ひとさじの魔法
雨があがった午後、空にはまだいくつかの雲が名残惜しそうに浮かんでいて、木々の葉からはしずくがぽとり、ぽとりと落ちていました。
ミミは小さな長ぐつをはいて、お庭に出てきました。
おかあさんは台所でおやつを作っているところで、少し開いた窓から、あたたかなバターとお砂糖の甘い香りがふんわりと漂ってきます。
ミミの鼻がひくひくと動きました。
「今日はクッキーかな。それとも、りんごのケーキかも」
そんなことを考えながら、ミミは水たまりに足をぽん、と落としました。
長ぐつの中に水が入らないように気をつけながら、とんとんと跳ねて、お庭の奥へ、さらにその先の小さな森へと歩いていきます。
この森は、家の裏手にあるちょっとした林のような場所で、大人たちは「たいしたことない森よ」と言うけれど、ミミにとってはとても大きな冒険の入り口でした。
葉っぱのトンネルをくぐったり、落ち葉のじゅうたんを踏んだり、小さなきのこの村を見つけたり。
まるで別の世界に迷いこんだみたいになるのです。
森の入り口には、目をこらさないと見落としてしまうような、古びた井戸があります。
石がごつごつとしていて、ツタがからまり、誰も使っていないようす。
けれどミミはこの井戸の前に立つたび、なにかが胸の奥でふるえるような気がしました。
昔、おばあちゃんがよく言っていたのです。
「その井戸のそばには、ちいさなひとたちが住んでるんだよ。人間にはめったに見えないけれど、心がすっきりしているときには、ふっと現れることがあるのさ」
ミミはもうすぐ七歳になります。
学校では「おばけなんていないよ」と笑う子もいるし、「魔法って子どもだましだよ」と言う子もいます。
けれどミミはまだ、ほんの少しだけおばあちゃんの話を信じていました。
だからその日も、井戸のそばでしばらく立ち止まりました。
風はおさまり、空気はしっとりと澄んでいて、木々の間からこぼれる光が、まるで金色の粉のようにきらきら舞っています。
そのときでした。
「こっち、こっち」
小さな声が聞こえました。
風の音でも、小鳥のさえずりでもありません。
はっきりと、だれかがミミを呼んでいるのです。
ミミはびっくりして立ち止まりました。
そして、声がした草むらの方へそっとしゃがみこみました。
すると、濡れたクローバーの間から、ちょん、と何かが飛び出してきました。
目をこらすと、それはなんと、スプーンほどの大きさの男の子だったのです。
どんぐりの帽子をかぶっていて、肩には緑の葉っぱをマントのようにまとい、手には小さな杖のような木の枝を持っています。
目はつぶつぶの黒曜石みたいにきらきらしていて、けれどどこか、ねむたげでもありました。
「……あなた、だれ?」
ミミがおそるおそる声をかけると、そのちいさな男の子は胸を張って、きっぱりと言いました。
「ぼくはノノ。ほんとうの名前はノノ・ナノナ。森のちいさなひとさ」
「ちいさなひと……本当にいたんだ」
ミミは目を丸くしました。
するとノノは、いたずらっぽく笑いながら言いました。
「うん。でもね、人間にはふつう見えないんだ。とくべつなときだけ。たとえば、今日みたいな日。雨があがって、風が止まって、空気がきらきらしている、そんなときだけ」
「それって……魔法なの?」
ミミが小声で聞くと、ノノは草の影から、小さな金色のスプーンを取り出して、太陽の光にかざしました。
「うん。ひとさじぶんだけの、魔法さ」
金色のスプーンは、まるでひとさじ分の時間をすくいとっているかのように、ほのかに光って見えました。
その日から、ミミとノノは“ひみつの友だち”になりました。
ミミはノノのためにマッチ箱でベッドを作ってあげたり、米粒をすりつぶしてちいさなおにぎりを作ったり、小さな絵本を折り紙で作ってあげたりしました。
ノノはというと、ミミに森の秘密を教えてくれました。
葉っぱの下にしか咲かない薬草、雨粒の形でしか見えない花の道、小人たちだけが通れる「小人の道」……
ミミはノノの話を聞くたびに、森の中に広がるもうひとつの世界を感じて、心がふわりと踊りました。
けれど、魔法はいつもあるわけではありません。
風が強い日にはノノは来られませんし、ミミが誰かとけんかした日は、森が黙りこんでしまうのです。
だからこそ、会えた日はいっそう特別で、まるで宝物のようにたいせつなのです。
その日の帰りぎわ、ノノはミミの耳もとに、そっとささやきました。
「今度、ぼくたちの村に来てみる? ちょっとだけなら、案内できるかも」
「ほんとうに?」
ミミの目がぱあっと輝きました。
ノノはにっこり笑って、草むらのなかにすっと姿を消しました。
葉っぱのそよぐ音といっしょに、遠くからまた、小さな声が聞こえました。
「つぎの満月の日に、きっとね」




