第38話
あの日の夕方に起こったことが記憶に蘇ってきた。俺と万夢、夕馬、朝広の4人で撮った写真。そうだ、これを渡して欲しいと頼まれたのだ。
ゆっくりと、記憶が浮かび上がり、井戸から引き上げるように記憶を手繰り寄せる。
あの日、初めて万夢からキスされた。
顔から火が出るかと思った。こんな顔見せられないと思ったのだけれど、背中をちょんと突かれて、振り向いてしまう。あのときの俺は、きっと満面の笑みだった。
多分、今まで生きてきて、一番嬉しかった。
「万夢は俺を微笑ませる天才だね」
「英明君は私を幸せにする天才よ」
そう言って万夢は涙をこぼす。
彼女は嬉しそうに笑うと、「英明君、ありがとう」と言って俺をぎゅっと抱きしめた。
抱きしめ返しながら、どうしてこんなときに御礼を言うのか少し不思議に思った。
もしかして彼女が離れてしまうのではないか、なんてばかばかしい考えまで浮かんで。だって、これじゃあ別れの時みたいじゃないか。
けれど思考は続かず、あのあと急に眠くなってきたのだ。そのときの俺は眠気に支配されてほとんど理解できなかったのだけれど、今思い出した。万夢の言葉。
ありがとう、私といてくれて。私を好きになってくれて。
でも、これからは幸せに、普通に暮らしてください。
大好きだから、だから……
私のことは忘れてください。
急に現実に戻り、しばらくの間呆然としてしまった。そうだ。俺は他でもない万夢に記憶を消されたんだ。
その事実が浮かび上がってきて、俺はひどく傷ついた。
なんで、何で俺は忘れさせられたのだろう。一緒にいたいと、あれだけ言ったのに。
逢いたくて、
逢いたくて、
逢いたくて、
水を求める魚のようにもがいている自分がいる。
「なんで? どうして俺を置いていくんだ?」
震えるように唇からこぼれた言葉を受け止めるように、朝広がゆっくりと俺の頭をなでた。
「落ち着け。大丈夫。大丈夫、まだ大丈夫だから」
何で俺が泣いているのか、知っているはずもないのに、それでも揶揄したりなんかせず、優しく俺の頭をなでる。
途方もなく寂しくて「英明、どーしたんだよ」と心配する夕馬にも、何も言ってやれる余裕がない。万夢のことで頭がいっぱいだから。
「何で俺、思い出せなかったんだよ」
俺の想いなんて、そんなもんなのかよ。
いくら万夢が夢見だからといって、そんな能力なんかに負けるなんてっ。
――でも思い出しただろう?
誰かがふっと笑うような声が聞こえた気がした。
「英明。俺は、お前が何でそんなに泣いてるのか分かんね―けど、もうどうしようもないことなのか? 後戻りできないのか?」
朝広はハンカチがないのか、ごそごそと駅でもらったくしゃくしゃのティッシュを取り出すと、涙を拭いてくれた。そうして、いつもの自信満々の笑顔で何度か頷いて、ばんっと大きな音を立てて背中を叩く。
「俺たちでできることなら何でも協力してやるから言えよ。
泣いてばかりじゃ、本当になんにも進まないぜ」
あいつのいう通りだ、そう理解したとたん、ふにゃふにゃになっていた心が急激に形を取り戻す。
大丈夫。まだ、冷静に考えることができる。それを確認して、安堵した。
「ごめん。ちょっとショックなことを思い出した」
珍しいな、なんていわずに朝広は「そうか」とただそれだけ呟いて頷く。いつもお調子者だと思っていたのに、こいつはいつの間にこんなにしっかりしたのだろう。
落ち着こう。何が起こったのか整理して、どうすればいいのか考えるんだ。
俺はどうしたい? どうしたいって、そんなの決まってるじゃないか。
万夢が欲しい。
――いいよ、あげるよ。俺から奪えるものなら。
また誰かが笑ったような声が聞こえた。
記憶が消えたということは契約の解除がなされたと考えるのが一番早い。
すると次の疑問は「なぜ」「あの日」、本人が契約の解除をしたのだろうかということだ。夢見の仕事はそれほど入っていなかったように思っていた。だから大丈夫だと思っていたのだけれど、本当に大丈夫だったのだろうか。
俺は、彼女の心を手に入れたことに浮かれて、見落としていたのではないだろうか。
彼女は夢と現実の間で、かろうじて生きている少女なのだと、番場は言う。過去を見通し、未来を予言する、夢見の力。そんな力が無償で、しかも無制限に使えるなんてことがあるのだろうか。
もしもリミットがきたら?
夢を見すぎた夢見はどうなるのだろう。
先代の夢見は契約を交わした婚約者と結婚したと聞いた。だからなんとなく、彼女にもまだまだたくさんの時間が残されているのだと思い込んでいたのだけど、違っていたら?
もう、万夢には時間がなかったのだ。
だから、彼女自身の手で契約を解除し、記憶を消したのだ。
俺が、これからも生き続ける俺が……辛くないように。




