こだまのささやき
星空の音楽祭の次の日。
森の朝は、しんと静まりかえっていました。
空気は少し冷たく、肌をなでる風は、どこか透きとおるよう。
木々の葉には朝露がきらきらと光り、太陽のひかりを受けて、小さな宝石のように輝いていました。
ミミは深呼吸をひとつして、森の小道をゆっくり歩きはじめました。
昨日の夜の出来事が、まだ胸の中でやさしく響いています。
(あの音楽祭、本当にあったのかな?)
(まるで夢みたい)
けれど、耳の奥にはまだ、あの笛の音や鈴の音が残っていて、足を進めるたびに、どこかで小さく鳴っているような気がしました。
そのときでした。
「……こんにちは、ミミ」
ふいに、誰かの声が聞こえました。
けれど、それは風の音でもなく、鳥のさえずりでもありません。
ほんのひと息ほどの短い声。
やさしくて、少し懐かしいような響きでした。
ミミは立ち止まり、耳を澄ませました。
すると、もう一度、声が返ってきました。
「……ミミ」
今度は、木々の奥のほうから。
まるで森そのものが、彼女の名を呼んでいるようでした。
「こだま……?」
ミミはつぶやき、声のする方へと歩き出しました。
草の香り、湿った土の匂い。
あたりには朝露を抱いた小さな花たちが並び、葉の先からこぼれる雫が、光を弾いては落ちていきます。
森の奥、やわらかな光が差しこむ小さな広場にたどりついたとき、ミミは、ひとりの妖精の女の子に出会いました。
白い羽を持ち、淡い金色の髪が陽の光を受けて透けています。
その瞳は、どこまでも静かで深く、まるで泉のよう。
「こんにちは、ミミ。きてくれてありがとう」
彼女はにっこりと笑いながら言いました。
その声はまるで鈴の音みたいに澄んでいて、森の空気にそっと溶けていきました。
「わたし、ココ。こだまと話すことができるの」
そう言って、ココは小さな手のひらをひらきました。
その上には、ふわりと光る粒がいくつも浮かんでいました。
ひとつひとつが星のかけらみたいに淡く輝き、触れれば消えてしまいそうなほど儚い光です。
「これは、“こだまのささやき”のかけら。森が大切な気持ちや秘密を守るために送ってくる、魔法の光なの」
ミミはそっと光の粒を受け取りました。
指先から、あたたかさが胸の奥にゆっくりと広がっていきます。
「……ふしぎ。森が話しかけてくれているみたい」
ココはやさしくうなずきました。
「そう。森はね、いつも私たちに語りかけているんだよ。でも、その声を聞くには、心を静かにして、耳を“世界”にあけてあげなきゃいけないの」
ふたりはそのまま、森の奥へと歩きました。
葉がふれあう音、小川のせせらぎ、小鳥のさえずり。
すべてがひとつの歌のように重なって聞こえます。
「耳をすまして」
ココの声に導かれるように、ミミは目を閉じました。
風が髪をゆらし、葉っぱがひらりと落ちていく。
その音がやがて、ことばのように形を持ちはじめました。
――ありがとう、いつもありがとう。
――あなたがいてくれてうれしいよ。
それは、木々や花たちの声でした。
こだまが、それを運んできているのです。
ミミの胸の奥が、そっと震えました。
森がほんとうに、語りかけてくれている。
その声は、悲しみも喜びも包みこんでいて、まるでミミの心の中をそっと撫でてくれるようでした。
「森の声はね、わたしたちの気持ちを見守りながら、こだまを通して応えてくれているの」
ココが言いました。
ミミは小さくうなずきました。
「……うん。森の声、ちゃんと聞こえたよ。あたたかくて、泣きたくなるくらい、やさしかった」
ココは微笑み、ミミの胸の前に手をかざしました。
光の粒がふわりと動いて、ミミの心の中に吸いこまれていきます。
「それでいいの。森の声を聞ける人は、森の心を持っている人。それを忘れなければ、森はいつでもあなたを守ってくれる」
ミミは静かに息を吸い、光を胸に抱くように両手を当てました。
「わたし、これからも森の声を聞き続ける。ちゃんと、覚えておくね」
ココはにっこりと笑い、羽をひとふりしました。
その瞬間、無数の光の粒がふわっと舞いあがり、朝の光の中で、虹のように散っていきました。
ミミのまわりには、やさしいこだまの声が響いていました。
――ありがとう。
――また会える日まで。
それは言葉ではなく、音のような、祈りのような響きでした。
その日から、ミミの毎日は少しずつ変わっていきました。
風の流れ、水の音、小鳥の歌……
そのすべてが、森のこだまのささやきに思えたのです。
そして、それらはミミの心に、また新しい魔法のひとさじを加えていきました。
やがて森の向こうから、朝日がゆっくりとのぼってきました。
光が木々の間をすり抜け、ミミの頬をやさしく照らします。
ミミは空を見上げて、小さくつぶやきました。
「ありがとう、森。今日も、あなたの声が聞こえたよ」




