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第二十七話

(1)

 それは、虫が知らせたと言うよりは、日課だったと言えるだろう。

 克は気味の悪いほどのすっきりとした目覚めに、不満そうに渋面を作る。しかし、残念ながら、彼に渋い顔をしている時間は無い。克は乱暴に、ゴシゴシと自分のしかめっ面を解すと、肺を押し広げ、居座る乾燥しきった空気を追い出す勢いごと、ベッドから起き上がった。

 ベッドの横、隙間なく不揃いのカバーの掛けられた書籍が詰められた本棚…その隣には、首を傾げて寝ぼけたような義足が一本。少しだけ開けられた窓の隙間からは明け方の、清涼な吐息が克の熱い頬を冷ます。

 克は無償の優しさで迎え入れてくれた朝に促される様に、のろのろと登校の準備を始めた。

 薄暗がりの中、ワイシャツのボタンを閉じる目の前には、素っ気無いスチール製の棚の上にアナログ式の置時計、そして隣には…小物入れだろうか、籐製の小さな編み籠が一つ…ここでまた、克の顔が不愉快そうに歪む、かと思えば全身の力が抜ける様な、心底情けのない溜息を一つ。思い出したように着替えを中断して、ヌッと伸ばした手で機械的に目覚まし機能を止める…時計の表示する時刻は午前5時10分頃といったところ…そう言えば、訳ありのこの男にしても、少し起き出すには早いようにも感じられる。

 克は時計を押し付けるように棚に戻すと、トボトボとベッドの前に引き返して、なお着替え続ける。下っ腹に力を入れる様に、きつくベルトを締めると、しゃっきりと背筋を伸ばして…しかしベッドの上にどっかりと座り込んでしまった。…時刻のことといい、どうもおかしい。朝のやわやわとした薄明かりだけでは定かではないが、幾分ふさぎ込んでいるようにも見える。夢見が悪かったのかも知れない…それとも、いや、やはり…『彼女』のことだろうか。

 突然、パっと部屋中が明るくなる。見上げる克の眼の先には…蛍光灯のスイッチに指を掛けたまま、少し驚いたような顔で克を見る、佑子の姿…。その背後では木製のドアが、ゆっくりと部屋の外側へと開いていく。

 「何してんの、電気も点けないで。」

「電気…電気は、これといって理由があって点けていなかった訳ではなくって…目が覚めたから、着替えは済ませたんだけどな。次に何かしようにも、こう、面倒くさくなって。時間も時間だし。」

「ふーんっ。」

 『寝ぼけてます』の一言の代わりの、うだうだとした克の文句に、興味あるのかないのかはっきりしない声で応えて、佑子は撫でる様にスイッチから手を離すと、フローリングの床を柔らかく軋ませながら部屋の中へと踏み込んでくる。

 「お早う。」

 目の前で鞄を床に預けて腰を下ろした佑子に、克はぽつりと呟いた。そして、そんな克のぼんやりとした顔を、値踏みするように見る、佑子。レースのカーテンを揺らして、微風がドアの外へと流れ出していく。

 佑子は、小さな息遣いを残して頭を垂れて、

「お早う。」

そう小さく口を動かすと、足もとに転がっていた鞄を開けるべく金具をガチャ付かせ始めた。朝の静寂にさえも掻き消されてしまそうな…言葉少なで、拙い、薄紙のような会話。

ただ…なかなか上手くいかない様子の、慌てた様な佑子の手元が…うなだれた彼女の恥ずかしそうな唇が、どこか満足気に細められた瞳が…それだけではない…そう、囁いていた。

 それにしても…佑子はあの日曜日、病床で誓ったとおり、朝、こうして克の部屋を訪れることを止めはしなかった様だ。そのことを克がどう感じているのか、感謝しているのか、それとも迷惑がっているのか、相変わらずはっきりしない顔で、前かがみにベッドに腰かけるその姿からは、定かではない…っと、とりあえずはしておこう…。克とて朝からバタバタとしたくは無いからこうして、瞬き以外はピクリともしないで、禅僧のような健やかさで佑子を見守っているのだろう…。

