第7話 決断
西園寺恭子と東条菊が幼稚園時代の思い出を、恭子の右腕の傷とともに語ったその日から、クラスで彼女たちを表立って笑うものはほとんどいなくなった。
もちろん、未だに陰口として恭子に嫉妬する生徒はいるだろう。それでも、少なくとも恭子にわざわざ嫌がらせをしようと考えるのは北波富士子くらいのものである。
彼女はめげずに、次の作戦を考えていた。
「『あの3人組』をもっと利用しよう。こうなったら骨と皮になるまで使えるものは使い潰す!」
みのり、さおり、くるみ。あの3人はまだ富士子にとって利用価値がある。
特に、くるみ……あの臆病な小心者は、少し脅せば大人しく言うことを聞くはずだ。
いつも何かにビクビクし、半泣きになっている少女を思い浮かべた。
――あんな女、アタシが保護してやらなかったら、他のやつにいじめられてただけだし。
富士子は早速手紙を書き、授業中にそれを回して、くるみを放課後、呼び出すことにした。
「わ、わたしになにか用、ですか……?」
くるみはおどおどしており、自然と富士子には敬語を使ってしまう。
富士子は「ああ、そんなに固くならなくていいって」と、くるみに表向きフレンドリーな態度を見せた。
「私とくるみちゃんの仲でしょ? 緊張しなくていいんだよ?」
しかし、くるみの肩に手を置くと、彼女はビクッと大きく震える。まるでリスか何かの小動物だ。握りつぶしたくなるタイプの。
「今日はね、くるみちゃんにお願いしたいことがあってぇ〜」
「は、はぁ……」
くるみはそっと周囲を警戒するように見回した。
誰もいない放課後の空き教室。人の気配はなく、助けは期待できない。みのりは水泳部、さおりは文芸部で活動しているはずだ。部活が終わったあと、3人で合流して帰る予定だった。くるみも家庭科部に向かうつもりが富士子に捕まったのだ。
「くるみちゃん、前のカップケーキは良かったよ〜。惜しいところだったけど……失敗しちゃったのは、まあタイミングとかいろいろ悪かったし、仕方ないよね? くるみちゃんのせいじゃないから、気にしなくていいよ」
富士子は今にして思い出してもお腹が痛くなってくる気がする。作戦自体は失敗したものの、毒入りカップケーキ自体の効果はテキメンだった。くるみはまだ使える手駒だ。
「私ね、前のくるみちゃんに戻って欲しいなあ……」
「前の、わたし……?」
「アタシに従順で、何でも言うこと聞いてくれる、可愛いくるみちゃん」
富士子は妖しい笑みを浮かべながら、くるみに歩み寄る。
くるみは思わず気圧されて、ジリジリと後ずさりした。
壁際に追い詰められ、富士子に壁ドンされる。
「今度は西園寺さんと東条さんの仲を引き裂くような、面白い噂考えてよ。くるみちゃんなら出来るって」
富士子の悪意ある囁きが、くるみの耳元で吐息と一緒に吹き込まれた。
くるみは顔を真っ青にして、今にも泣き出しそうなほど、目に涙をためる。
――西園寺さんと、東条さんに、これ以上迷惑をかけたくない。
彼女はカップケーキ事件で、恭子と菊の優しさに触れた。あのときの罪悪感、2人にかけられた言葉、全部覚えている。
みのりやさおりとの会話もフラッシュバックした。
――くるみ、もうあの女とは距離を置きましょう。
――私たち、このままじゃダメだしっ。富士子のやつ、マジで私らを便利な道具としか思ってないのバレバレだし!
くるみの喉はカラカラに渇いていた。なのに、声を出そうとすると、唾すら飲み込めない。膝がガクガクと震える。怖い。すごく怖い。それでも、心のどこかで、西園寺さんや東条さんの顔が浮かぶ。
「……ごめんなさい。もう、無理です」
断ると、その笑顔はほんの一瞬、ぴきりとひび割れた。
富士子は心の底から不思議そうに、目を大きく見開いているが、その目は笑っていない。
「ええ? なんでぇ?」
「わたし、これ以上誰かを傷つけるの、いやです。とにかく、無理なんです」
途端に、微笑んでいた富士子の表情が崩れる。
「…………はぁ? アンタ、アタシに逆らう気?」
醜く顔を歪めた彼女は、くるみを脅しつけるように罵る。
「アタシに楯突いたら、タダじゃ済まないわよ! 西園寺みたいな目にあいたいの!?」
「脅されても無理です。わたし、もうあなたのためには動きません」
「……チッ。役立たず。もういいわアンタ、終わりね。西園寺を片付けたら、次はアンタの番だから。もうアンタなんかには頼らないよ、利用価値のないグズ! アタシに逆らったこと、後悔してももう遅いから!」
気が済むまで罵倒したあと、富士子はドスドスと大きな足音を立てて去っていった。
去っていく富士子の背中を見ながら、くるみはただ呆然と立ち尽くしていた。肩から力が抜け、手がぶらんと垂れ下がる。足はガクガクと震えて、次の一歩すら踏み出せない。壁に寄りかかったまま、ズルズルと力が抜けて床に座り込んでしまう。教室の床が妙に冷たく、いつのまにか汗をかいていたことに気づいた。
「こわかった……本当に、もう……無理……」
でも、それでも――。くるみは決意していた。泣きながらでも、震えながらでも、自分の意思で「誰かを守る」側に立ちたいと。
教室の時計を見ると、そろそろみのりとさおりの部活動も終わる頃合いであろうか。
くるみはゴシゴシと目をこすって涙を拭いたあと、2人に合流した。
「ええっ!? 富士子に脅されたっ!?」
「あの女、私たちがいない隙を狙って、やってくれたわね」
みのりとさおりは、怒り心頭といった顔で、くるみを慰め、励ます。
「よく富士子の脅しに負けなかったわね、えらいわ、くるみ」
「そーそー! 大丈夫だよっ、私たちがくるみのこと守るからねっ! 私たち友達だもんっ!」
2人の温かい言葉に触れ、くるみは気が抜けて号泣してしまった。
「こっ、こわ、怖かったぁ……」
「うんうん、気持ちはわかるよ」
みのりがくるみの背中を撫でて、泣き止むまで寄り添う。
「これ以上は私も傍観者を気取っていられないわ。3人で西園寺さんと東条さんに協力しましょう。もうそれしか私たちが生き残る道はないわ」
さおりの言葉に、みのりが頷いた。
街灯がちらちらと灯る中、3人は並んで歩く。ふと、さおりが足を止めて空を見上げた。薄い雲の向こう、ぽつりと星がひとつ瞬いている。
「……この空の下で、あんな女に怯えてたなんて、バカみたいよね」
みのりはくるみの手を取って、小さく握った。
「もう大丈夫。これからは3人で、絶対に負けないからっ!」
くるみの小さな背中を、みのりとさおりがそれぞれ片方ずつ支えるようにして、3人はゆっくりと歩き出した。足元には、夏の終わりを告げるかのように、小さな木の葉が風に舞っている。
――自分はもう、誰かの言いなりじゃない。
くるみはそっと胸に手を当てて、小さく息を吸い込んだ。
「……ありがとう、ふたりとも」
「気にしない気にしないっ。これからは3人で富士子と戦うっしょ!」
「味方がいるって、こういうことなのね」
その手のひらには、かすかな温もりと、新しい勇気が宿っていた。
こうして3人娘は、事件解決のために恭子と菊に協力を申し出ることになるのだ。
〈続く〉




