第二十五話
(1)
「でっ、本田は日曜日に、学校の図書室へ行くと…病床の私を、ほっぽっておいて。」
「まっ、そういうことになるのかな。」
佑子が叩きつける様に箸をテーブルに置くと、克に確認する。克はしらばっくれていつもりなのだろうか、いつもの飄々とした様子で、皿の上の魚の切り身を突いている。
時刻は七時を回っていた。帰宅した克と、佑子は今、こうして夕餉を囲んでいる。メニューは克のリクエスト通りの和風。品数の多さからも、佑子の苦心の程が伺える光景。…しかし、残すは楽しい談笑…とはっ、いかなかったらしい…克も何故、食事時にこんな話題を持ち込んだのだろうか。
佑子に無言で見つめられて、汁椀を口に運ぶ克の手が止まる。
「睨むなよ…凄んだって、可愛いだけだって。あっ、写真一枚撮らせてくれる。」
佑子は克の軽口を、十分な間を持って、黙殺してから、
「行かないでよ。」
克は、佑子の作った味噌汁が口に合わなかった訳でもあるまいに、顔を顰める。
「俺だって、たまの日曜日にまで、あんな所…行きたくはないって。」
佑子は乱暴に汁椀を取り上げると、味噌汁を口に含む。そして、納得いったのか、気忙しそうにテーブルの上に戻した。いつか、克の言ったとおり、確かに佑子は他人のことをよく見ている…そうではあるが、この一事に関しては、どうしても了解してくれそうにない。
「行かないでね。」
佑子は念を押す様に、ほうれん草の御浸しだろうか…小皿に盛られた料理を、箸で摘み損ねている克に、ズイッと醤油を突き出した。
「あぁっ、悪い。」
「うん、カツオでダシは取ってあるけど、食べる前には醤油掛けた方が美味しいと思う。…私、掛けてあげようか。」
「それじゃあ、篠原のおススメで、お願いしようかな。いやぁ、何から何まで…何か、申し訳なくなってきたな。」
「良いよ、好きでしてることだから。」
佑子は、御浸しの上のかつお節を、醤油でゆっくりと降り重ねながら、夢見る様に呟く。
「ところで…行かないよね。」
克は、眼の前から引っ込む佑子の白い手を、見守りながら、
「そう言う訳にもいかないんだ。約束もしたしな。」
「そんなの、今から、断ればいいじゃない。」
「無茶言うよな…ところで、篠原は食べないのか。」
「この問題に結論が出たら、ゆっくりと頂きます。」
克は得心がいったとばかり、深々と頷いて応じた。そういう訳で、当然のごとく、佑子の容赦のない追及は続く。
「私がこんなに苦労して…具合の悪い身体に鞭打って、夕食の買い出しから、用意まで、一生懸命に頑張っている間に…本田は余所の女と約束なんかしていたなんて…あんまりと言えばあんまりじゃないの。」
「語弊の塊のような言い方だな。まっ、間違ってはないか。本当、ありがとうな。」
「えっ…あっ、いいんだよ、そんな…じゃなくてっ。私が言いたいのは、本田には私の労力に報いようっていう気は無いのかって聞いてんのよ。解ってるくせに…なんなら、一番良い報い方も私が教えてあげようか。」
克は、行儀は悪いが、箸を噛みながら思いを巡らせる。その、とらえどころの見当たらない、考え事の最中でもものに囚われていない様な小憎らしい顔を、佑子は、『それでも憎からず』思っているように、穏やかに見つめる。…佑子は和やかさと、危うさの同居した、不思議な女である…。
そして、そんな平穏に、あえて混乱を呼び込むのが得意な男…克とはそういうやつであるというのも、また事実であった。
克は佑子に倣って、箸を茶碗の上において、
「感謝はしてるよ。普通は頼んだってやってもらえることじゃないし、なにより、篠原の料理美味いからな。」
「本当っ。」
優しく微笑み返す克に、佑子は恥ずかしそうに目線を右往左往させて、
「うわぁっ、なんか照れちゃうな。本当、そう言ってもらえるだけで、私も頑張った甲斐があったかなてっ…。」
そこまで言ってから、きっと克に翻弄されているとでも思ったのだろう、佑子は苦々しそうな顔で、
「グッ。」
奥歯噛みしめながら、悔しさを声にする、佑子。克は相変わらず、箸に手を付けずに、所在なさ気な顔をしていた。
「くっ、危うく騙されるとこだった。」
「こっちに、そんな意図は無いって…この台詞今日、何度目だよ…。」
「意図がないって…だったら、どうして、『日曜日は一緒に居てやる』って言ってくれないの。」
