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第二十八話

(1)

 克と佑子が橋本医院で別れたあの日…あの日曜日…っを、開けてその翌々日の火曜日…。克は六日後の彼と同じように、時刻は幾らか早いが、それでも早朝…そして自室で…襟の乱れた制服姿でベッドに腰かけて、蛍光灯の光にショボついた眼を隠す様に深く頭を垂れていた。

 それもこれも…カーテンは閉め切り、安眠に十分な暗がりは確保された…それなのに肝心の瞼が落ちてはくれない…全ては、その所為だった。

 当たりは付いているのだ。

 その一つ。それは二日前の日曜日…克は佑子と別れてからフラフラと部屋に戻り、訳も分からないままに泥のような眠りに付いたこと…。

 部屋に帰りついて…内鍵だけは疲れきった体で、不承不承ながら動かした。それ以外で彼が覚えているのは…リビングと廊下を仕切る木製のドアを閉めながら、

(急いだとは言え…外出するからって、倒れているやつを尻目に服着替えたのは、やっぱ薄情だったかもな…。)

そんな感慨が、酷く重い頭をよぎったこと…。それと、突っ伏す様にベッドに倒れ込んだときに、

(…女臭い…。)

そう照れ隠しの様に心の中で呟いて、既に眠りに付いてしまったかの様に思い通りにならない体を引きずり、わざわざ床に引いた布団に寝直したこと…そんなところだろう。

 そうして、もう一つの理由は…目覚めたとき、そこに佑子が居なかったから…それに尽きるのだろう。

 要するに、佑子はあのまま橋本医院でしばらく休んで、それから家に戻ったということになる…多分。 佑子は自分を最低だと言って泣いた。その苦しそうな表情が、克の瞳から、くしゃくしゃになった顔を隠す様に涙を拭った細い手首が…克の脳裏から離れない。

 …人間とは現金なもの…眠りを貪って、満ち足りるまで佑子のことなど頭の内側から消えていたというのに、宵の口に眼を覚ましてからは、佑子のことが気になって眠ることが出来なくなるとは…。こうして、克はただただ佑子の不在を…次に何が起こるか分からない、手探りの未知の世界に脅えている。…ちゃんと佑子から部屋の鍵を取り返し、それを心得た上で内鍵を回して、佑子を一時の眠りから締め出しておきながら…。

 とは言え、例え克の行動に佑子への思いやりが欠けていたとしても、気絶するほど自分を追い込んだ佑子…おそらくはそれと同じ程度に、ただ後は眠るしかないほど心を砕いていた克をただただ闇雲に責め立てる様なことはしたくない。だから、これだけはあえて付け加えておこう…克の行動に落ち度はなかった。それに何より、克は佑子が別れ際に言ったことを…『続ける』とういうあの誓いを、心の底から…それこそ骨身に染みるほどに、信じているのだ。それだけは、夢の内容も定かではないほど眠ったはずの克の目の下に浮かぶくまが、朝の暗さを映した瞳が、部屋の大気に落ちる影に溶けてしまいそうなほど微かな声で訴えていた。

 …と、克の葛藤を代弁している間に、陰鬱とした部屋の様相に変化が現れる。

 ガサゴソという物音に顔を上げた克の重たい瞼を、降り注ぐ灯りが震わせる。そう、その日も、そうなのだ…事態は佑子の灯した光によって一変する。

 「あっ、あれ、本田…起きたの。」

 佑子はスイッチから手を離すと、いかにも困ったと言っている愛想笑いを浮かべた。克は佑子の左手の紙袋にチラリと目線を走らせてから、

「何、寝ぼけたこと言ってんだよ。…いや、その顔じゃ、そうでもないのかな。」

溜息のような苦笑で、肺の奥深く、心の底にまで沈み込んでいた澱を吐き出す様に、克は天井を仰いでのけ反った。支える両腕に、背中の筋肉が痛いほど後退していく。とりあえず…佑子が自暴自棄になってどうにかなる…という、最悪の事態だけは避けられたようだ。急に眠たそうに弛緩した欠伸をした克も、その大きな口に賭けて一安心といったところだろうか。

