第2話 北波富士子という女
西園寺恭子と東条菊が教室に向かっていた、ちょうどその頃。
北波富士子は不機嫌を隠すことなく、学生食堂で残りのカルボナーラを食べていた。
「んもう、何なの、あの女!」
ぶうっと頬を膨らませながら、フォークを持った握りこぶしをテーブルに叩きつける。
思った以上に大きな音が出て、周りのテーブルの生徒や教師が驚いていたが、富士子にとってはどうでも良かった。
北波富士子という女は、成金の娘、お嬢様である。
これまでの人生、会社の社長である父のカネを積んで、手に入らないものなどなかった。
カネというものはなんでも買える。恋人も友達も、カネをちらつかせれば笑顔で富士子に従ってくれた。
それだけではない。永久脱毛からエステ、整形手術に至るまで、父にねだればどんな美容施術も受けさせてもらえる。それで彼女は己の美を保っていた。この顔面で意中の相手に迫れば、誰でも面白いようにころりと落ちる。人生イージーモードというやつだった。
だが、菊だけは違った。あんなに至近距離で顔を見せてやったのに、あの王子様ときたら、向かいで親子丼食ってる地味女ばかりを見つめているのだ。人生で初めての屈辱だった。
「あの西園寺恭子とかいう女、許せねえわマジで。なんなの、あの女。どこをどう見たって、アタシの方がイケてるじゃん。あの顔で? あの態度で? アタシより先に東条さんに選ばれるの? 意味わかんないんだけど」
潰す。己の持てる力を最大限活用して、あの女だけは完膚なきまでに叩き潰す。富士子はそう心に誓った。
「となると、作戦を立てる必要があるわね」
さて、どうやって、あの貞子みたいな地味子をベコベコにへこませてやろうか。
富士子の口は、自然に笑みを作っていた。こういう悪巧みをしているときの彼女はイキイキしている。転校前の学校でも似たようなことをして、半ば追放のような形で白藤女学院にやってきたが、まったく反省の色がない。
残ったカルボナーラを、思いっきり音を立ててズルズルズルーッ!! とすすると、周りで食事をしていた人々が嫌な顔をしたが、彼女は一向に気にしない。自分が世界の中心だと思っているので、周りの人間は自分を引き立てる、ただのモブくらいにしか認識していないのである。
学生食堂から教室に戻ると、菊が恭子の長い髪を櫛で梳いているところだった。
菊がうっとりした顔で恭子の髪をいじっているところを見ると、食べたばかりの胃の辺りがムカムカする。
それを押し殺すように笑顔を作り、「東条さーん」と背後から抱きついた。
菊は感情のない目を富士子に向ける。
「アタシを置いてくなんてひどーい。学校案内してくれるって約束だったでしょぉ~?」
「他の人に頼んでくれないかな。私、今は恭子の髪のケアに忙しいから」
まるで、恭子に付き従う執事のようだな、と富士子は呆れた。王子様じゃなかったのか。
しかし、気を取り直して財布を取り出す。
「じゃあ、いくらならエスコートしてくれる? 案内料金払うよ、全然。10万で足りる?」
学生には刺激的な、とんでもない金額が出てきて、教室内の生徒たちが静まり返って3人を見ていた。
菊は目を細めて、「ああ……」と吐息混じりに言葉をこぼす。
富士子は彼女の反応に甘美な勝利を感じた。
今、菊の心は揺れているのだろう。やっぱりカネの力は偉大だ。きっと、菊もカネの前にはひれ伏すに違いない。
ところが、菊の反応は先ほどよりもさらに冷ややかなものだった。
「お金を出せば誰でも屈服させられると思ってるんだね、君は。なんだか、可哀想だ」
「か……可哀想!?」
予想外の答えに、富士子は金魚のように目を丸くして驚き、口をパクパクさせている。菊の吐息混じりの声は、ただの呆れたため息だった。
彼女は恭子を抱き寄せながら、虫けらを見るような視線を富士子に向けている。
「私と恭子の関係は、お金で買えない価値がある。それを、カネを餌にして引き裂こうとするなんて、私たちに対する最大限の侮辱だよ。そのカネで他の案内人を買えばいい。私は君を軽蔑する」
富士子は呆然と菊を見ていた。菊の吐いたセリフこそ、富士子にとって最大の屈辱的な言葉である。
――であれば、いったい何者なのだ、この西園寺恭子という女は。
どんな手を使えば、この王子様をここまで盲目的に従えることができるのだ?