 無造作に束ねた髪をゴムで結わえながら、立ち上がった佑子の片手が、我が物顔でテーブルを占拠していたエプロンを摘まみ上げる。白地にブラウンの行き交うチェックのエプロン、佑子はこれを小鳥が羽ばたく様にさっと身につけて、腰ひもを結ぶのもそこそこに、克の目の前を忙しそうに往来し始めた。精力的に活動する佑子を包む綿麻で作られたそれは、いかにも身軽そうで小気味好い。それはそうと…フリル付きのエプロンはどうしたのだろうか。いやいや…それ以前に問題にしないといけないことは、こんな早く、それもまだ5時30分を回ってもいないような時刻から、いったいどうして佑子は身支度を整えているのかということだろう。まぁ、克には動揺とか、当惑といった気配は微塵も感じられないのだが…たしか、『朝の6時より前には来てくれるな。』と言うことで、克は佑子から了解を得ていたのではなかっただろうか。それにあの目覚まし時計…克にあんなものを準備する習慣はいったいいつからついたのだろうか。とてもではないが、だんまりを決め込んだ克から、明瞭な回答を得られそうには思えない。

 となると、頼みの綱は佑子であるが…やはり、この状況は彼女にとってもどっぷりと浸かりきったように、ごく自然なものなのか、動きに一切の淀みがない。もはやこの関係には、一々確認事をする必要もないと言う事なのだろうか。それもそうなのかもしれない…あの日…橋本医院で克と佑子が別れてから、もう8日も経っているのだから…。

 佑子はまた克の目の前を横切ると、

「いい加減さぁ、そう不貞腐れるの止めにしない。毎日毎日、そうやってぼーっとしてさっ。暇なんだったら、私に何か話しかけてくれればいいじゃない。聞くことがあるでしょうが、本田には。」

滑車を勢いよく滑る音が響いて、克の部屋の明暗がはっきりと分かれる。克は、絞ったカーテンを窓枠の隅に結ぶ佑子を、不服のありそうな顔で見上げる。

 「聞くこと…じゃあ一つ。」

「何ですかしら。」

 佑子は平然とした顔で冷蔵庫のドアを開ける。学生の一人暮し世帯に同居するのに、「いかにも」という風なその白く、小ぢんまりした箱の中には、これまた有るべくように隙間が多い。佑子はさっきとは打って変わって、そこから手品師のように軽やかな手付きで卵を二つ取り出した。

 克はベッドの上にひっくり返って、

「俺のどの辺が不貞腐れてるって言うんだ。」

枕代わりに組んだ手で頭を持ち上げて、こっそりと佑子の背中を見つめる。そんな克の瞼に、咎める様に蛍光灯の光がのしかかってくる。

 「どう辺がって…例えば、いつも私が来るよりも先に起きて待ってるところとか。」

「ちょっと、待てっ。」

 まだまだ、出てきそうな佑子の『例えば』に該当する箇条。それを遮って真上に声を浮かべる克の口元は、ほんのりと笑みさえも浮かべている。ベッドからはみ出した脚をだらしなくぶらつかせて、眼はいつの間にか大儀そうに閉じられていた。

 「それは、かしこまって御待ち申し上げていたんだろ。そんな俺の心遣いを余所にやって…まぁ、多少は笑顔に迫力がなかったかも知れないけど、それだって眠気で表情筋の動きが甘かったって程度のことだろうからな。それを、俺の気持ちを一切汲んでくれないで、あろうことか責め立てるとは何事かと…。」