 さって…っで、開口一番『寝惚けた顔』について触れられた佑子はというと、

「本田だって、人のこと言えるほど、健康そうじゃ無いみたいだけど。」

 「んっ…。俺はいいんだよ。ちょっとくらい不健康そうなくらいで丁度いい…いや、どっちにしたって、篠原には何なりと勘繰られるわけだから同じかな。でも、お前の場合は、それだけで何か勿体ないというか、見ているこっちが損した気分になる。」

 まぁ、確かに、克と比べると…いや、比較するほど馬鹿らしいほど色白な佑子の目の下に、克と同じような濃さのくまが現れたとすると、克より地が白いだけに多少佑子の方が不健康そうに見えてしまうかもしれない…まっ、くまの濃さがどうしたとか、肌の色によって不健康に見えてしまうとかという予備知識を間に挟んで、二人の間の何かを比較しようと言う気はさらさら無いのだが…。

 佑子は紙袋に突っ込んだ細い腕で、中身をより分けながら、

「損、本田が損をするって言うなら私だって…それは考えますけど…。あれっ、結局本田は損をしたの。」

 「あーっ、えっと、まっ…一般論だからな。」

お互いの具合を確かめるように、自分の中の何かを相手に悟らせない様に、お互いに寝惚けた振りの二人。…まさか二人とも、まだ自分が相手に弱みを見せたことがないとでも思っているのだろうか…。

 「ありがとう、本田。これ返すね。」

佑子は紙袋から…これは佑子がパジャマ代わりに借りていた克のものであろう…ジャージを取り出すと、そっと克の右の太腿の上に折り重ねる様に委ねた。克はきちんと畳まれた上下が乱れない様、気を使いながらそれを取り上げて、

「どうせ今日は体育の授業は無いんだから、何も昨日の今日で返してもらうこと無かったんだけどな。本当、律儀というか、気の回しすぎの空回りというか…んっ。あのっ…あのさぁ篠原、別に返却が早かったから洗濯して無いじゃないかとか、手抜きしたんじゃないかとか、ましてや篠原がまともに洗濯機を使いこなせていないとか思ったりはしないけどな…なんか、このジャージ、臭うんだけど…。」

そう言って、かぶりつく様にしてジャージの匂いを嗅ぐ克の目つきは、嫌そうと言うよりは不思議そうだった。

 佑子は不可解そうな顔でジャージに鼻を押しつけ続ける克と、持ち上げる者を失って眠そうに大口を開けた紙袋を部屋に残して、いつの間か、部屋を出てすぐ左側にあるドアから脱衣所兼洗面所のスペースへ…克との会話を軽く受け流していたように見えたが、やはり気になって顔でも洗いに行ったのだろうか…。

 だから恐らく、この声は洗面台の辺りから響いているはずだ。

 「私もかなり寝汗はかいてたから…でも、ちゃんと洗ったんだから、くさっ…えっと、不愉快な匂いとかはしないはずなんだけどな。」

克は反響して伝わる佑子の声をたどる様に顔を上げると、

「不愉快というか、この匂いは…香ばしいだな。」

 「アハハッ、何それ。本田、人の匂いを例えて『香ばしい』なんて、それっていやらしいよ、絶対。」

姿形がこの部屋の中に無いだけに断言は出来ないが、佑子の声は『いやらしい』などという言葉が掻き消えてしまいそうなほど愉快そうで、それでいて屈託がないものだった。克は嬉しそうと言うよりは、やはり不可解そうな顔で、

「人の匂い…人の匂いと言うか…この匂いは『中華』…だな。」

それに返答しながら、克はようやく気が付いた『もう一つの匂いの源』の存在を求めて首をゆっくりと左右に振る。

 …まっ、あえてそんな動作を加えるまでもなく、当然のことに克の視線は佑子の持参した紙袋に留まる訳で…よくよく見ると、天井に向かってポッカリ空いた大口から、熱気を十分に帯びた白煙が舞い上がっているし…。それにしても、克も佑子も朝っぱらから大声を張り上げて、ご近所迷惑甚だしい…願わくは、克の部屋壁の防音措置が行き届いていることを…。

