげてあげないとかわいそうかなって思い直して」
と、マリーが真面目な顔で言う。
待っていただきたい。
「あの……俺の人権は?」
「ジンケン?」
マリーが首をかしげる。
あ、この言葉も適当な単語がなかった。
なるほど、この世界に人権は無いわけですね。
だとしても、幸福の追求権ぐらいはあるはずだ。
「あ、あのさぁ……あ、あんまり、もみくちゃにしないでね。動けない状態であちこち触られるのは、本当に怖いんだから……」
「えー、我慢できない?」
「我慢できません……」
うめくようにつぶやいた。
「もみくちゃにするのが駄目なら、みんなでアリスの頭を撫でるのは?」
と、マリーが首をかしげた。
それは……なんかちょっと良さそう。
ち、違う!
いやいや、駄目だろ!
大体、後頭部をうっかり触られたら酷いことになる。
「ダ、ダメダメ! マリーだけにしておいて!」
「そっか。うーん……でも、コレットは言うことを聞かないし……」
マリーがブツブツつぶやく。
この前、言うことを聞かせると息巻いていたが、すでに諦めたらしい。
まぁ、そりゃそうなるよな。
「頼むからもう止めて……」
そんな会話をしていると、廊下の向こうから男がやってきた。
先ほどまでどこかに出かけていたらしく、外套を着ている。
「アリス、ちょっと書斎まで来てくれないか」
その言葉に身体を硬くする。
「は!? 何言ってるんですか。今、俺男モードですよ。いじっても楽しくないですけど」
そう返すと、男は手を振って否定した。
「そういうわけじゃない。いいから、来てくれ」
それだけ言うと、男は書斎の方に歩いて行った。
「ん……仕方ない、行くか」
俺はモップを壁に立てかけた。
「私も行く?」
マリーが聞いてきたが、俺は首を振った。
「いいよ。いつもマリー同伴じゃ格好悪いじゃん」
「また女の子に戻らないでよ」
「戻らないって」
手を洗ってから、書斎の扉の前に立つ。
深呼吸をしてから、扉を叩いた。
「失礼します」
部屋に入ると、男がいつものように執務机に座って待っていた。
「早かったな」
「なにか用でしょうか?」
寄せ付けないような言い方をすると、男が苦笑した。
「おいおい、手厳しいな。今日は真面目な話で呼んだんだ」
「あ、そうだったんですか……申し訳ありません」
態度が悪かったなと思って、頭を下げた。
「だけどな……話の前に一ついいか?」
「なんでしょうか」
「もうちょっと……なんとかならないか? 面倒な書類仕事をしているのにキャーキャー騒がれてみろ、仕事してるのが馬鹿らしくなる」
「あー……」
気まずくなって視線をそらす。
「お、俺がやってるわけじゃないですよ。マリーたちが俺に襲いかかってきてるだけなんですから」
「それはそうかもしれないが……全く」
男が小さく愚痴を言ったが、顔を上げて話題を切り替えた。
「で、本題だ。お前、せっかくこっちの世界に来たのに、毎日屋敷の中にいても退屈だろう?」
あ、外に出ろという誘いか。
外の世界が怖いので、ちょっと身を固くした。
「い、いや、大丈夫です。意外と平気なんですよ。前の体だったら、もっと運動したいとか騒ぎたいとかいろいろ思ったんですが、この体だとあんまりそういう欲求無いらしくて」
これは本当だ。
毎日、屋敷の中で雑用をしたり、マリーたちと話をしているだけでも特に不満は無い。
ただ、あのキス攻勢には困っているけど。
「なるほど、そんなものなのか……」
男が不思議そうな顔をする。
まぁ、理解できないだろう。
「ところで前の世界というのはどんな感じだったんだ?」
男が唐突に話題を振ってきた。
そういえば、前の世界のことを聞かれたことが無い。
「あ、ま、前の世界ですか……?」
ちょっと言いにくくて、口をつぐんだ。
「どうした? そういえば、お前、元の世界のことをあまり話したがらないな」
「戻れないかもしれない世界のことを思い出すと……地味につらくなるんで……」
そう答えると、男が気まずそうな顔をした。
「そ、そうか、すまんな」
「それに……今の世界と違いすぎるので、説明しても分かってもらえないだろうし、変な風に思われるなって思っているので」
「ん?」
男が顔を上げた。
「これでも、この世界に馴染もうとしてるんですよよ。いずれ元の世界に戻ろうという気持ちはありますが、もしかしたら戻れないかもしれないって……」
そう言いかけたら、心が不安定になってきた。
だ、駄目だ。
首を振って、自分の発言を否定した。
「と、とにかく、元の世界はここと違いすぎるので、元の世界の話をするとマリーやご主人様に宇宙人みたいに見られると思うので、それが嫌なんです」
「なるほど、そうか……しかし、もったいない」
「そう言ってもらえるのはうれしいですけど、俺は結局ただの大学生で、実際に何かの仕事をしていた専門家とかじゃないんですよ。なので、通り一遍の知識はあるけど、この世界で元の世界にあったものを再現できるような知識や技術力はないんです」
「なにもそこまでの物は求めていない。物珍しい話だけでいいんだが」
と、男が食いついてきた。
「そうですか。なら……もうちょっと、そんな気になったら……」
いきなりそんな気分になれない。
すると、男が咳払いをした。
「話を戻すが、サロンに行く気は無いか?」
「だ、だから、この身体だと知らない人に会うと怖いんですよ。だから、もうちょっと慣らしてからにしようと思います。特に貴族の人に会うのが怖いんです。礼儀作法も全然分からないし……」
「別にサロンに居るのが全員貴族というわけじゃ無いぞ。普通の平民だっているさ」
男が軽く笑った。
「そ、そういわれても……」
気分が落ち着かなくなってくる。
たしかにいつかは外に出ないと行けない。
外に出ないと情報は得られないだろうし、日本に帰るなんて夢のまた夢だ。
しかし、怖い。
「でも、今回はちょっと……もう少し待ってもらえませんか?」
そう聞くと、男が気まずそうに顔をそらした。
「お前は怒るかもしれないが……実は今日、サロンの知り合いにお前のことを話してしまったんだ」
「あぁ……雑談で俺の話が出たんですね」
この館は俺たちメイドが闊歩していて、男と言ったらアルフォンス・フィリップ・ガストンしかいない。
アルフォンスとしては世間話をする相手がほぼ居ないわけで、サロンで世間話に花が咲いたんだろう。
「そうですか。やたらかわいい銀髪の女の子を拾ったよって話したんですか?」
そう聞くと、男がさらに気まずそうな顔をした。
「いや、別の世界からやってきた元男だって話したんだが……」
俺は固まった。
は!?
