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第十七話

(1)

 「やっぱり、俺は、石川とここで待ってるよ。」

 克が心苦しそうに、佑子と稔に言った。

 どれほどの時間経過があったのか。眩しいほどの夕陽を受けて、それに抵抗する様に濃い影地面を穿つ。観覧車の影は、克たちとは反対側にある大きなテントの上でまだ回っている。

 「でも…。」

 稔が、そんな克の言葉を留める様に、疑問とも否定ともとれない答えを返す。西日に、何度もその目をしばたたかせながら。

 おそらくはそれほどの時間は経っていないのだろうが、鮮やかな簾に隠されたその表情から、稔の心中がどう変化したのかを読むことは、出来ないだろう。

 佑子はそんな稔の隣で眩しそうに、手で顔を伏せて夕陽を遮っていた。黒々とした手形が、佑子の相貌に落ち込む…。

 克も自然の効果で堀の深くなった顔を渋らせて、勿体振ったように返事を濁す。

 「気分悪いってやつを、一人で置いとけないだろ、実際。道義的にさ。だからな、お前らだけで、楽しんでこいよ。俺たちには、この、木の板張り合わせた席で十分だからさ。ほら、行ってこい。」

 ここまでの三様の経緯から、どうやら話は、克と稔、そして佑子の三人で観覧車に乗ることになっていたようだ。であるならば、気分の優れない者を一人だけですっ転がして置けないという克の態度は、正しいと言えるだろう…道義的にも。

 「そんな…だって、折角…。」

「もう、いいじゃない、猪山さん。本当、折角のことだし本田に甘えちゃおうよ。ほらっ。」

 未だ決しない稔の腕を、佑子の手が引きよせる。

 急に引き寄せられて、稔の足がバランスを欠いたようにふら付く。そして小さく吐く息。

 それが今日、いや、もしかたら、稔が佑子と乗れる最後のアトラクションになるかも知れない。そのことは稔も、知っているだろうに…最後の最後で、稔の身体から、積極性が置き去りにされていた。

 「おう、行ってこい、行ってこい。」

 克はそんな二人を、『我が意を得たり』とばかりに、薄っぺらい笑顔で送り出した。

 佑子と稔が二人だけで観覧車へ…克はそれを余裕しゃくしゃくで送りだそうとしていた。

 それは天の助けだったのだろうか。そんな、やっと散会しはじめた三人に、待ったを掛けるものが現れた。

 「待って下さい、僕のことは気にしないで…だから、本田くんも、観覧車に…一緒に乗ってきて下さい。お願いします。」

 誰に言われるまでもなく、三人は声のする方に眼をやった。その先で、言葉を発したのが間違いなく自分であることを示す様に、達雄がベンチから半身を起こす。同時に滑り落ちた達雄の左足が、バランスを取る様に薄暗い影を踏む。

 「お願いされても…そういう訳にはいかないだろ。」

 克がベンチに近寄りながら、達雄に噛んで含める様に問い返した。

 達雄は急に身を起こしたため、もろに夕日を浴びたらしく、眩しそうに手の甲で目元を押えていた。

 「僕のことは、本当に大丈夫ですから…。」

 グッと抑えつける様に念を押す、達雄。克はそんな積極的な態度に、こそばゆそうに頭をかいた。

 稔はそんな様子を、振り返り様に見入っている。そんな無言の抵抗にあって、観覧車乗り場の方に体を向けたままの佑子の手は、少し汗ばんでいた。

「こんな場所で、日に二度も男と二人きりっていうのは遠慮したいって気持ちは、解らないでもないが。そんな、深刻に考えることでもないだろ、これくらい。何も二度と来られないわけでもなし。」

「それは、そうですけど…本田くんの…。」

「俺。俺のことは気にする必要ないから。」

 「その、本田くんのことも、もちろんですけど…。」

「もちろん。って、それは、やっぱ付き添いが俺じゃ不服ってことか。」

 「えっ。いえ、そうじゃなくて…。」

「そうじゃなくて…。」

 「本田先輩。」

 ちゃかすように達雄との会話を混ぜっ返す克に、稔が、遂に憤懣やる方なくなったとばかりに、一喝。その表情たるや…鼻息荒いし、眼はマジだ。

 隣の佑子も掴んだ手をひき返されて、驚いたように目をパチクリさせている。

 「お、おう。えっと、稔。そう、そう、そうだった。お前らに時間使わせているのを忘れてた。で、なんだったけな、石川。」

 克は稔の怒りをちゃんと理解していることをアピールするかのように、何度も首を縦に振った。

 その殊勝な態度のご利益か、監視する様な目つきは緩和されることはなかったが、稔の息が正常な音に戻る。

 そんな様子に流石の佑子も笑っていた。

 さて、突発的な事態に置いてかれ気味の達雄だったが、三人の姿を伺って、タイミングを見計らって、だが遠慮がちに、ようやく和なかに踏み込んでいく決心が出来たようだ。克の言葉に稔が納得したのを確認して、話を繋げた。