 それで…確かに、近隣の皆様には敬いを持って接しなければいけない。だが、たかが紙袋の口に大した恐れを抱く謂われはさらさら無い…っと、寝不足の克もそう判断したようで、それが他ならぬ『篠原佑子』の持って来た紙袋であることを対して思慮せずに、無造作に紙袋の中に右腕を突っ込んだ。

 「あっ、見つけたね、本田。」

 克は紙袋の中身を掴んだ手を見せつける様に前に付き出した。ペタペタと裸足の足で戻ってきた佑子はそれに笑顔で応じる。

 「コンビニの中華まん。来る途中に見かけちゃって、どうしても食べたかったから。朝御飯にいっしょに食べようね、私奢るから。」

 克は息を吐き出すと、中華まんのしこたま入ってはち切れそうになっているビニール袋をテーブルの上に置いた。これだけ入っていると、どれだけ慎重に扱ってもそこの奴は変形するようだ。

 「そいつはご馳走様。ところで、なんでお前は、俺のジャージと中華まんをセットで扱ってくれたわけだ。」

ビニール独特の聞きなれた物音を聞きながら、克はジャージの扱いについて言及する。今さら言ってもしょうがないないと諦める…普段の克ならそんなところで折り合いを付けると思うのだが…寝不足でカリカリきているのか。あるいは、暇つぶし程度に佑子をからかおうとしているのだろうか。それとも…前と変わらない様子の佑子の、その心の奥を探ろうと無意識的に手を押しだしたのか…まぁ、どちらにしても、『克が神経質な男』、で、一向に不自然ではないのだけれど…。

 佑子は手櫛で後ろ髪を撫でつけながら、

「一つにまとめた方が持ち運びに便利だったから。ただそれだけだけど、何か不都合。」

「中華まんの強烈な匂いが移る。て言うか、移ってるのが大きな不都合だ。それに…これ、いろんな匂いが混じってないか。」

再びジャージに顔を埋めた克を見下ろして、佑子は、

「本田、なかなか鼻が良いね。流石の私も本田の中華まんの好みまでは解らなかったから、売っていた中華まん全部の種類、2個ずつ買ってきたんだ。これならまず打ちもらし無いかなって。だから、好きなのが有ったら二つとも食べて好いからね。」

 「それは、ありがとう。でも、俺が言いたいのはそう言うことじゃなくて…。」

「匂いが移ったのが嫌なんでしょ。悪かったわよ…それは私も、匂いが移っちゃうかなって…えっと、そんな眼で見られても…解ったって、移るだろうなとは思いましたよ。でも…。」

克は佑子をジロッと見つめたままで、

「『でも』なんだよ。」

佑子は笑いを噛み殺す様に、瞳を克から少しだけ逸らして、もう一度後ろ髪を優しく撫でつけた。

 「好い匂いだし、いいかなって。」

 当然、現れるはずの克の白けた表情。佑子はそんな解りきった…解っていたから…克のムッとした顔に、嬉しそうで、安心しきった笑顔に成った。

 「たくっ、大雑把と言うか、デリカシーがないというか…。そんなじゃ、来期のミスコンは危ういんじゃないのか。」

克の十分に吟味されることなく口にされた台詞。佑子はもちろんそれを聞き咎めて、

「えっ、あんたたち、また性懲りもなく私をミスコンに出そうとしてんの。」

「おっと…。」

 克は眼をパチクリさせて、呆れを通り越して怒りを露にする佑子を見つめた。

 「だいたい、本田はいいの、私がミスコンに出ても。」

と、腰に手を宛てポーズで、佑子は斜に構えて克を見下ろした。

対する克は克で心得たもの、膝に肘をついて両手を組んだポーズで、

「俺は篠原の彼氏の意見に合わせるよ。」

「むっ。」

佑子が言葉を継ぎ足し辛い言い回しを選んで、のらりくらりと佑子の不意の追及を煙に巻く、克。目隠しをして相手が踏み込んできたら押しとどめる、そして多分、相手の顔だけを見つめて踏み出す自分を、相手は切なげな表情で諌めてくれる…。これを信頼関係と呼べるのだろうか…。まぁ、とにかく…二人はキチンと解っているようだ。自分たちの間に…その真ん中には…ポッカリと大きな穴が口を開けていることを…。

