57話 A to Z《End Point》
「ここだ。この見晴らしの良い高台で虎龍院さんがやって来るのを待つ」
機銃席のミナトが手を上げて合図する。
あらかじめ観測地点としてた場所に2台のバギーが停止した。
赤褐色のなだらかな斜面の上は見晴らしが良い。高低差がかなりあって遠方をくまなく眺望出来るスポットだった。
タイヤが止まることで走行の暴風が止む。エンジンが停止することで雑音も過ぎ去り、自然界の音色が静寂を生んだ。
長時間風に晒されていたという感覚だけが肌の表面を僅かにちりちりさせている。
降車した夢矢はとと、と斜面のキワへ小走りで駆け寄っていく。
「うわぁ~すごい! こんな綺麗な景色がリアルで見られるなんて夢みたい!」
膝をついて這い這いの姿勢になって崖の下を覗き込む。
なだらかとはいえかなり高い。足でも滑らせればそのまま岩肌に削られながら転げ落ちてしまうだろう。
落ちぬよう地面に両手両膝をつきながら「わぁぁ……!」と花のような笑みを浮かべた。
「ここが大地……! 僕たち人間が立つべき本物の世界……!」
あどけない双眸にいっぱいの紅と灰の斑が広がる。
厚い雲の絨毯の下には起伏の激しい岩石地帯が曲線を描く。そこいら中に突き立つ石柱が影を伸ばして陰影のメリハリを作る。
そんな自然的景色はきっとノアの民にとって絶景だろう。これらすべてが映像ではない。手で触れられる正真正銘の解放世界なのだ。
「こんな素敵な場所を人類の故郷に出来たらなぁ! 父さんは人類の未来のためにこの場所を目指したんだァ!」
少年だか少女だか区別の付きづらい瞳が爛々と輝く。
地質学者として研鑽を重ねる父への尊敬が秘められている。
絶景を前に感動する。そんな姿はただ一介の夢見る少年でしかなかった。
父親の危機でなければもっと素直に大地というありがたみを謳歌していたのかもしれない。
地べたへあぐらをかいた愛は、すぐさまALECを立ち上げる。
「現在時速約60kmで移動を開始して約1時間……67分ほどとし、一般的な人の歩く速度は毎時4km。食料は潤沢にあって餓死の心配はなくってBキャンプ崩壊からおよそ20日丁度が経過済み。そうなると……」
半透明の文字列を目で追えぬ速度で叩いていく。
文字を打つということに慣れていない人間からすれば異次元でしかない。
「あー……細かい計算とかその辺はいらないと思うぞ。どのみちこの先を目指しているならこの景色のどこかを必ず通るはずだからな」
ミナトは凝り固まった筋肉をほぐしながら言った。
愛は目を丸く、くりくりさせる。
「そうは言うけど通り過ぎちゃってる可能性だってあるでしょ。もし虎龍院さんの先回りに失敗してたりでもしたら大変だよ」
「追わないぞ、ここが終着だ」
キーボードを打つ指がぴたり、と止まった。
首を軋ませるようにしながら隣へ立つミナトを見上げる。
「それっていったどう、いう……っ」
言いかけてハッ、と。全身がふるりと震えた。
さすがは学のある賢い科学者だ。理解が早い。
愛は眼前に浮かぶモニターを閉じてから声を潜める。
「……つまりミナトくんはここで虎龍院さんを見つけられなかったら生存の可能性は零確って言いたいんだね?」
ミナトも彼女を真似て夢矢に聞こえぬよう「残念ながら」静かに肯定した。
もとよりこの星で長く生存すること自体が異常でしかない。死んでいて当然と考えるのが妥当だろう。
しかし夢矢のために諦めず賭けている。それがこの『寸前』を眺望可能な場に急いだ理由だった。
「この風景のどこかに夢矢の父が迷い込まないのなら道中ですでに力尽きてる。あるいはもしオレたちより先に進んでいたとして確実に死んでるはずだ。もし5時間くらいこの場で待機しても現れないようなら任務は失敗とみなして撤退を開始しよう」
ミナトは、場に集う久須美や杏に視線を配りながら淡々と告げた。
この任務はどう足掻いてもここで終わり。これ以上の先は存在しない。希望も思考ももはや必要ない。
たとえリーダーといえども独断が許されるものか。特にあちらのリーダーであればなおのこと。
「ちょっとお待ちになってくださいな! なぜこの先にいるという可能性の一切を考慮なさらないの!」
声を上げたのは久須美だった。
と、ミナトへ詰め寄ろうとする彼女の肩に手が触れる。
杏は、振り返る彼女へ静かに首を横に振った。
その身にはとうにパラスーツをまとい直しており帯剣も済ませている。
「もしこの先に進んでいたとしたらそれでも生存確率は確実に零だって、そう言ってるのよ」
「冗談でも言って良いことと悪いことがありますわよ!? 理由をお聞かせいただかねば納得は致しかねますわ!?」
久須美は彼女の手を振りほどきながら怒りを顕にした。
ここまで生存していることを前提に動いていて唐突にそれを否定する。そんな行為をまともに受け入れるはずがない。
