ささやきの夜、森の目覚め
古の木に“記憶の種”を植えてから、数日が経ちました。
森の空気はどこかやわらかく、透きとおるようになっていました。
木々の葉はゆるやかに光を含み、枝のあいだから射す陽の筋には、小さな粒のような光が漂っています。
ミミは毎日、学校が終わるとすぐに森へ通いました。
ランドセルを置く間もなく、ノノといっしょに森の中を歩き回ります。
倒れかけた木に新しい芽が生えていないか、鳥の声が戻ってきていないか。
そんなことを確かめながら、一歩ずつ確かめるように進んでいきました。
「なんだか、空気が少しずつ変わってきた気がする」
ミミは風の中に立って、目を閉じました。
頬をなでる風が、前よりも温かく、どこか懐かしい。
ノノも同じように目を細めて言います。
「うん。葉っぱの色も、風の香りも、生きてるって感じがするよ。きっと、古の木の記憶が森中に広がりはじめてるんだ」
そのとき、森の奥から、小さな鈴の音が聞こえました。
風に乗って響く、かすかな音。
それは、森の精霊たちが目を覚ましはじめている合図でした。
光の粒が枝の間をすり抜け、足もとでは見えない小さな命が動き出している。
ミミはその光景に胸をときめかせながらも、少しだけ眉をひそめました。
「でも……全部が元に戻ったわけじゃない」
森の奥の一部では、まだ枯れた木々が立ち尽くしたままで、鳥たちの声もしません。
「まだ、森の中には“眠り”が残ってる」
ノノはミミの顔を見つめ、そっとマントの下から古びた巻物を取り出しました。
それは、古の木と同じくらい古い時代の文字で綴られた、小さな羊皮紙の巻物でした。
「これ、“森のささやき”っていう儀式の言葉なんだ。森の記憶を完全に目覚めさせる、最後の呪文。でもね、この言葉は、人間の心と、小さなひとの心、ふたつがひとつにならなきゃ発動しないんだ」
ミミは息をのんだ。
「じゃあ、私とノノ、ふたりで……?」
「うん。満月の夜に、古の木の前で唱えるんだ」
ノノの声は静かだったけれど、その奥には確かな決意が宿っていました。
ミミはうなずきました。
その瞳にも、揺るぎない光が宿っていました。
そして、満月の夜がやってきました。
空には雲ひとつなく、まるい月が世界を照らしていました。
ミミはおかあさんに「おばあちゃんの夢を見たの」と告げて、夜の外出を許してもらいました。
おばあちゃんからもらった白いマフラーを巻き、小さなランプを手に、森の入り口へ向かいます。
夜露の香りがする道を進むうちに、足もとが柔らかい苔に変わり、気づけば森全体が淡い銀色の光に包まれていました。
古の木の前には、ノノが待っていました。
満月の光が枝のすき間から降りそそぎ、幹の表面はやわらかく黄金色に輝いています。
風が止まり、森の音がぴたりと静まりました。
「来てくれて、ありがとう」
ノノがほほえみました。
その声は風のようにやさしく、どこか遠くの鈴の音と重なって聞こえました。
「ここは……まるで夢の中みたい」
ミミがつぶやくと、ノノはうなずき、空を見上げました。
森のあちこちで、小さな光の粒がゆらゆらと漂っています。
まるで無数の蛍が、森の誕生を祝っているかのようでした。
風が通るたび、光が波のように揺れ、地面までも金色に染まっていきます。
ノノは静かに巻物を広げました。
そこには、古い言葉で刻まれた詩のような呪文がありました。
それは読むだけで、胸の奥に懐かしい響きを残す言葉でした。
「準備はいい?」
ノノが小さく問いかける。
ミミは深く息を吸い込み、ノノの小さな手をそっと握りました。
「うん。一緒にやろう」
ふたりは同時に、ゆっくりと呪文を唱えはじめました。
「ミルナ・トゥリエン・アラ・フォリア…………森の記憶よ、風にのって、眠りの深き枝に、光を届けて」
その言葉が響いた瞬間、地面の奥から黄金色の光が湧きあがりました。
それはまるで森の心臓が鼓動するように、幹を通って枝の先まで駆け上がります。
葉が一斉にざわめき、音のない風が森を走り抜けました。
ミミは目を見開きました。
「見て……!」
木々がまるで歌うように揺れ、光が空へと昇っていきます。
遠くから動物たちが現れました。
フクロウが枝の上で羽を広げ、シカが静かに顔を上げて光を見つめています。
小鳥たちが夜の空に戻り、かすかなさえずりを響かせました。
森の奥から、小さなひとたち、ノノの仲間たちも姿を現しました。
みんな手のひらほどの大きさで、葉っぱの服や木の実の帽子をかぶっています。
その目はやさしく、どこか涙ぐんでいるようにも見えました。
「ノノ……みんな……」
ミミが声を震わせました。
ノノはミミの手を強く握りしめ、微笑みました。
「成功したよ。森が、ようやく目を覚ましたんだ」
その瞬間、空に一本の流れ星が走りました。
それはまるで、森そのものがふたりに感謝を伝えているかのようでした。
星の尾が森を照らし、光が幹に反射してきらめきました。「ありがとう、ノノ」
ミミは静かに言いました。
「ありがとう、森」
ノノはうなずき、ゆっくりと目を閉じました。
森全体がひとつの息をしている。
その鼓動が、ふたりの胸の奥にまで響いていました。
その夜、森はやさしい光に包まれました。
葉のざわめきは子守唄のようで、光の粒は眠る星のように漂い、遠くでは川の音さえも、まるで森の歌の一部になっていました。
長い眠りは終わった。
ミミはそっとノノを見ました。
ノノの姿は光に溶けるように、少しずつ淡くなっていきます。
「ノノ……?」
ノノは微笑みました。
「心配しないで。ぼくら小さなひとは、森といっしょに生きてる。森が目を覚ませば、ぼくらのかたちも変わるんだ。でも、きみがくれた言葉は、ずっと残る」
ミミは涙をこらえ、うなずきました。
「また会えるよね?」
「大丈夫。また、明日ここで会おう」
そう言うと、ノノの身体は光の粒となり、満月の光とともに空へと舞い上がっていきました。
森の奥で、風がやさしく鳴りました。
まるでノノが笑っているような声でした。
その夜、森はほんとうに目を覚ましたのです。
風の音も、木々のささやきも、すべてが新しい命の息吹を奏でていました。
そして、ミミの心の中にも、ひとつの“森”が生まれていました。