 「いいわっ…じゃあ、話を戻すけど…。」

「別に無理して俺を言い負かす必要は無いんじゃないか。」

「うっさい、これはプライドの問題なの。」

 佑子はくまの浮かんだ眼を見開いて意気軒昂、ズルズルと朝の陰を引きずる克に挑みかかる。…その意気込みに、緊張感に、どこか投げやりなところが感じられる。こいうとき、蛍光灯の灯りがなぜか疎ましく感じられる。

 克も佑子の心中が定まらないのを敏感に感じ取ってか、穏やかな暗がりを求める様に俯いた。

 (プライドの問題か…やっぱ俺たちって、相性良くないのかも知れないな。)

 克はぶり返してきた眠気と一緒に、口に出来ない言葉を笑う様に溜息を吐いた。

 「なんだかまだ、言い足りなさそうだね。いいよ、言いたいこと全部言ってくれて。私、本田の言うことなら、どんな些細な事でも受けて立つから。」

「…眠いんだよ。」

克は自分の吐いてしまった溜息を苦々しく思いながら、そう呟いた。

 「そう、そういうことなら私の方から言わせてもらうけど…あの、本田の方も、私の言ったことに…その、受けて立ってくれるよね。」

…何を心配しているのだか。佑子は話をまたまた中断して確認…そうして、克の頷いたことに安心してようやく続きが始まる。…まっ、絶対的に信頼している相手に、他愛無い語りかけでもスルーされた時には、自分を否定されたような気持ちになる。その気持ちは解るが…それを表に出さないのからこそのプライドなのではないだろうか。それは、佑子には佑子の考え方があるはずだけど…。

 「じゃっ、じゃあ言わせてもらいますけど、デリカシーとか言うんだったら、私がいない間に袋から勝手に中華まん取り出したりした本田さんは、どうなんですかって話。それって、デリカシーのある人の行動だって言えるの。」

 腕組して仁王立ちの態で克の前に堂々と立ちふさがって見せた、佑子。でっ、勇敢に受けて立つはずの克は…、

「そうだなっ。悪かったよ、篠原。」

完全役立たずの克の惨敗…佑子としては高らかに凱歌をあげても良いのであるが…そうもいかないのが人情と言おうか、恋情と言うべきか…。

 「そんなっ、そんな言い方ってないよ。本田、受けて立つって約束したじゃない。酷いよ…あっ、見ちゃったことは、私もそうなること解ってて置いたんだから。それに本田もそのこと解ってたから覗いたんだろうし…。本田は別に悪くない…と言うか、私は気にしてないから、本田も気にしなくていいんだよ。でも今、問題になっているのは、デリカシーのことだから…。」

楽しい会話に成る筈という見当が外れて、佑子はとたんに平衡感覚を失う。克も寝不足お疲れ気味なのは知ってるが、いきなり素に戻ることは無かったろうに…それとも、もう好いと…約束通り自分の前に立っている、佑子。それ以外に確かめずとも…いや確かめようがないと克なりに察したと言うのだろうか…おそらく、今は…。

 「だいたい何で謝ったりするの。」

「悪いと思ってるからだろ。そういう時は普通は謝っとくもんだ。」

「じゃあ私は、それになんて答えればいいの。」

「許してくれればいいじゃないか。」

「なにそれ、何か本田、別に許して欲しいて感じがしないんだけど。」

「そんなことはないって。」

「そうっ、それなら許してあげるけど…何か投げやりじゃない。それに面倒くさそうだし。人のことデリカシーがないとか言っておいて。」

「言ってんだろ、眠いって…。」

 克は再び溜息を吐き出す…弱々しい溜息を。…たしかに、眠いんじゃしょうがないか。

 「もういい。私の方こそ、眠らせてもらうから。」

 不貞腐れて佑子が、驚く克を尻目に彼の腰かけるベットへと上がる。

 「お前、いつ着替えたんだよ。」

「いつってそんなの、私があんたの目の前から消えてた今の間に決まってんじゃん。そういうこと言う辺りも含めて…あっ、もういいんだった。…7時に起こして。じゃなくて、朝御飯の支度しなくていいんだから、やっぱり7時半ね。」