はぁ!?
な、何考えてるんだ、こいつ!
「なっ……何考えてるんですか!? 俺の正体ばれたらどうなるか!?」
「お、おい、大げさだな」
「大げさじゃ無いんですけど! この世界魔女狩りとかないんですか!? 変な疑いをかけられて火あぶりにされたりするのは嫌ですけど!」
「魔女狩り? なんだそれは」
男は本当に知らないらしく、首をかしげた。
「魔女狩りで無くても、異端審問とか、宗教裁判とか、とにかく俺みたいな異質な存在は迫害されるものでしょう!?」
俺は指を震わせながら、大声を出した。
「そ、そんなことないだろう。とりあえずうちのサロンは大丈夫だ。奇人・変人大歓迎の、かなりゆるいサロンだ」
「い、いや、そのサロンは緩いかもしれませんが、そこから噂が広まったらどうするんですか!? や、やばい、早く身を隠さないと……」
途端に不安になってくる。
今にも屋敷の周りに剣や槍を持った人がやってくるんじゃ無いかという妄想が頭の中を駆け巡る。
屋敷の中にいたのは、そもそも外に出たい欲求が少なかったのもあるが、それ以上に怖かったからだ。
ここが現代日本のような社会であればなにも恐れなかったが、中世に似ている世界なので異端な物は排除される可能性がある。
この世界の住人として自然に振る舞える自信が無いので、まだ街にも出ていない。
それだけ慎重に行動していたというのに……!!
「な、なんてことをっ……。い、今すぐサロンに行って、俺の噂を否定してください! よその世界から来たというのはただの冗談ですって言ってください!」
そう言うと、男はため息を吐き出した。
「それは……もう無理だな。あの時計も見せてしまった」
「は!?」
気が動転して一瞬よろける。
あわてて、壁に手をつく。
「おい、大丈夫か」
男が立ち上がって近づいてくるが、俺は手で男を拒否した。
「だ、大丈夫です。な、なんでそんなことをするんですか!?」
「それは……あんな珍しい物があったら見せたくなるだろう」
男が少し気まずそうに言った。
それはそうかもしれないが、自重してほしかった。
「う……ど、どうしよう……」
「おい、深刻に考えすぎだ。そんなにたいしたことじゃ無い」
男が俺をなだめる。
「たいしたことないって、俺はこの世界ではなんの裏付けも無い存在なんですよ!? 変な疑いをかけられて、問答無用で有罪判決されて死刑にされるかもしれないし……」
死刑という言葉を自分で言ったら、立っていられなくなった。
崩れ落ちたところを、男に支えられた。
「お、おい、大丈夫か?」
「ど、どうしよう……」
男を見上げる。
「この世界、元の世界で言うところのヨーロッパの中世に似た雰囲気なんですよ。その世界というのは魔女狩りという、気に入らない相手を『魔女』に見立てて処刑した歴史があります。それを思うと……」
「なるほど、そういう凄惨なことも時代や場所によってはあるだろうな。しかし、ここはそんなことはない。安心しろ。なんなら、俺の知人にも会ってみてくれ。そんなことをするような連中じゃ無い」
男は無断で他人に話をしたことは悪いと思っているようだが、それが危険なことだとは全く認識していないようだ。
どうする。
男が正しいのか?
それとも、俺の認識の方が正しいのか?
この世界のことが全く分からない。
「そ、その友人というのは……信頼できる人ですか?」
「あ、あぁ……まぁ、少し口が軽いが」
男の言葉にまた目眩がした。
このまま屋敷の中にこもっていても、噂はどんどん広がるに違いない。
噂が無責任に広がって、突然非難や無遠慮な興味がこちらに集中したら収拾がつかなくなる。
噂が広がる前に手を打たないといけない。
「……分かりました。行きます」
「そうか。それはよかった」
こちらの気持ちも知らず、男は笑った。
「行って、その噂を否定します。この姿を見れば、誰も元男なんて分かりません」
震えながらそう宣言すると、男は変な表情を浮かべた。




