ひかりのふね
森とミミのあいだに流れた、ひとつきのしずかな風。
ほんの数日会えなかっただけなのに、ミミにはそれが、長い季節のように感じられました。
教室の窓から見える木の枝、校庭をすぎる風の音、放課後の空の色……
どれもが、森の気配を思い出させました。
けれど、そのあいだも、ノノの言葉はずっと胸の奥で灯っていました。
魔法ってのは、こわれやすいんだ。
けれど、待っていれば、風はまたふくよ。
そして、その日はほんとうにやってきたのです。
空はひくく、透けるような青。
風はやわらかく流れ、葉っぱたちはふれるたびにかすかに揺れて、まるで「ようこそ」とささやいているようでした。
ミミはランドセルをおろし、マッチ箱の本をポケットにしのばせ、長ぐつをはいて家を出ました。
足どりは少し速く、心はもう森の奥を見ていました。
古井戸のそばまで行くと、見覚えのある小さな帽子が、草の上にちょこんと置かれていました。
どんぐりの帽子。
風に吹かれて転がりそうになったそれを拾い上げた瞬間、背後から声がしました。
「……ひさしぶり」
振り返ると、そこにノノがいました。
いつものように、クローバーの影から姿をあらわして。
その顔は、どこかやさしく、前よりも少し大人びて見えました。
「来てくれて、うれしい」
「ごめんね。来られなかった日……」
「ううん。ちゃんとわかってたよ。ミミが忘れてないって、わかってたから」
ノノの言葉は、風のようにやわらかく、森の音のように静かでした。
ふたりは並んで歩きはじめました。
「ねえ、前に言った“ひかりのふね”、見に行こう」
「……ほんとうに? 空のふね、あるの?」
「うん。でも、ただ見上げるだけじゃ見えないんだ。見えるのは、ある時間、ある場所、そして、ある心でしか通れない“空のみち”」
その言葉は、まるで詩のようにミミの胸にしみこみました。
森の道は、光と影のあいだをぬうように続いていました。
ふたりが歩くたびに、草の露がきらめき、鳥たちが短い歌をうたいます。
やがて、道は少しずつ細くなり、木々のあいだから見える空がひらけていきました。
たどり着いたのは、小さな丘。
森のいちばん高いところ。ふだんはだれも来ない静かな場所。
丘の中央には、古い石が円を描くように並べられ、その真ん中に一本の高い木がそびえていました。
「この木は、“空見の木”っていうんだ」
ノノがそっと言いました。
「ときどき、この木は空をわたる船をつかまえて、ぼくらに見せてくれる」
「つかまえるって、どうやって?」
ノノはにこっと笑い、背中の袋から一本の金色の糸を取り出しました。
「これ、月のくもの糸。満月の夜にしかとれないんだ。これを空見の木のてっぺんに結ぶと、ふねがふれる。ふれて、ほんの少しだけ姿を見せてくれるんだよ」
ミミは息をののみました。
ノノはすばやく木をのぼり、枝の先に糸を結びつけました。
金色の糸は風を受けてゆらめき、光の筋のように空へと伸びていきます。
「さあ、目を閉じて。風がふくよ」
ミミとノノは丘の上に並んで座り、そっと目を閉じました。
その瞬間、風が変わりました。
音もなく、やわらかく、けれど確かに“どこか”から吹いてくる風。
頬をなで、髪をすくい、耳の奥でやさしくささやくような、そんな風でした。
ミミがそっと目をひらくと、空に、それは浮かんでいました。
大きくて、透きとおるように淡く光るふね。
ふちが虹のようにゆらめき、すそのような布がたなびき、音もなく空を渡っていきます。
「……ほんとうに、あるんだ」
ミミの声は、風の音にまぎれて消えました。
「うん。空のひかりが森に魔法を落とすとき、ふねはあらわれるんだ。あれは、空と森をつなぐもの。だから、ふねが見える日は、森の奥も、空の向こうも、すこしだけ近くなる」
ふねのなかには、光の影がいくつもゆれていました。
人かどうかはわからないけれど、まるでだれかが旅をしているような、静かな動きでした。
「どこへ行くんだろう……」
「“とおいまど”へ」
「“とおいまど”?」
ノノは、空を見上げながら答えました。
「それは、森が見る夢の出口。世界のどこかで、誰かが見る“ふしぎな夢”とつながる、小さな窓。だから、ふねは空をさまようんだ。だれかの夢を探して、森の魔法を届けにいくんだよ」
ミミは、ただ静かに空を見上げました。
光のふねは、ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと流れていきます。
やがて、空のひかりにとけるように、すこしずつ姿を消していきました。
「ありがとう、ノノ。……来てよかった」
「ぼくも。きみに見せられてよかった」
ふたりは並んで、空の名残を見つめていました。
風がまたやさしくふたりの間を通りぬけていきます。
帰り道、ミミはふと思いました。
(わたしが夢を見たとき……あのふねも、どこかで見ているのかな)
家に帰ると、ミミは机のうえにノートをひらきました。
表紙のすみに、そっとタイトルを書きます。
「ひかりのふねと、とおいまど」
そして、最初のページにこう記しました。
『夢と夢は、ふれるときがある。
魔法が、そっと重なるように。』