尻に敷いた掛け布団を引張られて、佑子に邪険に扱われながらも克は大人しく腰上げる。奪い取った布を胡坐を掻いて引き寄せる佑子の装いは確かに、制服ではなく、ブラックのボーダーのロングシャツに、黒のショートパンツ。…しかしこの女、何着ても似あうな…。

 克は視界に飛び込んできた佑子の白い脚、白い首筋から、勿体ぶって、目線を佑子のまつ毛の上に移した。

 「篠原が良い気分で眠ってる間、俺は起きてなけりゃいけないのか…。」

克はもう一度、早くもベッドに横たわり瞼を閉じた佑子の、伏せられた長いまつ毛に眼をやって、

「まぁ…構わないけどな。」

砕けた口調から、改まったような物言い…どんなに人に合わせた話し方、言葉を選んでいても、言葉に詰まった時や、答えに窮したとき、やはり自分自身にとって一番しっくりくる文句が口を衝く。ようするに、克は持って回ったような言い回しが好きな男と言うことになる…そう意味ではジョークの好きなこの男らしい返答で、なんとなく可笑しい。…もしかしたら、そういう意味合いも込められているのかも知れない。瞳を閉じた佑子の、仄かで、優しい微笑みには…。

 克は何となくバツが悪そうにテーブルの周りをくるりと回りながら、

「にしても、用意のいいことだな。朝食に、ナイトウェアか…完全に、初めから俺のベッドを占領するつもりだったわけだ。」

「本当は、本田がベッドを使ってたら、私は布団を借りようかと思っていたんだけど…んふっ、なんでか、本田は布団で寝てたから。本当、どうしてなのかしらね。」

 口元を緩めたまま、佑子は寝返りを打って克に背を向ける。克は立ち止まるって、堪え性の無い瞼に活を入れる様に、首筋を平手で叩いた。

 「ところで、鞄はどうしたんだ。もしかして、玄関にでも置いてきたのか。」

「そこにあるでしょ。」

佑子が安らかそうに眼を閉じて指差した先、なるほど見なれた鞄がテーブルの脚に立てかけてある。克は腰に手を廻して、

「んっ、これ、篠原のなのか。てっきり俺のなんだと思ってた。で、やっぱり、これも紙袋の中に纏めて持って来たと。」

克は覗きこむ様にして、自分の鞄と佑子の鞄の差異を確かめる。学校指定のまったく同じ鞄も、2年使えば自分の物か、そうでないかを見分けるのはそう難しくはないのだろう。

 佑子は仰向けになると、納得いった様子の克に、

「まさか、中華まん臭い鞄提げて学校に行きたくないしね。」

「おまえなぁ。」

「ごめんごめん。」

 ニッコリと笑う佑子の口元から、白い歯が覗く。

そんな人間的な動作に置いて行かれた様に閉ざされた瞳の存在が、なんとなく佑子の気配を無機質に、まるで良くできた人形のそれへと変貌させる。そんな一瞬一瞬の幽か錯覚に、克は小さく唾を飲み込んだ。

 「でも、鞄を持って来たのは一昨日だから、今のこの話とは関係ないけどね。」

「…あっ。」

 克は再び足下の鞄を凝視する。

(一昨日…。じゃあ、こいつ一昨日にも…。)

 「篠原、お前昨日もこの部屋に来たのか。」

克が鞄を見据えたままで尋ねる。

 「うん。」

「いつ…何時にだよ。」

「一昨日の夜…十一時くらいかな。」

佑子は長い髪を枕から投げ出してみたり、横に纏めてみたりと、いざ寝ようとしてみたもののいま一つ処遇に納得がいかない様子。

 克は枕と掛け布団の間で格闘する佑子も、目の前の鞄すらも目に入らないほど沈思黙考する。

 (俺はあの日…帰って、ぶっ倒れて、起きて、夕方のニュースをぼんやり見て…また寝て。)