富士子は唇を噛み締めて恭子を睨んだあと、教室を飛び出した。
クラスメイトがざわつく中、菊は何事もなかったかのように、再び恭子の髪に櫛を通し始める。
「菊、今のは、ちょっと言いすぎじゃない?」
「そんなことはないだろう、恭子。私は貴女を軽視されるのが耐えられないんだ。あの転校生は身の程を知らなすぎる。今のうちに教育しておかないとね」
恭子は髪をいじられたまま、肩をすくめた。これで、また妙な騒動にならなければいいのだが。
……もちろん、何事もなく終わるわけがなかった。
翌朝、登校した恭子と菊は、教室で異変を知ることになる。
「おや、恭子の机に花瓶が乗ってるね」
「ご丁寧に菊の花まで挿してあるね」
これまた、古典的な嫌がらせであった。恭子はさして気にするでもなく、花瓶を黒板近くのテーブルに置く。
「西園寺さん……大丈夫?」
仲の良いクラスメイトが「ひどいよね」と口々に不満を漏らした。
「うーん、でも花を机に置かれたくらいなら実害は少ないから」
恭子は小さなことは気にしないおおらかな性格ゆえに、そこまで傷ついているわけではない。
しかし、これはまだ序の口であった。
体育の授業でジャージに着替えて移動したあと、戻って来ると、恭子のセーラー服が水浸しになっている。
教科書もお茶のような液体をこぼされ、ページがくっついて剥がれなくなっていた。
エスカレートしていく嫌がらせの数々に、恭子より先に怒りをあらわにしたのは菊である。
「北波さん、どういうつもりだい?」
菊は富士子の座っている机を手のひらで叩いた。
バァン、と大きな音を立てて、教室中の生徒が振り返る。
注目が集まる中、富士子は菊を見上げながら、へらへらと笑っていた。
「やだぁ、東条さんこわぁい。証拠もないのにアタシを犯人扱いするとか、ひどくなーい?」
「君以外に、心当たりがないものでね」
「ええ~? それって結局根拠がないってことでしょ? 白藤女学院の王子様が、冤罪とかやっちゃっていいわけ?」
菊は無表情のまま、じっと富士子を見つめる。富士子は不謹慎ながら、こうして嫌がらせをすることで菊が構ってくれるのが嬉しくてたまらない。
――そうよ、もっとアタシを見て。あの地味女に嫌がらせをすれば、この王子様はアタシを見てくれるんだ。
富士子が悪い意味での学習をしてしまった瞬間であった。
「あのさ、北波さん」
そこへ話しかけてきたのは、恭子である。
「私にこれ以上関わらないほうがいいよ。……あなたがどうなるかわからない」
「ハァ~?? なに偉そうに言ってんだよブス! 素直に『もう勘弁してください』って泣いてお願いすればいいじゃん。土下座したら許してやるよ!」
その発言自体が「アタシがやりました」と白状しているようなものなのだが、富士子は気付かずキャハハと笑っていた。
菊が拳を握ったところを、恭子が肩に手を置いて押し留める。
「菊、私は大丈夫。制服は乾かせばいいし、濡れた教科書も冷凍庫に入れれば復活するはずだから。とりあえず拳をおさめて」
恭子は小さく息を吸って、笑顔を作ったつもりだったが、頬が少し引きつってしまう。
それでも肩で大きく息をしていた菊をなんとか落ち着かせて、恭子は富士子を一瞥した。
その目は、どこか悲しげに見える。
「北波さん、本当にこれっきりにして。私に関わると多分あなたが不幸になる」
恭子はそれで切り上げて、水浸しになったセーラー服を乾かせる場所を探しに教室を出ていった。菊もそれについていく。
富士子は面白くなかった。あの地味子、なかなかしぶとい。それに生意気。なにが「私に関わらないほうがいい」だ。要するに嫌がらせをやめてくださいと言っているのだろう。
……次はもっと派手に引っ掻き回してやる。私を敵に回したことを一生後悔させてやるんだ。
富士子はニヤリと笑った。
〈続く〉