 克の長広舌が一段落ついたのを確認して、佑子が間の手を入れるようにそっと克の口の端にハンカチを押し当てた。

 「(よだれ)っ。寝っ転がって話すから…。」

「んっ、んんっ…悪い。」

 克は実際ばつの悪そうに、ほんの十数センチ先にあることが想像される佑子の微笑みから、閉じた眼をさらに背けるように眉間に皺を寄せた。

 「それでさぁ、出迎えてくれることは私も嬉しいんだよ。」

急に離れた佑子の甘く、どこか悩ましい声。克はその行く先を足しかえる様に、身を起こして、目を開ける。

「それに、そういうつもりがあるって本田の口から聞けたのも、それが例え嘘だったとしても、一歩くらいは先進かなって、なんか得したかなとは感じるから。」

 佑子は克に背を向けたまま、ステンレス製のボールに卵を二個、塩コショウ少々、そして生クリームを適量加える。克はその後姿を眺めながら、言い訳するように…あるいは、言い訳以外の言葉が見つかるまで押さえておこうとでも言いたいのだろうか…さりげなく、そして拭う様に、右手で口を押さえた。克のそんな心の移ろいを感じ取ったのか、佑子は一瞬ぼやりと手を止めたのちに…、

「でも、何だか警戒されてる様な気分にもなるんだよね…。」

 言い終えて佑子は、何故か小さく頷いてから、菜箸でボールの中身をかき混ぜ始めた。

 …これだけのやり取りを見ている限りでも、佑子が克の一挙手一投足にどれだけ気を配っているかが良く解ると言うものだが…。克はそんな佑子の落ち着いた声、揺れる黒髪にも一切動じる素振りを見せずに、

「このご時世、いろいろと物騒だからな。」

 軽い笑みを送り、佑子の表情を見つめる、克。その顔の含み笑いと言い、ボールを抱えて対する佑子の詰まらなそうな顔と言い、どんな魔法を使ったのか、今の旗色は克の方がやや有利といえるだろう。

 …こうして佑子の反応がどんなものになるかを推測して話を組み立てているところを見ると…まっ、主にやりこめ様とか、挑発しようとか、煽ろうとかとりわけそんな理由になる場合が多いようにも思えるが…克の方の気配りも満更ではないのは確かだろう。ただ、克の切り返した言葉が、それがいったいどういう意味をもって佑子を苦しめているのかは要領を得ないが…。

 そうこう言っている内に早くも、どうやら先に佑子に突破口を空けられてしまったようだ。佑子はボールの中身をかき混ぜる手を休めて、

「そうだね。うっかりしてると、いつどこで誰に盗撮写真撮られたりするか解ったもんじゃないからね。」

優越感に浸る眼を克に向けて、ニンマリ笑う、佑子。一転して、難しい顔になる、克。こんなものは当然の結果だ。なにせ、さらしている弱みの量に著しい隔たりが存在しているのだから。

 佑子はボールを抱えたままでベッドの克の隣へとゆっくりと腰かけた。

 「泡立て…あるけど使うか。」

 行儀よく両手膝の上に置いて、克が佑子に首を向ける。佑子は膝に乗せたボールに視線を落して、

「いいよ、オムレツ作る訳じゃないし、お箸で充分。」

 「えっ、オムレツじゃないの。」

「うんっ、私はスクランブルエッグを作ろうと思ってたんだけど…。えっと、もしかして、オムレツの方が良かったのかな…。」

 …佑子の笑顔。その形の良い唇が微かに震え、黒い…どこまでも深く黒い瞳がたゆとう…。克はギョッとして、慌てって佑子の細い指先から菜箸を引っ手繰った。

 「そうじゃない。ただ、何が出来るのかって、気になっただけだから。加えて言えば、ほら、前に篠原、オムライス作ってくれただろ。その時のが印象に残ってたから、何となくまた似た様なものかなって思ったんだ。…それだけだから。」

 言いきって克は、佑子の腿から滑らす様にして受け取ったボールの中身をかき混ぜ始めた。呼吸を整える様に克が吐き出した息。

しかし、それでは佑子の雲りかかった瞳を晴らすことは出来なかった様だ。

 「そっか…うん、解った…でも、本当は、オムレツが良かったんじゃない。あのっ、今からでも…時間はたくさんあるから、もし本田がオムレツの方がいいんだったら遠慮なく言ってね。あっ、でも、中かに詰める材料がないから、プレーンになるけど…。」

