第3話 怒らせてはいけない人
北波富士子の嫌がらせによってセーラー服を水浸しにされた西園寺恭子は、東条菊と一緒に乾かす場所を探していた。
「家庭科室とかなら服を干せる場所、あるかな」
「……ねえ、恭子」
恭子の後ろを歩きながら、拳を握って震わせていた菊が、怒りのにじんだ声を発する。
「どうして、私を止めたの」
「あそこで止めなかったら暴力沙汰でしょ。私、菊には停学処分とか、されたくないし」
体育の授業を受けたときのジャージ姿で、恭子は廊下を歩いた。今日中にはきっと乾かないので、ジャージで帰宅しなければならないだろう。
「私、停学になってもいい。あの女、一発ぶん殴らないと気が済まない」
「菊」
恭子はセーラー服を両腕に抱えたまま、菊を振り返った。
「私は、菊と一緒に学校行きたいよ」
「――」
菊は恭子にそう言われると弱い。恭子に逆らう気はないし、一緒にいたいと言われて胸が多幸感で満たされる。
とはいえ、このまま富士子を放置するわけにもいかないのは事実だ。
「恭子、これからどうするの」
「それを、菊と一緒に考えたい」
家庭科室にたどり着いた2人は、被服室の窓際にセーラー服をハンガーで干した。
この日は翌日にかけて晴れ。次の日、取りに来る頃にはすっかり乾いているはずだ。
「ねえ、菊。北波さんは『証拠がない』って言ってたけど、菊は多分、証拠持ってるよね?」
恭子の言葉に、菊は小さく頷く。
「これなんだけど」
制服のポケットからスマホを取り出し、画面を操作した。
そこに映っていたのは、恭子の席が映った映像だ。
その画面の中で、富士子が体育の授業を抜け出したのか、1人だけ教室に忍び込んで、恭子の机の上にあったセーラー服を盗んだ映像がハッキリと映っていた。
それを教室の外に運び出している様子を見るに、水道でセーラー服を水浸しにしたのだろう。
他にも、恭子の教科書に水筒のお茶をぶちまけている瞬間も捉えられていた。
「あー……これは決定的だね」
「ただ、この映像を証拠として出すと、そもそもどうしてこんな映像を撮ってたのかっていう話になるから言えなかった」
菊は悔しそうにうつむいている。
転校生である富士子は知らなくても無理はない。
『白藤女学院の王子様』と呼ばれるイケメン女子、東条菊は――西園寺恭子に執着し、彼女を傷つけるものは決して許さないヤンデレである。
恭子が「私にこれ以上関わらないほうがいい」と警告した理由も、菊を怒らせると、とんでもないことになるからだった。
ちなみに、菊が恭子を盗撮していることを、恭子はしっかり把握しており、その上で許可している。この2人の関係は常人には理解が難しいかもしれないが、驚くべきことに恭子は菊のこういったストーカー行為を甘んじて受け入れているのであった。
それはさておき、恭子は菊に提案する。
「まずは証拠をもっと集めよう。私たち2人で協力すれば、北波さんを止められるかもしれない」
「証拠……。それを集めて、誰に訴え出るか、だね」
恭子と菊はクラス担任の南原を思い浮かべたが、すぐに首を横に振って打ち消した。
あの怠惰な教師が、どうにかしてくれるとは思えない。
ただ、彼に報告だけはしなければならないだろう。担任が自分の受け持っているクラスの事情を知らないのは問題である。
2人は職員室を訪れて、南原を呼び出した。
彼女たちの予想通り、担任教師は渋い顔をしている。
「ったく、面倒事を起こすなよ」
「それは北波さんに言ってください」
菊の目は冷たい。自分の愛するものを守ってくれない駄目な大人など、最初から期待はしていないが、流石にこの態度を見ると幻滅してしまう。
しかし、南原は、その失望をさらに上回っていく。
「いいか、騒ぎってのは声を上げなければ存在しないのと同じなんだぞ」
「は? ……恭子に、黙って嫌がらせを受け続けろって言いたいんですか?」
「それは、流石に私も困ります」
虫けらを見るような蔑んだ視線を向ける菊と、眉根を寄せている恭子。
そんな2人を見ながら、担任はボサボサの後頭部をかきむしった。白い粉のようなフケが辺りに飛び散る。
「はぁ~……。面倒だな。東条、お前いつも王子様ごっこしてるんだから、その要領で西園寺を守ってやればいいだろ。俺は何も知らなかったことにしてくれ」
「先生みたいなのでも教師になれるなんて、驚きました。もういいです。行こう、恭子」
「あ、ちょっと待て」
南原に呼び止められて、立ち去ろうとしていた恭子と菊は振り向いた。
「いいか、余計なことはするなよ。親に言うとか、絶対にやめろよな」
2人はもう振り返らなかった。
職員室をあとにした菊は、歩いている途中で廊下の壁に握りこぶしをドンッと叩きつける。
「信じられない……。やっぱり私が恭子を守らなきゃ……」
壁にもたれかかりながら、ぶつぶつとつぶやく菊。
一方の恭子は、顎に手をやりながら考え込んでいた。
「南原先生は頼りにならない……。他に生徒を守ってくれる人を探さないとね」
「私じゃ駄目?」
「菊ももちろん頼るけど、大人がいたほうがいいよ。こういう、子どものケンカにはね」
そうこうしているうちに、もう授業は始まっている。
2人は自分たちの教室に戻った。
「西園寺さんと東条さんって悪い人~。授業抜け出して遊んでたんだ」
英語の授業に戻ってきた2人を見て、富士子はいやらしい笑みを浮かべ、ニヤニヤしている。
菊はイラッとした顔で彼女を睨んだ。恭子は肩をすくめて席につく。
「西園寺さん、東条さん。教室にいなかった理由を教えてくれる?」
英語の教師、岡田が2人に事情を尋ねたので、菊が説明した。
恭子の制服が『何者かによって』水浸しにされていたこと。教科書もお茶をかけられて使えないこと……。
「あら……。誰かしらね、そんな酷いことをするの。それっていじめじゃないの」
「大げさだよ、センセー。きっと西園寺さん、東条さんを独り占めしたバチが当たったんでしょ」
富士子はクスクスと笑っている。
恭子と菊が驚いたのは、他にも笑っている生徒が複数いたことだった。
いつの間に、この短期間で富士子は味方を増やしたのだろうか。
岡田は咳払いをする。
「とにかく、このことは先生たちの間で共有しておきます。心当たりがあるなら、誰かが黙ってるとは思わないことね」
女教師の目がほんの少しだけ富士子を見た気がした。
その日最後の授業だった英語を終え、恭子はジャージ姿のまま帰り支度をしている。
富士子が通り過ぎざまに恭子にわざとぶつかった。
「西園寺、これで終わりだと思うなよ。アタシを怒らせたらどうなるか教えてやっからな」
誰にも聞こえないような低い声で囁いたあと、「みんな、おまたせ! 帰ろ帰ろ~」と、やけに楽しげな声を出して教室を出ていく。
富士子の周りには3人ほど女生徒が集まり、ワイワイと帰っていった。どうやら、彼女は女生徒のグループを作り、リーダー格におさまったようだ。その中に、1人だけ、どこか曇った顔で目を伏せている女子がいた。
「恭子。……帰ろう」
菊が差し伸べてくれた手を取る。恭子は鼻の奥がツンとしてきたのを感じていた。顔は自然と下を向き、少しだけ、歩くペースが遅くなる。菊は彼女に黙って寄り添うことしかできなかった。
恭子と菊、富士子の因縁と確執は、まだ始まったばかりである。
〈続く〉




