第41話
「だが、比留間英明といったか。その名前は聞いている。
全く不思議なことがあるものだ」
そう番場は呟くと、少し待つように言い渡し、部屋から何かを取ってきた。
「やる」
言葉とともに押し付けられたのは、大きめの茶封筒と小さな鍵。
「これは何?」
「知らん」
渡した本人も知らないもの。封筒の封はしっかり糊付けされており、中を見た様子もない。封筒の表面には番場本人の文字で、これを比留間英明という人物が訪ねてきたら、鍵とともに渡すよう書き添えてあった。
もしも思い出せたら、万夢への道をつなげてやっても構わない。
記憶をなくす前の番場にそう言われたような気がして、認められたような気がして、そして、彼女の幸せを願っていてくれたことを知って、心が疼くように痛む。番場大地もまた、万夢のことを大事に思っていたのだ。
手でちぎるように封筒を開けると、中から1冊の日記と紙切れが出てきた。小さな鍵は日記かけられた錠を開けるものだろうか。紙切れには病院の住所、延命治療室名、そしてその下に小さく添え書きしてある挑戦状。
目覚めさせることができるなら、やってみろ。
「当たり前でしょ」
ゆっくり微笑む。だって俺にできないはずないでしょ。万夢を目覚めさせてきたのは他でもない俺だから。
不思議そうにこちらを見ている番場にお礼を言って、俺はその場を辞した。
何か聞きたそうにしていたけれど、俺が覚えていることを話してもにわかには信じがたいだろうし、何よりもまず彼女に会いたかった。
朝広と夕馬から現金をもらっておいて良かったと思う。待たせておいたタクシーに病院の住所を渡し、病院まで走ってもらった。面会時間ギリギリになりそうだということだったが、気のいい運転手が裏道を走って時間短縮してくれたおかげで間に合いそうだ。
病院へ向かう車の中で日記を取り出す。ハードカバーの表紙に楽器のイラストがあしらわれた日記には錠がかかっており、手に持った鍵とぴたりと合う。カチャリと音を立てて錠が外れて偶然開いたそのページは、彼女と釣りに行った日の日記だった。
――たくさんの幸せを有難う。
――好きです。
――比留間君。大好きです。
反射的にパタンと閉じてしまう。万夢の文字と気持ちに、寂しさが混じった喜びが溢れてくるけれど、さすがにこれは……、これ以上読んだら怒られるだろ。俺は、彼女との時間を良き思い出に終わらせるつもりはないのだから。
タクシーから外の景色を見つめる。
いつも隣には万夢がいた。万夢がいなくなったあの日の寂しさはものすごく覚えている。
もうあんな景色は見たくないから。
住所だけを頼りに着いた病院は立派で大きかった。なんとなく自動ドアを開けて入るのがためらわれたが、日記を握り締めて足を踏み出す。
受付で延命治療室名と夜神万夢の名前を出して場所を尋ねると、院内マップをくれた。それを片手に何食わぬ顔でどんどん病室を抜けていく。
胸がドキドキしている。
万夢は俺を見てどう思うだろうか?
万夢は俺が思い出したと知ったら?
横開きのドア。その隣には『夜神万夢』の名前が書かれている。
そこで眠っているのは忘れられたこの世の住人。
ゆっくりと扉を開けると、口元には酸素マスクがあてられ、腕にはたくさんの細いチューブがつながれている彼女の姿があった。
「万夢」
痛々しい彼女の頬を触ると、すうっと涙がこぼれて消える。
「思い出したよ」
涙をすくう。そして少し痩せた彼女の頭をゆっくりなでる。
「万夢のこと、忘れるなんてできないに決まってるでしょ」
だってもう、俺の中で大きな存在になっているんだ。万夢がいることが当たり前になっている。
もう会えないなんて、もう話せないなんて、考えただけで張り裂けそうなくらい寂しくて、苦しくて、辛いんだ。
――だったら取り戻しにおいで
またあの声が聞こえた。
誰だ?
問う暇もなく俺は何かに引きずり込まれる。
……夢の中へ。そう、万夢の、夢見の見る最後の夢の中へ。
眩しくて目をギュッと瞑ると、ぐらりと足元が揺れるような感覚がして、猛烈な眠気に襲われた。力が入らないような感覚がしばらくつづき、やっとそれに慣れてくると、おそるおそる目を開ける。
そこはふわふわした空間だった。
目の前には『比留間英明』そっくりの男がいる。その腕には目を閉じたまま眠っている万夢がいた。
「さて、ようこそ夢の世界へ」
いくつかの質問が口から出そうになったが、万夢が無事であることを確認して飲み込む。
ここが夢の中であることは、多分間違いないだろう。ということは、俺の姿をしたこいつは、何者だろう。ただ、先ほど頭の中に流れ込んできた言葉、いや、もっと前から流れてきた言葉を考えると、こいつが夢見に夢を見せている本人である可能性が高い。
「どうして俺をここへ呼んだ?」
「どうして君はここに呼ばれたと思う?」
まるでドッペルケンガーにでも会ったような気味悪さを覚えながら俺は答える。
「万夢を縛り付けている夢の鎖を断ち切るためでしょ」
それより万夢をこっちへ渡して欲しいんだけど。
睨むと、そいつはふっと笑った。
「違うな。今度こそ俺がお前の記憶を消してやるためだ、なんて言ったら?」
なんか、嫌な奴。
「確かに俺には何の能力もないけれど、消されても、消されても俺は覚えているよ?」
「でも、彼女の君に関する記憶は消したよ」
「……え?」
一瞬眉をひそめる。怪訝な俺に、奴はもう一度繰り返した。
「だから万夢の君に関する記憶は消したと言っている」