 ボールが無くなったのちも自分の脚を見つめていた佑子が、『しまった』と間違いなく言っている険しげな顔で克に振り向いた。その瞬間、克はと言うと…、

「それじゃあ、プレーンって言うのは中身の入っていないオムレツの事なんだな…。それはそうと、これ二人分あるんだろ。だったらもうスクランブルエッグでいいって…じゃないな、是非ともスクランブルエッグをご馳走していただきたい、だな。生クリームとか使ってるみたいで、美味しそうだし…。」

 男の脳みその悲しさか…克はいつの間にか目の前に与えられた『ボールの中身をかき混ぜる』という仕事に意識が向いてしまっていている。こういう状況下でも、隣の人間が言ったことはちゃんと覚えていたりするのが、女性にとってなおかつ困ったところと言えだろう。

 それは克においても同じようで…顔はまぁまぁ、だらしなくも笑顔と言えるようなものに成っているとはいえ、佑子を置いてけぼりにして自分の言葉で談笑している辺り、人によっては蔑ろにされているともとれなくはない状況だ。…克はいい加減、『健気な女モード』に入っている佑子に、中途半端な気の使い方は逆効果であると言うことを悟るべきなのであろう。

 そして、また、言わないことではないのに、ただでさえ義足で人より注意が必要な克の足が、どつぼにはまる。

 「…ちょっと出てくるね。」

「えっ、何が。」

 何も解っていないことがまるわかりの克の声を引き裂く様に、佑子が決然と立ち上がる。事態の底の深さを覗いてみようともしなかった、単純作業中で思考の無駄と一緒に人間関係も省いていた克の、得体の知れない薄ら笑いが一瞬の内に凝結した。

 佑子は克の平和そうな顔を…努めてそうしているのか、深刻そうな、少し怖がった様な眼差しで見つめると、

「材料、買って来る。」

気忙しそうに、言葉少なにそう言うと、佑子は克の疑問も憂いも無い平平凡凡そのものの表情から、逃げる様に顔を背けた。

 「材料って…オムレツのか。いや、別に俺は…第一、こんな時間にやってる様なところはコンビニ位のもんだろ。」

手を動かすのを止めて、心持背筋を伸ばして、ようやく自分の方に眼を向けた、克。…佑子はつま先でカーペットの繊維を押しつぶしながら、目線をどこかほぐれていない克の笑顔に送る。

 「それでも…挽き肉と、玉ねぎと、それにオムライス作った時に切らしたままだったトマトケチャップ…多分、それくらいなら、コンビニでもどうにかなると思う。」

「いやいや、それは無理だって、えーっと、確かに近所に『生鮮コンビニ』って言うのはあるけどな。あれは、まぁ、コンビニなんてのは名ばかりで、朝は9時以降じゃないと開かないし、閉店は午後7時だし、その上、明らかに酒類が一番多いくらいで…。だから…なっ。」

 やっと克にも佑子の言わんとしていることが解った模様…。佑子にしても、『出てくる』だの、『買って来る』だの言っていた割には、足ではクッションを拗ねたように蹴飛ばしているし、視線は鏡の様なステンレスのボールの表面で間延びした克の面差しに注がれたまま…。

 …お互い、好きだとは言わないままに、好きなのかと問いかけ会った二人。そんな二人だから、どこか…自分の気持ちを置き去りにして今の関係を、危うい共感を築いてきた。そうだ…そんな二人だったから、どちらかが崩れそうになったらただただ庇った…最初から、それだけの二人だったから、こんな瞬間は少しも姿を変えることもなく保たれてきた。高く、高く、築き上げてきた物が崩れて、無数の破片が地に伏す…そんな光景を見ずに済んで来たから…。

 佑子は克が差し出したボールを受け取って、

「あの…じゃあ、今朝はスクランブルエッグで好いんだね。」

克は前髪を払いのけて、

「もちろん。何と言っても、持病のある篠原に、卵料理二人前も食べさせられないからな。」

 受けとったボールの鏡面をなぞる、佑子。その笑顔は曖昧で、優しかった。…言われたことが言われた分だけ嬉しい。だから、何だか困る…。もしかしたら、佑子のへの字結ばれた口は、そんなことを言いたかったのかも知れない。

