第44話(最終話)
そしてそのまま……そっとキスをした。
「!!!」
え? 何。わ、私何してるんだろう!
目を開けると端正な顔が至近距離にあって、思わず反射的に飛びのく。何でこんなことをしてしまったのか分からなくて、それ以上に羞恥心で真っ赤になる。どうしよう、どうしよう、どうしよう。
頭を抱えていたら、うろたえる間もなく今度は記憶がまるで土石流のように流れ込んできて、それどころでなくなってしまった。
「なに?冷やかしなら勘弁してよね」
初めて認識したあの日の屋上。
「別に気に掛けるくらいなんでもないでしょ。俺がそんなに頼りなく見える?」
期限付きのお目付け役。
「戻っておいでよ」
契約のキス。
「俺のこと嫌い?」
「じゃあさ、俺と付き合わない?」
「じゃあ俺のこと英明って呼んでね。いいでしょ。俺は万夢って呼ぶからね」
彼氏と彼女の関係になってしまった日。
「この俺が必死で汗かいてプレイしている姿なんてなかなか見られない貴重映像だよ」
楽しそうにバスケする姿。
「いいでしょ。俺がこうしたいんだから」
私に生気を吹き込むということについて。
「夢を見るのがしんどいようなら上手く減らすけど」
秘書の仕事。
「こ、こういうのを漁夫の利っていうのかな?」
釣堀での出来事。
「焦らないから、ゆっくり慣れてよ。時間はたくさんあるんだから」
永遠に閉じ込めて飾っておきたい時間。
「今度は万夢からキスしてよ」
その意味を彼は知らない。
「羨ましいの?」
未来のある人生。
「……反則でしょ」
契約解除の、キス。
「……反則でしょ」
彼と目があってしまった。
「反則はどっちよ……なんで、なんでっ! な……」
見られてしまった恥ずかしさと、記憶の洪水に混乱しながらたちあがろうとしたら、腕が伸びてきて、逆に無理矢理キスされてしまった。
目なんて開けていられなくて、思いっきり瞑っている。
けど、だんだん……息が苦しくて、意識が朦朧としてくる。
「けほっ!」
ようやく離してもらった時にはすっかり息は上がっていて、そのとき完全に私の心は彼に吸い取られていた。潤んだ目で睨みつけてみても、全く効果がない。
「なんでいつもそんなにいきなりかなぁ」
泣きそうな声で告げると「ごめんね」と英明君は笑った。
すごくすごく甘い笑顔。
「……」
「……おかえり」
「……ただいま」
それからぎゅっと抱きしめられる。
温かくて……不覚にも私は泣いてしまった。
ずっと、
ずっと泣いていた。
英明君の気持ちが心に染みて。
ごめんねとか、ありがとうとか、嬉しいとか、大好きだとか、そんな単純な気持ちじゃなくて、もっと複雑に絡み合った気持ちが溢れてきてどうしようもなくて、ただ、ただ、すがりつくように泣いた。
「万夢、万夢」
そんな私の頭をただただ優しく彼はなでてくれた。
――おめでとう。
そんな声が聞こえた気がする。
――ああ、残念だけど、俺がもらう魂は前の君の分だけ、半分だけで我慢してあげよう。彼にも、少し意地悪しすぎてしまったからね。じゃあ……
――さようなら。
ありがとう、と届くはずもない夢の主に私は言葉を返した。どうして私を帰してくれたのか分からない。けれど、心に浮かび上がってきたのは、この先の時間を与えられた喜びだった。
思い出せなくなってしまった記憶は、壊れてしまった魂は、かすかに、まだかすかに残っていた、前世の『私』だったのだろうか。
昔はあれほど思い出せたというのに、まるで長い夢を見た後のように、いや、むしろ幻のようにおぼろげで、姿のないものへと変わっていった。
けれど、記憶や経験したことは、消えることなく私の中にあるだろう。
ほかの人が忘れてしまった私の姿も、きっと、心の中にあるはずだ。
「最近眠れないとか言い出して、目の下にクマとか作っているから心配してやったのに、恋煩いかよ!」
彼の親友は、金返せ、と付け加えて英明君に勢いよく手を出した。
「だから、ちゃんと利子付きで返すっていってるでしょ」
「利子はいらんから今返せ。そして、彼女を紹介しろ」
「英明君」
これが最後の初めましてになるのかしら、と3回目の自己紹介をしようと思って声をかけると
「万夢、この茶色のトイプードルみたいな奴が結城朝広で、こっちの黒いミニチュアダックスフントみたいな奴が真野夕馬だよ。二人とも、こちらが俺の恋人、夜神万夢だ」
大変投げやりに親友二人を犬に例えた紹介が返ってきた。
「「英明、おまえええええ!!!」」
思わずそのやり取りに笑ってしまった。
「あの、はじめまして。夜神万夢といいます。どうぞよろしく」




