第5話 超えてはいけない一線
季節は6月になり、雨が降る日が多くなった。
西園寺恭子は教室の窓から、しとしとと降る雨と、灰色の雲に覆われた空を眺めている。
「梅雨か……。嫌な時期だね。食べ物はカビるし、髪型は崩れるし」
「私は恭子の髪をいじる理由が作れるから、案外嫌いじゃないけどね」
「理由なんてなくても菊は触るでしょ、私の髪」
東条菊はうやうやしく恭子の髪に指を通し、櫛で丁寧に髪を整えていた。
菊は恭子の長い黒髪が好きだ。シャンプーの香りがほのかに漂ってくるが、それがしつこすぎなくていい。
仕上げに、恭子の持っている黒いヘアゴムで後ろでひとつにまとめると、彼女が「ありがとう」とお礼を言って、自らの髪に触れた。
「菊がいつも髪をきれいにしてくれるから助かる」
「どういたしまして。たまには髪を編むのもいいかもね、三つ編みとか」
そんな会話を交わしていると、「あ、あの……!」と2人に話しかける人物がいる。
「ああ、君は……。……」
菊は少女を見て、しばし沈黙した。
「菊、くるみさんだよ。クラスメイトの名前くらい覚えて」
恭子がさり気なく小声で菊に囁く。
「くるみさん、私たちになにか用かな?」
菊はしれっと名前を忘れていたことをなかったことのように振る舞った。
「よ、よかったら、これ……」
くるみは、おずおずと小さな袋を差し出す。
透明な小袋の中に、小さなカップケーキが3つほど、それが2袋。
「くれるの? ありがとう、くるみさん」
「あ、あう……。あの、こっちの袋が西園寺さんで、こっちは東条さんの、です……」
恭子に差し出された袋は、ピンクのリボンがかかっていた。菊のものは、青いリボンである。
「これ、それぞれなにか違うのかな?」
恭子が不思議そうに首を傾げると、くるみはおどおどとしながら恭子と菊に視線を送った。
「……よ、よかったら食べてください! それじゃ!」
くるみは踵を返すと、足早に教室を出ていく。
「行っちゃったね」
恭子は珍しいものを見るように、カップケーキの袋をしげしげと眺めていた。
「菊にプレゼントを贈る人は多いけど、私にまでものをくれる人は初めてかも」
「そうだね……」
菊は教室の扉を見つめている。
その扉のガラス窓に、茶髪の女生徒が映っていた気がした。
「くるみちゃん、ナイス! お疲れ~」
肩で大きくハアハアと息をしながら、ブルブルと震えているくるみの肩を叩いているのはウェーブの掛かった茶髪……富士子だ。
くるみは今にも涙がこぼれそうな顔をしている。
「わ……渡しちゃった……あのカップケーキ……」
くるみは小刻みに震えている自分の両手を見つめ、罪悪感に押しつぶされそうだった。
あのカップケーキ……恭子に渡したほうだ……には、朝顔の種が入っている。
それには、強い下剤作用があると、富士子がスマホで調べたのであった。
その種を、くるみが焼いたカップケーキに混入し、こうして恭子の手に渡ったのである。
「うっ……」
「あーあー、泣かないでよ、くるみちゃん。大丈夫、あの女はせいぜいトイレにこもって、しばらく出てこられなくなるだけだから」
ポロポロと涙をこぼすくるみに、富士子は「お駄賃を払わないとね」と茶封筒を握らせた。中には5万円入っている。
「これで美味しいものでも食べて、元気だしてね。じゃあね~」
富士子は鼻歌を歌いながら、るんるんとその場をあとにした。
くるみは、「こんなのいらない……」と茶封筒をゴミ箱に捨てようとして、だが結局ポケットにしまってしまう。お金に屈した自分の情けなさに、また涙があふれた。
少なくとも、しばらくお菓子を作れないと彼女は思う。富士子に逆らえないことを理由に、自分の手で、大好きだったお菓子を汚してしまった後悔の念が消えない。