 佑子は清ました顔で笑う。

 「あっ、あのねぇ。一応、誤解がないように言っときますけど。もし仮に、オムレツも作っていたとしても、本田にはちゃんとスクランブルエッグも食べてもらってたんだからね。」

声が震えたのはご愛敬。克は立ち上がって、大きく身体を上に伸ばした。

 「あらっ、そうだったのか。俺はまたてっきり、スクランブルエッグは一人で平らげる積りなのかとばかりに思ってた。」

「私、そんなに食い意地はってないわよ。そもそも、私が本田の為にそこまでして上げる謂われはないし…。」

「買い物には自分で行ってくれようとしたのにか。」

「…馬鹿みたい…。」

 清々しい風、どう広く見積もっても十畳に満たない筈のこの部屋が、二人が会話するだけで…二人が居るだけで、高原の広さを思わせる包容力を感じさせる。…遥かな距離…見知らぬ異邦人が…思いを寄せる人の新たらしい表情を感じた瞬間に、いつもの二人の距離が遠くて…本当はその人が、どれだけ自分の傍に居たのかを実感する。そんなとき、心地よい風が通り過ぎて行く…。

克はボールをテーブルの上に置いて、腰を浮かせる。もうずっと、義足の世話になって生きていた克だが未だに、脚にかぶさる様に取り付けられた義足に体重を掛けたときの、潰れる様な、沈み込む様な感覚だけは慣れることが無かった。そんな、自然の動作の中で、我知らずに奥歯を噛みしめた克の背中を、支える様に、そして前へと押し出す様に、佑子は両手を前に出した。…こんなふうに、今にも崩れてしまいそうなバランスの中、崩れおちてしまいそうな地面を乱さぬように、おっかなびっくり、そして極力相手を脅かさぬように、手を差し伸べあって来た。薄氷の様な足もとが気になって、恋人と呼べるほど近づけずに…友達と割り切って、歩んできたはずの安全な場所を顧みずに…。

 「さてと、さっさと作って、朝飯にしようか。」

 克はキッチンに立ち、準備体操代わりに首を振ると、やおらフライパンの乗った電気コンロのスイッチを入れた。

 「篠原って、バターは大丈夫なのか。」

「うん、お気遣いなく。て言うか、代わって、私がやるから。」

 佑子は克の横に立つと、半ば強引にボールを引っ手繰る。克はフライパンから立ち上る熱気にも涼しそうな顔で、バターナイフで縁を叩いて、一塊のバターをフライパンに落とした。

 「たまには俺が手を動かすって…篠原ばかり働かせていたらせっかく早起きしてる甲斐もないしな。」

 克は佑子が胸元に抱えたボールに手を掛ける。

佑子はそんな克に負けじと、腕に力を込めると、

「良いから代わってよ。それは私の仕事なの。本田は、そんなに眠いんだったら、寝てればいいじゃない。出来たら起こしてあげるから。」

そう言って、佑子はボールに掛った克の手を叩いた。ボールの中身が突然の大揺れに、逃げ場を求めて入り乱れる。

 「そうしたいのはやまやまなんだけどな。そわそわして、どうも眠れそうにないんだよな。それと、俺のどの辺が不貞腐れてるのか…さっきの篠原の口ぶりだと、文句もまだまだ聞いてやらなきゃいけなさそうだからな。」

「本田さぁ…。私、これだけは最後の最後に必ず言ってやろうと思ってたんだけど。そういう…『どこが不貞腐れてるんだ。』とか、私に言うのが一番の不貞腐れてる証拠なの…本当、不貞腐れて黙っちゃうくらいなら、言いたいこと言って、聞きたいことなんでも聞いてよ。」

