第39話
私はふわふわした感覚に包まれていた。
英明君のところに行った私は、契約を解除して彼の記憶を消した。それから空太さんが大地と一緒に迎えにきて……その先は全く覚えていない。
ふんわりした空間。
マシュマロのような地面は弾力があり、足を踏み出そうとするけれど、力が入らなくて、まるで重力がなくなってしまったかのように頼りない1歩となる。見渡す限り、真っ白のマシュマロとピンクのマシュマロ。
地面が平らではなくて、入道雲のようになっているため、その向こうがどうなっているのか分からないが、なんとなく私にはここがどこなのか想像ついた。
願えばなんでもかなうのに、何を願ったところで現実ではないところ。
そのときゆらりと揺らめいて、
「ようこそ、万夢。夢の国へ」
艶やかな声が聞こえた。
身体を安定させにくいこの空間を全く気にしないかのように、その声の主はふわふわとやってきた。その姿を見て、思わず言葉に詰まり、声がかすれてしまう。
「貴方……は?」
「夢の主、かな?」
首を傾げるように答えたその人は、英明君の姿をしていた。
「なんで……」
「このほうが都合がよさそうだから」
薄く微笑を唇に乗せて、彼の姿をしたその人は微笑んだ。
――違う。こんな微笑み方を英明君はしない。
「やめて」
「それは聞けないかな。いままでさんざん俺は万夢のお願いを聞いてきただろ?
夢見は俺のおかげで不思議な力を使うことができたんだから。俺のおかげでいくつもの恩恵をもらったろ?」
それは本当のことで、私は押し黙ってしまう。
「何もとって食おうなんて思っちゃいないから。大丈夫」
1歩夢の主は近づいた。
「ねえ、前世の私の魂をこの世界に呼んだは貴方なの?
夢見は、前世から呼ばれた魂なの?」
1歩私は後ろに下がる。
「俺は、適当に綺麗な魂を掴んで入れただけだよ。たまたまそれが君の魂で、たまたま死んですぐだったから前世の記憶が残ったのだろうね。
ただね、不思議なんだ。夢見の魂は俺のものなのに、なんでまだ心の中に違う男がいるのかな?」
1歩夢の主は近づいた。
「前世の記憶と同じように、大事な記憶だから忘れないのよ」
1歩下がろうとしたけれども、その手が伸びてきて額を大きな手でつかまれる。
「違うね。そんな記憶はすぐに消すことができるはずなんだ。
だって、君も彼の記憶を消したじゃないか」
「それは、彼には未来があるから」
「それも違う。ただの自己満足だよ。君の記憶を持ったまま、彼がほかの人を好きになって、歩いていく未来が許せなかったのさ。
夢は幻。消えゆくのが運命。だから、俺も君の記憶を消してあげるよ」
「いや!」
その言葉にすぐさま私は言い返した。それだけは嫌だと、この記憶を手放してしまったら、今回の私の人生、何が残るのか。絶対的な存在の前で、なんだか震えるけれども、それだけは嫌で、譲れなくて……
――だって、私の一番大切な――
「大切な記憶なの」
訴えるように見つめても「だからなおさら覚えていればいるほど辛いよ」と返される。例え辛くても……私に残ったのはその記憶だけだから忘れたくないの。
なのに「分からないことを言う人だな」と首を傾げるばかりで。
「君は代々の夢見がどこに行ったか分かるかな?」
その人は話の矛先を変えてきた。
夢見の運命、そんなことは分からない。人が死んだ後どこへ行くかなんて分からないのと同じように。
「夢見はしばらく眠った状態でいるんだ。だから死とは少し違う状態にいる。
その間、夢見は夢の主である俺に夢の世界以外の話をしてもらう。俺の暇つぶしみたいなもの?
そうして全ての話が終わったら、これまでの能力の代償として、魂を食べさせてもらうよ。やがて肉体は滅んでしまうからね。もう、転生はしないから安心していい」
額に触れたその手がゆっくり離れていく。
「でも、こんなに若い夢見は初めてだ」
無茶したね。
つらかったね。
……可哀想に。
「っ!」
そしてその人は唇に触れるとそのままキスをした。私は拒むことが出来ずにそのまま固まっていた。
――もう、忘れたほうがいい。
その声の主は強制的に私の中の記憶を排除した。意識といっしょに薄れていく記憶。
そして、私は初めて体験した。忘れていく人の気持ちを。
いつも忘れられる側の人間だった。
一人残されて、寂しい思いを抱えていて、辛かったけれど、忘れる側もこんなに辛かったなんて思わなかった。
忘れたくない。
大事な人を!
なのに記憶は消されていく。
そして私は英明君に対してひどいことをしてしまったのだと気がつかされた。
辛くても、悲しくても、身を引きちぎられるようでも……それでも覚えていたいことはある。
覚えているからこそ人は成長して、人の痛みを分かってあげることができて、決して悲しい思い出は、それだけじゃないものを含んでいる。
……忘れたくないよ。