 「はい、その…ですから、不服とかではなくて…その、確かに本田くんにもし訳ないってことでもあるんですけど…その…本田君の、彼女さんのことが…やっぱり、本当に、折角来たのに、申し訳ないって。」

(むっ。)

 「僕はこんなだけど…でも、その…一緒に乗って見たいって、そういう気持ちは…だから、僕になんか構わないで下さい。」

 達雄の懇請は切々と繋げられた。

 克は何か呆れたように、考え深そうに立っていた。すると、稔が、

「…先輩。」

掴んだ頼りなげな糸を小さく引く様に、呟いた。

 またしても克には、思うところでもあったのだろう、薄く眼の閉じられた自分の横っ面をベタリと撫で下ろした。そして、周りの憂いを掃き落とす様に、乾いた鼻息を一つ。

 「なるほどな、そうまで言われたら、俺としても協力せざるを得んな。ま、篠原にとっては代役が俺じゃあ、不満だろうが。お前の代わりに、同じ箱で一回りしてくるイベント、謹んで拝命させていただく。稔との思い出作りのついでにな。これで、いいだろ。」

「はい、お願いします。」

 自分の思いと相手の理解がかみ合ったのが余程嬉しかったのか、達雄は克の優しげな語気に息せき切って答えた。

 克はそんな達雄に、

「じゃ、また後でな。辛かった、人を呼べよ。」

と言ったきりで背を向けた。

 (まいったね。自分ばっかり気を遣ってるつもりだったんだがなぁ。そうか、石川も、石川で俺と猪山のことに、気を配ってくれていたとは…まいったね、騙してる上に、そんな自然な配慮にすら頭が回らなかったとは…。)

 克は佑子と稔と合流すると見せかけて、

「あれ、本田先輩。」

稔が呼びかけるのも聞いているのか、なにやらお堅いことを考えながら、スタスタと乗り場に足を進めた。

 「本田、彼女が呼んでますよ。」

 佑子がからかう様に間を取りなす。

 今度は稔が、そんな佑子の台詞も聞こえていない様に、ズンズンと克の後を突き進む。

 佑子はクスクス笑いながら、稔に引きずられて、その後に従う。

 当然というか…達雄には一言も無しで…。

 稔が、乗り場の前で思案顔の克を見上げた。

 「先輩、待ってくれてもいいじゃないですか。私…えっと、万全じゃないんですから。」

「うむ。」

 克が稔に尊大に応対する。そして、視線を佑子の方にも流す。

 佑子は稔の言葉を聞いて、一瞬不思議そうにしていたが、何か思い当たることでもあったのだろう、最後には…笑った。

 克が忌まわしいものでも見たように、さっと視線を戻す。そうしてから、唾を飲む。

 稔に向けられた、そんな克の顔は、針でも飲み下したかのように苦しげなものだった。

 「もう、先輩…先輩。」

 稔が今日一日でめっきり詳しくなった、克の態度をいぶかしむ。克は気を取り直す様に頭を揺らして、

「でだ、稔…いや、猪山。ここまで来たけど、そのこと…だから体調は、平気なわけ。」

 「平気かって言われると…でも、大丈夫です。だって、観覧車を、こんな目の前にして帰るなんて、死んでも死にきれませんから。」

「『死にきれない』…だったら、乗らない方がいいんじゃないか。」

 克に突っ込まれて、稔があらぬ方を見据えながら考えを廻らす。

 数秒後、答えは出たのだろうか。稔がニッコリと克に微笑むと、何も言わずに克を手で押し始めた。

 克もそれに習う様に無言で、稔の手を凝視する。この間、当然佑子は何も言わずに付いてきている。

 そうして、三人がいよいよ観覧車の丸い箱のすぐ近くに。稔はまたニコリと微笑むと、いつにない強引さで佑子を引きよせ、

「じゃあ、彼氏さん、お先に。」

瞬く間に二人で箱の中に乗り込んだ。

 この間、克とてただ茫然としていたわけではない。バッチリ、観覧車の係りのスタッフの訝しげな表情を確認して、

「ふむ。」

 ようやくいろいろと腑に落ちたのか、克はしっかりと観覧車の入口の縁を両手で掴むと、義足の存在を感じさせない颯爽とした動きで渦中へと飛び込んで行った。

 克は入るなり、

「おっと。」

バランスを崩したように席に倒れ込む。

 箱の中には二人掛け用のシートが、対面するように二つ。

 今、克の隣に居るものにとっては、克が隣に座ることは、ごく当然のこと。しかし、克にとってはそうでなかったのか、身を寄せ合う隣人を、興味深そうに伺っている。

 じれったくなるほど緩やかに持ち上がる観覧車。

 行儀よく重ねた手を膝に乗せた佑子の、正面の二人に向けられたその屈託のない笑みにも、まだ影が色濃い。 

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