 香ばしい匂いをさせて、溶け広がっていくバター見つめながら、二人は立ち尽くしていた。同じ場所を見つめることを誰も咎めはしないのに、どうしてこう居心地が悪いのか…それでもここから離れることが出来ないのは…一度崩れてしまったならば、もうここに戻ってくることが出来ないのが解っているからだろうから…。克は胸苦しさのいい訳を求める様に、フライパンの柄を掴んだ。

 「お互い様だろ。」

「えっ。」

 聞き咎めた佑子の声には、非難めいたものが混じっていた。克はそんな佑子の敏感な反応に可笑しそうに口元を緩めると、フライパンを持ち上げて、バターを万遍無く広げる。

 「篠原だって、自分はちゃんと言いたいこと言ってるみたいな口ぶりだけど、その実俺がお前に話し掛けたり、聞いたりすることに頼りきってる。そういうところ在るんじゃないか。」

佑子は、フライパンを揺らす克の顔を見つめて、

「それって、本田が何でも私に聞かないことを怒る私が、不貞腐れてるって言いたいの。」

 「まっ、自分で言うのも何だけど、確かに俺は多弁な方だから。だから悪く取らないでくれると有難い。それより何より、お互い様だからな。」

 克はフライパンをコンロの上に戻した。たったそれだけの動作…それだけで、どうにもならなかった窮屈さが消えた様な不思議な気持ちになる。…佑子はどうなのだろうか。

 佑子は少しの緊張を感じさせる顔を上げる。それを申し合わせたように克が追いかけた。

 「もしかして、『そわそわしてる』って言ったの…それを私に言いたかったから。」

「あっ、やっぱり解る。いや、流石に、猪山とは違うよな。」

 「そうやって、私が気を悪くするのを解ってて、関係無い人引き合いに出したりする。…しかも、私が悪口言う前にかばったりするんでしょ。『私の為でもある』とかなんとか言い訳しながら。」

 「良く解ってんな。」

 克は佑子の大きな溜息を笑った。…克はこんな瞬間を笑うことができるほど、器量の大きな青年だったろうか…しかも、相手は紛れもなく篠原佑子だと言うのに…いや、別に不思議ではない、克なら自覚していても当然か…なにせ、彼はおそらくは佑子が彼のことを考えるよりも遥かに多くの時間に彼女のことを考えてきた。そして、その結果、彼は自分と彼女の間に芽生えた若葉を…たとえそれが自分の知らない間に、密やかに彼女が植えた種だったとしても…確かに彼は踏みにじったのだ、己の意志で…。だからこそ彼にはよく解っているのだ…この崩れかけた足場が、こんな場所が佑子のためだけに存在している訳ではないと…。

 克は笑顔をフライパンに落としたままで、佑子の携えたステンレスの器を要求する様に手を伸ばした。

 「お互い様だな。」

佑子は困ったように、そしてどこか安堵したように、

「そうなのかな…そっか、お互い様かな…。うん、じゃいいよ。お互い様だったら許してあげる。」

ボールを手渡した佑子は、優しく微笑んでいた。

 「でっ、どうしようか。」

「えっ、何が。」

「だから、俺はどうすればいいのかなってことをね…。」

「でも、それは、本田の方から…。」

「いや、間違いなく手は俺が動かす。それは確かなんだけど、その…出来れば、口出しはしてもらえると、助かるんですけど。」

 克が微笑み、佑子が微笑む。それは、小さな、小さな微笑み…しかし、あの日踏みつけにされた芽が咲かした、掛け替えのない一輪の花…。

 克は照れたように少しおどけて、

「あの、悪いけど、バターが焦げる前にお願いしたいんだけどな。つまり、口出しの方を。」

佑子は佑子でおどけたと言うよりは、緊張して、

「あっ、はい、それじゃあ…。」

 こうして二人は、崩れそうだから、身を寄せ合った。二人の足元で微風に揺れる花は、今にも消えてしまいそうな地平に、いったいどんな実を残すことが出来るのだろうか。

 …ところで、折角の雰囲気に水をさすようだが…ドアの鍵は…いったい、佑子はどうやって部屋に入ったのだろうか。


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