胸算用に夢中な克を佑子は何とも愉快そうな…そうこれはおそらく、彼女のご所望の…言うなれば相手の優位に立ったときのしたり顔…。佑子は、息をするのも忘れたように口元に手を当てて何かを記憶のそこから探り出そうとしている克に、綿毛の様にふんわりとした笑み浮かべると、そっと掛け布団の端を持ち上げて口元を隠した。…ここで、『プライドがどうこう言ってませんでしたっけ。』っと、尋ねたとしたら、やっぱり野暮だろうか…いやっ、克が1ミリも見ていないので、一応…。

 克は霧の中を当てどもなく彷徨う様に、薄く閉じた瞼の裏、鈍く眼球を転がして、

(寝て…起きるまでの間に篠原は行ったり来たりか…にしても俺、疲れていたからって、とてつもなくシンプルな寝過ごし方してんのな…いやいや、何と言うか多分、俺の言いたいのは…だから多分、とてつもない問題は別のとこにあって…何だ、何なんだ、本当それこそとてつもないことを失念している気がしてならない。)

克は目の前を点滅するまつ毛を乱暴に擦り払うと、おそらくは問題の元凶に瞳を向ける。…なんらかの自覚はあるらしい…佑子も瞳を開いたままで克を見る。お互い寝不足でなければ、結構好いシーンに成ったろうに…残念至極。

 克は浮かない顔色でついつい力の入る眉間を押さえた。

 (俺、何してんだろう…。だめっだ、頭がはっきりしない。今日は、学校は自主的にお休みということにしとこうかな…。本当、寝ないと正しい言葉づかいすら出来るかわからん。…というか、一々こんなこと、頭ん中で選ぶ言葉に気を付けながら考えている時点で相当参ってるな。やっぱり休もう。あーっ、でも…。)

克は横目で、なぜか焦れたように掛け布団の端を指でこねくり回している佑子を、じっくりと見送って、

(俺が休むって言ったら、篠原も休むって言いだすかもな。…そのときは橋本にでも欠席の連絡を…って、それは不味いよな。俺、何考えてんだ。第一、俺と篠原が同時に休んだら、なんとなく、もっと不味いような気がする。…そうでもないか。まっ、よく考えると、寝るだけなら学校ででもどうとでもなるよなぁ。そういうことなら、少なくとも俺だけは登校きっちりするとして…あとは、まぁ、戸締りは部屋の中の篠原に任せるとして…。あれっ、俺が休まないんだったら篠原も休まないんだっけ。あぁっ、本当駄目だ。よく考えるも何も、俺、何にも考えられてない。どうすんだよ、本当に…。…んっ。)

 人前であることも忘れたように、大袈裟に自分に失望していることを両手で顔を押さえ表現していた、克。今彼を得体の知れない閃きが貫き、その眼を見開かせる。

 (戸締り…戸締りは…したよな、帰ってから…。)

克はどれだけ目を見開いても一向に広がらない指の隙間の視界に見切りを付ける様に、勢いよく顔を上げた。そして、義足の足が縺れそうになるほど大股で、玄関に繋がる廊下、その道を閉ざすドアへと歩を進めた。

 (昨日は丸一日、俺は外に出てない。冷蔵庫に残ってたあいつの料理漁っただけで、他には何も買ってきた覚えもない。…じゃあ、あいつはどうやって…。)

克は玄関を通り越し、外へと吸い込まれる様に前のめりになる体を、開け放たれたドアの縁に手をやってどうにか留めると、首をあらん限りの力で捻じ曲げ佑子を見る。…その瞳に、その瞳に映る佑子の黒い瞳に、克の疑惑は確信へと昇華した。

 克は何も言わずにスチール製の棚へと近づくと、籐の編み籠取り上げて中身を探り始める。こまごまとした小物の群れの中、確かにそれはあった。

 …克のつまみ上げたそれは、鍵。それはどうやらこの部屋の鍵らしい。それを掌の上に取り上げた克の表情に、驚きの色はない。あるのは濃くなった疲労の色、そして大きなため息が漏れた。

