2階のバルコニーにて
書斎を出てから、なんだかモヤモヤした気分になってきた。
「なんか、風に当たりたいな……」
思わずそうつぶやいた。
そういえば、ずっと屋敷の中にこもりきりでほとんど外に出ていない。
もちろん洗濯とか雑用で庭には出ているが、そういう問題じゃ無い。
そうだ。二階の空き部屋の先がバルコニーになっていたな。
「よし、そっちに行くか」
廊下を抜け、階段を上る。
この屋敷は実は二階建てでかなり広いのだが、住んでいるのは自分を含めて4人のメイドとアルフォンスと執事のガストンと料理人のフィリップの7人だけだ。
レベッカの話では手伝いの少年たちもたまに来るらしいが、今のところ見たことは無い。
その7人が生活するには屋敷の一階部分だけで十分で、二階はほとんど使われていない。
階段を上がり、人気の無い二階に上る。
「まじで廃屋みたい……」
たまには掃除しているので汚れては居ないが、本当に物が無い。
廊下に置かれている机と空の花瓶が目に入る程度で、壁には絵も鏡もかかっていないし、絨毯も敷いてない場所が結構ある。
大きな足音を立てないように廊下を進んでいき、目当ての空き部屋に入る。
ここにも何も無い。
その部屋の奥の木製の扉を掴んで引っ張る。
「うぐっ……立て付け……悪いな……」
木製の扉がガタガタ言いながら開いていき、ついにバルコニーへの道が開けた。
「ふぅ……」
バルコニーは4畳半のアパート並みの面積があり、上を見れば青空が広がっている。
こんなところにパラソルでも刺せばかなり優雅な雰囲気になるだろうが、このバルコニーにも何も無い。
「もしかして、この屋敷って貧乏……? いやいや……」
表だって聞いたことは無いが、そんなにお金に困っているような様子はないし、料理人のフィリップも値段を気にせず食材を買っているようだった。
ということは、単純にあの男が屋敷を豪華に飾りたてる趣味が無いのだろう。
「あー……いい感じの微風」
風が吹いて、俺の銀髪がふわふわと揺れる。
自分の髪の毛がそれなりに長いと、風に吹かれた時に結構気持ちいい。
もっとも、強風だとぐちゃぐちゃになるので嫌なのだが、これぐらいの風なら本当にちょうどいい。
バルコニーの端まで行って、庭を見下ろす。
庭ではコレットが背伸びしながら洗濯物を取り込んでいた。
「あはは~、ごめんね私だけサボってて」
気づかれないように小さくつぶやいて、手すりに肘をついて、頬杖をした。
上を見れば電線も無いきれいな青空なのだが、横を見るとすぐに視界を遮られる。
このあたりはどうも高級住宅街らしく、この屋敷に似たような石造りの大きな2階建て・3階建ての建物がどちらの方向にも立っている。
それぞれの建物には大きな庭があるので、本物のヨーロッパの町並みのような建物がひしめき合う圧迫感はない。
でも、全方向を建物で視界を覆われているわけで、この建物の向こうにどういう世界が広がっているのかはここからはわからない。
せめて、通りがまっすぐ走っていればいいのだが、どの通りも微妙に歪曲していて、数百メートル先までしか見通せない。
「ってか、まじでここどこ……?」
そんな町並みを見ながらつぶやいた。
「ってか、俺って誰……?」
風に揺れている銀髪を視界の隅に捉えながらつぶやいた。
「で、この状況は何?」
と、顔を動かさずに視線だけを自分の服装に向けた。
メイド服。
「で、あの人たちはなんなわけ?」
と、庭で洗濯物をかごに突っ込んでいるコレットに視線を向けた。
「わっけわかんないな……」
視界の中になにもいれたくなくて、空を見た。
見事な青空で、遠くに真っ白な雲がちょっとだけ浮いている。
この青空だけは日本で見たものと全く同じだ。
「大気の組成とか太陽とこの惑星の距離が同じだからかな……」
と、理屈を言ってから首を振った。
そういうことを言いたいんじゃ無い。
「なんでこんなにもやもやしてるんだ……?」
急に風に当たって一人になりたくなったのだ。
でも、なんでだろうか?
どうしてそんな気分になったのだろうか?