その日最後の授業は英語だった。
「先生、ちょっとお手洗いに行ってきます」
恭子がお腹を押さえながら、慌てたように教室を出ていくのを、富士子はニマニマしながら見送る。
「あら、西園寺さん、大丈夫かしら」英語教師の岡田が、心配そうに、恭子の出ていった教室の扉を見やった。
「センセー、気にしなくていいよ。多分、放課後まで戻ってこないんじゃない?」
富士子が言った通り、恭子は授業が終わっても戻ってこない。
「東条さん、2人きりだね」
放課後、恭子が戻ってくるのを待っていた菊に、富士子が寄り添う。
「うん……。困ったね、一緒に下校するつもりだったんだけど」
「たまにはアタシと帰らない? 美味しいレストランでディナーとかさ」
富士子は恭子がいないのをいいことに、菊にスリスリとすり寄っていた。
菊は「あ、そうだ」とカバンを漁る。
「これ、くるみさんにもらったんだけど、よかったら一緒に食べようよ」
富士子は袋のリボンを確認した。……青いリボン。安全だ。
「食べさせてあげようか?」
菊に誘われて、「いいの!?」と上ずった声が出た。
心が楽園にいるかのように多幸感に満たされる。
「はい、あーん……」
目を細めた菊が、カップケーキをひとつ摘んで、富士子の口に運んだ。
口に含むと、スポンジの甘く柔らかい食感が、富士子に幸せの味を教えてくれるようだった。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか、恭子」
「……え?」
富士子が、教室の外に目を向けた菊の視線を追いかける。
教室の扉にもたれるように、恭子が立っていた。
彼女は、感情のない目で富士子を見ている。
「な、なんで、」
「北波さん。超えてはいけない一線を超えたね」
恭子の無感情な視線に、わずかに怒りが混じった。
菊はカバンを持って席を立ち、恭子の横に並ぶ。
「くるみさんを追いかけて事情を聞いたよ。彼女に残酷なことをしたね」
「私たちは、もうあなたを見過ごせない」
2人の責めるような視線を浴びて、富士子はだんだんお腹が痛くなってきた。
……いや、これは精神的なものではなく……。
富士子の表情が、見る見るうちに青ざめていく。
「え、なんで……あたし、食べたの……青い方……あれ……?」
お腹を押さえて蹲った瞬間、彼女の瞳から怒りが消えた。
ぎゅるるるるる……と富士子のお腹が悲鳴を上げる。
富士子は震える手で腹を押さえながら睨みつけた。
「アタシが……こんな……」
「自業自得ってやつだね。カップケーキのリボンをすり替えただけで、まさかこんな単純に引っかかるとは思わなかったけど……」
恭子は目を伏せて、教室のドアから一歩脇に避ける。
富士子は一目散に教室を飛び出した。
「お、覚えてなさいよ、西園寺ィーッ!」
彼女は悲痛な叫びを上げながら、トイレへと駆け出していく。
その後ろ姿を、廊下にいたくるみが見送った。
「くるみさん、教えてくれてありがとう。私も危ないところだった」
恭子がお礼を言うと、くるみはふるふると首を横に振る。
「もともと、わたしが悪いの。北波さんに逆らえなかったから……」
「でも、私と恭子は助けられた。北波さんを裏切るの、怖かっただろう? 本当に、ありがとう」
菊が優しく肩を撫でると、くるみは感極まって泣き出してしまった。ポロポロと涙の水滴が頬をつたい、顎から床へと滴り落ちていく。
「ごめんなさい……ごめんなさい、西園寺さん……!」
しゃくりあげながら何度も何度も謝罪を繰り返すくるみを、恭子も菊も決して無下にはしない。
2人は、くるみが泣き止むまで傍に付き添ったのである。
〈続く〉




