第9話 買収
南原渡が空き教室で恭子に『賢い選択』を迫る、少し前の話。
彼は、学生食堂で昼食を摂っていた。
牛丼をかきこみながら考えていることは、もっぱら自分の受け持っているクラスの厄介事である。
――北波のやつ、やっぱりよそで問題起こして転がってきたタイプか。
思わず、舌打ちが出そうになった。
北波富士子が、西園寺恭子と東条菊に絡んで問題を起こしているのは把握している。
西園寺と東条も大概変な生徒だが……いや、まあそれはいい。
まず、自分がやるべきことは、この問題をどう処理するかだ、と南原は頭を悩ませていた。
彼の考える『処理』とは、問題解決にあらず。
どうやって、このいじめをなかったことにするか、親やPTA、他の教師――特に学年主任や校長にバレる前に揉み消すか。
南原はそんな保身に走る教師である。
ストレスを感じると、タバコが吸いたくなる。しかし、学校はどこも禁煙である。昔はあった喫煙室も、今は封鎖されていた。タバコを嫌うようになった世の中を恨む。
眉間にシワを寄せ、いかにもイライラした様子の彼に、「席、ご一緒してもよろしいですか?」と女の声。
「あ? 他にも席は……」
空いてるだろ、と言いかけて、南原は言葉を切った。
彼の真ん前に座ったのは、対応を考えていた生徒のうちの1人――北波富士子である。
彼女は好物のカルボナーラをテーブルに置き、南原の許可を得る前にズルズルと音を立ててパスタをすすり始めた。
「先生も苦労なさっていますね」
「誰のせいだと思ってんだ」
「もちろん、西園寺さんが悪いですわ」
あまりにも面の皮が厚い。それが南原の感想である。
「アタシ、南原先生にご協力をお願いしたくてぇ」
「おい、俺を面倒事に巻き込むなよ」
クラス担任は渋い顔を隠さない。
「俺は誰の敵にもならないし、味方もしない。ガキはガキ同士、勝手にケンカでもしてればいい。俺には関係ない」
「先生、そういう中立的な立場って、両方に攻撃されるの、よくある話じゃないですか」
つまりは、言うことを聞かなければ富士子も南原を攻撃する気満々ということだ。
彼の心に、苦いものがこみ上げる。ますますタバコに逃避したくなってきた。
「アタシ、先生を悪いようにはしませんよ」
そう言って、彼女は紙片を差し出す。
なにかと思って受け取れば、なにかの数字が書いてあった。……小切手だ。その金額に、南原は目を丸くする。
彼の教師としての年収、それを軽く上回る数字が躍っていた。
「お前、これ……」
「先生はご存知ですよね。アタシのパパ、上場企業の社長なんです。アタシがパパにねだれば、このくらいの小銭はいくらでも出せますよ」
この大金を、「小銭」扱いか……。
目の前にいる世間知らずのお嬢様に呆れながらも、小切手から目が離せない。
「俺に何をしろっていうんだ」
南原の言葉に、交渉が成立したと確信した富士子はニヤリと笑う。
こうして彼女の要求を聞き届けた南原は、恭子に「単位を落とす」と脅しをかけ、『賢い選択』を迫ることになった。
空き教室をあとにした南原は、富士子と合流する。
「言われたとおりにしたぞ。これでいいんだろ」
「ありがとうございます、先生! さすが、大人は頼りになるぅ~」
富士子は有頂天であった。
権力を持った大人を味方に引き入れ、一発逆転を狙う目ができた。
これで恭子は自分に簡単に手が出せない。菊も服従させられる可能性が出てくる。
ニヤニヤ笑いが止まらない富士子に、「いいから、早くアレをよこせ」と南原が要求した。
「ああ、はいはい。これ、お礼です」
富士子は小切手をもう1枚、南原に渡す。
彼は紙片に書かれた金額を見て、目をギラギラと輝かせていた。
「ああ、これで、競馬でスッた借金を返しても一生遊んで暮らせる! 教職なんてどうでも良くなるな」
「いざとなったら、教師なんてやめちゃえばいいですよ。もともと南原先生に向いてないでしょ、この仕事」
本当は、そんなことなど、とっくに自覚していた。
生徒と向き合う情熱もなければ、モンスターペアレントとやり合う根性もない。
ただ、安定した収入と公務員という肩書きが欲しかっただけだ。
学生時代に「なんとなく」で取った教員免許。それが今になって、自分の首を絞めているような気がした。
でも、このカネがあれば、こんな仕事、いつだって辞められる……。
「先生もわかってると思いますけど……いざとなったら、アタシも被害者ぶりますよ?」
「は?」
「『担任に金を渡せと脅された』とか、『内申を盾にされた』って、言おうと思えば言えちゃいますもん」
「……」
「でも、先生が協力してくれるなら、そんな話は一切出てこない。そういう関係でいたいなって思ってます」
このガキ……と南原は苦汁をなめた気分だった。
しぶとく、面の皮が厚いだけあって、富士子もただでは美味しい思いをさせてくれないらしい。
教師は権力を持っているが、生徒に脅されたら弱い。この関係を、うまく乗りこなさなければ、お互いの立場が危ういシーソーゲームである。
「それじゃ、先生。このあともよろしくお願いします。どんどん西園寺を追い詰めてくださいね」
――しかし、この2人は気付いていない。
廊下の上部、清掃用具ロッカーの上。目立たないように仕掛けられた小型のカメラが、音もなく2人を捉えていた。
その映像は、東条菊のスマホと自宅PCにリアルタイムで送られている。
スマホの画面を見つめながら、菊は静かに笑った。
「これで、駒は揃ったね――」
〈続く〉