「さっきのアルフォンスとの会話……?」
先ほどの会話をできる限り思い出す。
セクハラされたけど、別にそれは自分の中ではたいしたことじゃ無い。
なにかが俺の中で引っかかったんだ。
「あ……『女が板についている』って……」
男の台詞を声に出して、その言葉が自分を変な気分にさせたことに気がついた。
「あー……女が板についている、ね。そうかー。俺ってもう男じゃ無いって? いや……冗談でしょ」
手すりに手をかけながら、青空と通りの向こうに消えていく馬車を交互に見た。
「おっかしいなぁ……おっかしいなぁ……」
下を見ると、コレットが洗濯物を全部取り込んで建物の中に入っていくところだった。
「だってさ、俺、男だぜ? 演技はしてたけど、俺、男だぜ? たしかにこの身体ってかわいいし、自分で見ていても楽しいけど、でも男だぜ? 慣れちゃうのは違うんじゃ無いか……?」
つぶやきながら、力が抜けそうになった。
正直、最初の頃はとにかく恐怖心でいっぱいだった。
正体がばれて放り出されて路頭に迷って飢え死にするという恐怖があった。
だから、精一杯女のふりをしながら、この世界になじんでこの屋敷で生活基盤を築こうと努力していた。
そして、身体が少しなじみ、なんとかメイドとして仕事が始められたときに、すごくホッとしていた。
でも、マリーとのゴタゴタでついに正体を白状してしまった。
正体を白状しても、男もマリーたちも変わらずに俺に優しい。
それはうれしい。
でも、それでいいというわけじゃない。
「だ、だめだ。なんか頭が混乱してくる。落ち着け……落ち着け……。まず、俺はこの世界に来たかったか?」
思い返してみる。
前の世界では、異世界転生ものの作品はかなり読んだし、それらも普通に楽しんだ。
でも、本当に異世界に行きたかったかと聞かれれば、それは違う。
もし俺が社会に出た後にボロボロになり絶望していたなら、元の世界を捨てて別の世界に行きたかったかもしれない。
しかし、俺はまだ大学生で、まだ就職すらしていない。
就職したら本当にボロボロになるのかもしれないが、格好良く仕事している人だっているんだから、そっち側になれたかもしれない。
とにかく俺は前の世界で、まだなにもやりきっていない。
「そうだ……そうだよ。別に俺はこの世界に来たくて来たわけじゃ無い。だから、帰らないと」
だというのに、なんで三勇士の話をうっかり忘れてたりするんだ?
完全に日常に埋没している。
「違う。俺は帰る……帰るんだ。それは最初から変わらない……」
でも、男の台詞が引っかかる。
この世界に来て、身体がなじむまでずいぶんと具合悪くて苦労した。
最近ではかなりなじんできて、生活には支障が無い。
でも、それっておかしいんじゃないか?
全然違う身体なんだから、具合悪かったり生活に支障があるのが当たり前なんじゃ無いか?
「ははっ……ってことは、また男の身体に戻ったときに吐いたりするわけ? それは勘弁だな」
自嘲気味に言ってから、誰も居ない庭を見た。
本当は、ここまで馴染んでしまった身体から元の身体に戻るということを信じれなくなってきている。
女が板についたってことは、完全に俺とこの身体が完全に融合してきている証拠じゃ無いか?
「ってか……さ……俺って、本気で元の世界に帰れるって信じてるのか?」
自分で自分に質問をすると、頭がくらっとした。
駄目だ。
ちょっと、この質問は俺には負担が重すぎる。
「だ、大丈夫だって。帰れるって。昔の三勇士とかも元の世界に帰ったって言うんだから、俺だって帰れるよ。間違いない。たぶん、絶対」
急に空気が寒く感じられて、身体がぶるっと震えた。
「なに深刻に考えてるんだよ、俺! たいしたことないって。それにこの世界だってみんな優しいし……」
と言いかけて、首を横に振った。
それは帰れないと諦めたときの言い訳だ。
「だから、違うって。俺は帰れるから。それにひょっとしたら、元の世界とこっちの世界を自由に行き来できるとかいう事もあるかもしれないだろ。そしたら、交易チートで大金稼いだり、マリーやアルフォンスに日本の物を見せることだってできるだろうし……」
言いながら、俺の中の無意識が『それはない。絶対に無い』と反論してくるのを感じた。
実際のところ、帰れる可能性も未知数だし、一度帰ったら二度とこの世界に来ることはできないだろう。
この世界に来たのは天命と言うより事故というのが正しい気がする。
事故を二度も起こせるとは思えない。
「あーもー、止め止め! ったく、アルフォンスが女が板についてるとかあほなことを言うから、変に思い詰めたじゃ無いか。全部あいつのせいだ」
頭の中のもやもやが消えるように頭を振り、バルコニーを後にした。