「…………」
だが、これだけは絶対なのだ。
ミナトは騒ぎを無視し、無言で人影を探す。
通過だけは絶対に見落とさぬよう目を細め、遠方をくまなく注視しつづけていた。
そんな彼の横に杏が並び立つ。
「特に説明をしていないってことは置いてきた信もその理由を知ってるってことでしょ。あるいはアザーの民だからこそそうしなくちゃいけないことを知っている」
「察しがいいな。確かにノアの民なら知らなくてもおかしくはないが」
「ならちゃんと私たちにも説明して。アンタがそんな残酷な判断するとは思えないの」
するともはや久須美だけではない。
杏と愛も含め、じっと。説明を求めるが如き険しい目つきで彼の横顔を見つめていた。
これはノアに常識があるのと同じ。アザーにもアザーの常識というものがある。もし禁を犯す者がいたとすれば誰だろうと助けようがない。
その時ふと風向きが変わる。止まっていた風が時を動かすようにして崖上の一党らを煽った。
「んぇあ……? なぁに、この音ぉ?」
運転席でぐったりしていたはずの珠が異変に気づく。
そして彼女の気づきを皮切りとするように気づきが次第に広まっていった。
杏、久須美、愛の3人はきょろきょろ首を振りながら音の出所を探る。
「これって……鐘の音かしら。知覚にまで響いて共鳴するような不思議な感覚……」
「歌う、音を出すという意味で使われるシンギングの音に似ていますわね。倍音だから音が小さくなっていっても響きが長くつづきますの」
「しかもこれは自然が成形可能な音域の音ではないね。明らかに人工的に加工され調和を施された自然界にあり得ない音色をしているかな」
聴覚に感覚を研ぎ澄ませながらよぉく耳を澄ます。
ホォォォン、ホォォォン。音がする。
コォォン、コォォン。風に乗ってやってくる。
車上では向かい風やらエンジンやらの騒音でかき消されていた。しかし今こうして人工的な音の一切ない超自然環境でならば聞こえる。
「この音、西側から聞こえてきてるわ」
「つまり……虎龍院氏がやってくるであろう逆側の方角からということになりますわね」
2人の視線はアザー西側へと一致していた。
西側を風上として吹き荒れる暴風に混じり、小さく長い音がここまで響いている。
そして夢矢はしっかと握ってシワだらけになった手紙を広げた。
「そうかこの音が父さんを呼んでいるんだ! つまり崩落したBキャンプからこの音のみを頼りに西を目指しているはず!」
場の空気が唐突にぴりりと引き締まるかのようだった。
虎龍院剛山は、なんらかの少女を担ぎ、この音の根源を探している。行き着くための目的はなく、ただ虫が花に誘われるようにして先を目指しつづけている。
なおアザーの民であるミナトはずっとこの音に気づいていたし、きっと信だって同じ。
今ではなく、この星に降りてからというもの、風向きが変わるたび、ずっと。
人というのは気づかねば気づけないことも多い。観測し、有ると決定づけて初めてそれを知覚することもある。
そしてなにより案内人のプロであるミナトが示したこのラインこそが、その気づきの分水嶺。音の根源に誘われこれ以上先に踏み込めば待っているのは絶望と死だけ。
「ミナトさんこの先にはいったいなにがあるんですか!? 僕の父さんはいったいなにを発見してアザーの西側を目指しつづけているんです!?」
夢矢はたまらずといった様子でミナトの腕に縋り付く。
手紙をもったまま小さな手でジャケットの袖をきゅう、と握った。
他のメンバーたちも真剣な面持ちで彼に視線を集めた。
「文明だよ」
そして誰もがその一言で愕然と息を呑む。
ミナトを覗く全員が戦慄した。
誰もが思いもよらぬ常識の外の単語を耳にしている。
「……ぶん、めい? そ、そんな……この星ってなにも生きることが出来ないから死の星と呼ばれているんじゃないんですか?」
「西側にあるのは文明といっても滅んだ跡の旧文明の遺物ってやつだ。そこには生命の気配はなく、あるのはなにかが生きて生活していたという痕跡のみだけ」
ミナトは丁度良い位置にある夢矢の頭にそっ、と手を置いた。
内側に空気を含んだ髪はふわふわと弾力があり優しく押すだけでも心地よい感触をしている。
しかし彼は青ざめきっていた。それ以外もまた面を食らったような表情で硬直している。
ミナトは、そんな白痴のノアの民たちのほうを見ながら、薄く笑う。
「そこには何人たりとも、人類であればこそ立ち入ることは許されない。なにせ向かえば最後、AtoZという生から死までを意味する紅き灯火の持ち主――幾数千を超えるAZ-GLOWの徘徊場所に突っ込むことになるからだ」
これこそが死の星の真実であり、ノアの民へと開示された。
それこそがありのままの事実だった。
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