ひとさじの記憶
森の夜は、静かで、そしてあたたかい。
まるでひとつの大きな呼吸のように、風が木々のあいだをやさしく巡っていました。
葉のざわめきが音楽になり、土の香りが空に溶けていく….
そのすべてが、生き返った森の鼓動でした。
森が目を覚ました次の夜、古の木の根元で、ミミとノノは並んで腰を下ろしていました。
ふたりの手はしっかりとつながれています。
頭上には満月が浮かび、星々が光の輪のようにふたりを包みこんでいました。
「森が……生き返ったね」
ミミは小さな声で言いました。夢を見ているような響きでした。
ノノはうなずきました。けれど、その表情はどこか寂しげでした。
「うん。だけど……」
ミミはノノの様子に気づいて顔を上げます。
ノノの瞳の奥には、光と影が揺れていました。
「ミミ……本当は、かたちが変わるだけじゃない。もう、ぼくは森に帰らなきゃいけないんだ」
その言葉は、まるで風のように静かに、でもはっきりとミミの胸に届きました。
夜の森が一瞬、呼吸を止めたように感じられました。
「……知ってた」
ミミはゆっくりとつぶやきました。
「うすうす、わかってたよ。森が元気を取り戻したら、もう魔法は必要なくなるって」
ノノは少し驚いたように目を見開き、それからやさしく笑いました。
「……ぼくら小さなひとは、“ひとさじの魔法”の間だけ、人の世界にいられるんだ」
「じゃあ……今度は、いつ会えるの?」
ミミの声はかすかに震えていました。
ノノは小さく首をふりました。
「たぶん……もう会えない。でもね、ミミ。ぼくたちは、忘れない」
そう言って、ノノはポケットから小さな金色のスプーンを取り出しました。
それは、初めて出会った日に太陽にかざして見せてくれた、“ひとさじの光”のスプーン。
「これを持っていて。もう魔法の力は残ってないけど、ミミとの時間が、この中にぎゅっと詰まってる。きっと、何度でも思い出せるよ」
ミミはそっと両手を差し出し、そのスプーンを受け取りました。
それは小さくて軽いのに、なぜか手のひらがじんわりとあたたかくなりました。
涙がにじみ、月明かりの中できらりと光ります。
「ありがとう、ノノ」
ふたりは静かに抱き合いました。
ノノの小さな体が、葉っぱのマントとどんぐりの帽子ごと、ふんわりと森の香りに包まれています。
ミミは目を閉じて、そのぬくもりを胸いっぱいに焼きつけました。
「わたし、忘れないよ。ノノのことも、森のことも、今日のことも。ずっとずっと、大人になっても」
ノノは少し涙ぐみながら笑いました。
「ぼくも。ミミの笑い声も、おにぎりの味も、マッチ箱のベッドも」
ふたりはもう一度、手を握りあいました。
けれど、やがて指先がそっと離れると、ノノの体は風のようにふわりと浮かび、森の中へと光とともに溶けていきました。
葉っぱがやさしく揺れ、小さな光がいくつも舞い上がります。
ノノの姿はもう見えません。けれど、ミミは確かに感じていました。
風の中に、ノノの声が残っている。
「ありがとう、ミミ」
森は再び静かになり、満月の光だけが、二人のいた場所を照らしていました。
それから、何年もの月日が流れました。
ミミは高校生になっていました。
背は伸び、髪も少し長くなりました。
けれど、その目の奥には、あの日と同じやわらかな光が宿っています。
放課後、彼女はひとりで森へ向かいました。
季節はまた秋。木の葉が金色に輝き、空はどこまでも澄んでいます。
あの古井戸の前に立つと、風が頬をなでました。
木々がさざめき、まるで懐かしい誰かの声が混じっているように聞こえました。
ミミはポケットに手を入れました。
そこには、あの日の金色のスプーン。
少しだけ色あせているけれど、光にかざすと、今もかすかに輝きを返してくれます。
「ノノ……元気にしてる?」
ミミは空を見上げました。
満月が浮かび、星たちがあの夜のように瞬いています。
森は、静かに応えるように葉を鳴らしました。
風が吹き抜け、どこか懐かしい音が耳に届きます。
ミミは微笑みました。
「うん、私も元気。ちゃんと覚えてるよ。全部」
その瞬間、遠くの方で、小さな鈴の音が聞こえました。
それは風のせいだったのかもしれない。
でも、ミミは確かに感じました。
「ミミ、ありがとう」
月の光がミミの頬を照らし、風が髪をやさしく揺らします。
ミミはスプーンを胸に抱きしめ、目を閉じました。
あたたかい光が心の奥から広がっていく。
まるで森の息づかいが、自分の中で続いているように感じました。
それは、たったひとさじぶんの魔法。
けれど、その魔法は、ふたりの心を永遠に結ぶほどの力を持っていました。
そしてその記憶は、いつまでも、いつまでも、ミミの中で、生き続けていくのです。