 「ようやく気付いたね。」

肩越しに聞こえた佑子の声に、克は苦々しそうな目を向ける。左手に無造作に掴まれた籐の編み籠から、いくつもの雑貨が引力にしたがってこぼれおちそうになる。

 克は足もとに膝を落とすと、改めて、佑子が見せつける様に掲げたそれを視認する。そして再び溜息を吐きだした。

 掛け布団の隙間から延びた佑子の腕、その先端に下がる様にあるのは…これもまた鍵。そしてそれに結わえられた、キーホルダーがわりの深く透き通った藍色の石のストラップ。克はいい加減辟易したと言わんばかりにまたまた溜息を吐きだして、籐の編み籠をテーブルの上に放り出した。

 「お前、俺のトンボ玉まで…それのことは考えもしなかったな。」

そう言って克が軽く叩いた床…そう言えば、もうずっと、蒲団は引きっぱなしのまま…まぁ、ささいな問題か…。佑子はそんな気の抜けた様な音が可笑しかったのか、笑みを隠そうともしない。

 「合い鍵か…。」

克は誰にともなく、噛んで含める様に尋ねた。佑子は、そんな克の疲労とも、非難ともとれる目線に、少し…ほんの少しだけ居たたまれなく感じたのか、

「うっ、うん、そうだよ。」

言葉少なに認めると、腕をやや引き、かわりに寝返り打って克に顔を向けた。

 「お前、早退までしてそんなことしてたのかよ。」

克は枕から滑り落ちる佑子の黒髪を行方を眼で追った。その口調には険はなく、どこか面白そうにも感じられた…。つまり、この際どちらの立場が悪かったかと言えば…、

「だって、それくらい…合い鍵くらい作るでしょ、私だったら。」

佑子は掛け布団の中に腕を引っ込めって、咎める様に克に同意を求める。克はゆっくりと、気の抜けた風船のように布団の上に突っ伏すと、

「そうだな…篠原のことだから…それくらい考えても良かったよな。」

克の眼はかろうじて開いている…薄っすらと…。

 この男の反応…もっと慌てても良い、すくなくとも困るべきで、場合によっては怒らせてしまう様なことも考えられる…そう思っていたのは佑子も同じようで、

「にしても、世の中怖いよね。合い鍵作るのに身分証明書くらいいるかと思ってたんだけど。ホームセンターで複製作ってくれた人、彼氏の部屋の鍵だって言ったら、なにも見も聞きもしないで、あっさり作ってくれたんだよ。まっ、まぁ、でも、もし私じゃなくって、本田が合い鍵作りに行ったとしたら。私と同じようにはいかなかったんじゃないかな、私と違って無断の複製じゃなかったとしても、だよ。」

 いったい何がしたいのか…っと、言ったらやっぱり野暮なんだろう…克の反応が余りにも肩すかしなものだったから、佑子は自ら挑発しに掛かったようだ。…いったい、克と揉めてどうしたいのだろうか…。ところで、克の反応は、

「そうだな…。」

ピクリとも動か、瞬きもなく、反応らしい反応と言えば、言葉だけ…。

 「ハァッ…。」

呆れたよな、詰まらなそうな佑子の口から力の抜ける音がした。佑子はもはや乱れた髪を気にすることもなく、首のあたりにまで掛け布団を引っ被ると、

「あのさぁ本田。」

「んっ。」

「鍵…返して欲しくないわけ。」

「今日は言いや…とりあえず、篠原に預けとく。」

「えっ…。」

 克は不思議そうな佑子を尻目に、枕の上に重ねられた乱れたジャージの上に顔を埋めた。

 (合い鍵か…考えもしなかったな。俺はもっと、篠原が無茶なことするんじゃないかって…まっ、たしかに、合い鍵作られたなんて、それだって、とんでもない事件だよな、俺たちにとっては…。)

克にとっては、要するにそう言う事なのだ。…克は眠れないほど考えを巡らせたことを、そんな自分を思い出しながら自嘲気味に笑った。

 頭の後ろでは、佑子が乱暴に寝返りを打った音が聞こえる。克はもう一度笑った。

 「腹減ったな…。」

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