「なんか、最近のお前のものの考え方、飛躍しすぎてる様に思うの、俺だけかな。」
「御託はいいから、理由を言ってよ。」
「理由って…浮世の義理ってやつかな…俺にも、日曜日に勉強会開くことになった責任の一端はあるから。」
間をおかずに返ってくる克からの言葉に、佑子も克の本気を感じ取ったのかも知れない。佑子は諦めをにじますように、悲しげに長いまつ毛を伏せると、
「なんか、それって、本田らしくないよね。いつもの本田だったら…面倒くさいって、適当なこと言って、煙に巻いちゃうんはずだもん…本当は、私と一緒に居たくないだけなんじゃないの。」
恨み事の様な佑子の訴えに、克は応えられずに、口をつぐむ。佑子の後ろで、エアコンが静かな唸りを上げていた。
「こんなとき、いつもの本田だったら、話を逸らしてくれるのになぁ。」
「そうだったかな…ごめん。」
気後れしたように、どこかはっきりしない態度で応える克に、佑子は残念そうに、そして呆れたように溜息を洩らす。
「本田…明日、スーパー行くの、付いて来てよ。」
そう言うと、佑子は箸を取り上げた。
「えっ、あぁ、解った…。」
克は、急に白飯を口の中にかき込み始めた佑子を、少し驚いたように眺めた。
(食べ始めたってことは…問題に結論が出たってことで、いいんだよな。)
そう考えると、我知らず克の表情が明るくなって行く。…まぁ、じっくりと喜んでおけばいいだろう…今は…。
克は箸を取ると、心なしか弾んだ声で、
「そう言えば、『スーパー』で思い出したけど、今日の夕食の材料、いくら掛かったんだ。もちろん、他に手伝えることは手伝うけどさ。とりあえず、篠原ご所望の『報いる』っての、その一環として、費用は俺が出すから。いいよな。」
そんな克の調子のいい態度が気に障ったのか、それとも他に思うところでもあるのか、佑子は厳しげな表情で箸の動きを止めると、ポツリと一言、
「…そんなの、当たり前じゃん…。」
その場に流れる、どうしようもないほど冷え切った空気。克も晴れやかな表情のままで凝結する。
「そっ、そっか…そうだよな。」
克は誰にともなく応えると、佑子の荒々しい箸の音に急き立てられるように、汁椀を取る。…話声の消え失せた部屋の中…冷めた味噌汁が、妙にしょっぱかった…。
(2)
その瞬間、克は来るものが来たのだと感じた…。日曜日の朝6時、克は目の前の光景を見据えながら、それまでの時間をぼんやりと回想する…。
金曜日の夕食の後から、特に変わったことがあっただろうか…いや、何も無かった、何もしなかった結果が今、こうして跳ね返ってきているのであろう。事実、佑子は夕食を終えてから、『行かないで』とは、一度も言わなかった…おそらく、克に何を言ったところで、自分が『こうする』ことには変わりはない…そう気付いていたのだろう…。では、中一日、土曜日はいったい何のためにあったのだろう…克にはほんのひと時だったように思えるのだ。
夕食を終えてから、佑子に風呂を貸してくれと言われてどぎまぎした。それから、どちらがベッドで寝るかということを話して、そして、パジャマ代わりに自分のジャージを使いたいんだと言われもした…このときには、すでに、日付が変わっていた様な気もする。起きてからは…そうだ、スーパーに行った。近所のスーパーでは、知った顔に会うかもしれないから嫌だと言ったら、結局、二人して妙な変装をしていく羽目になった。夜、眠る前に、今日だけは義足を外さずにおこうと決めたこと…それから…それから…佑子はあんなにも楽しそうに見えたというのに…。
「なんでだよ。」
克は眼の前に座り込んだ佑子に、ぶつける様に言葉を投げかけた。責めているようにも聞こえるその声は、それでも驚いているようにも、ましてや怒っているようにも聞こえなかった…克は思う。
(いつかは、こういうことになるんじゃないかと思ってた。)
克は諦観を隠そうともせずに、溜息を吐いた。ある程度の覚悟はしていたようだが、やはり、心を曇らせる様な無力感を拭いさることはできない様だ。
「えっと、自信の表れかな。」
佑子は克とは対照的に、悪戯っぽい笑み見せる。その顔は、今の状況を完全に楽しんでいるという心情を、隠そうともせずに浮かべていた。
克はそんな佑子の顔から、視線をほんの少しだけ下げる。そこには、克の義足がしっかりと抱きかかえられている…。そうして、短い駆け引きが始まった…。




