第15話(最終話)穏やかな春の日に
――西園寺恭子と東条菊、そして北波富士子の熾烈な戦いから数年後。
「恭子、物件を探すときのチェックポイント、知ってる?」
菊は引っ越し先の下見に向かいながら、隣を歩く恭子に話しかける。
「うーん、立地とか間取りとか?」
「うん、それもあるね。私がなんとしてもチェックしたいのは、やっぱり鍵! 恭子の安全を守るためにも、セキュリティはしっかり見ておきたい」
「鍵かあ。あとはコンセントの数とか位置も見て、家具を選ぶ参考にしたいね」
2人は白藤女学院を無事に卒業することになり、大学生活、そしてルームシェアの同棲生活のために、こうして一緒に物件探しをしていた。
恭子の両親も、「菊ちゃんが恭子の面倒を見てくれるなら安心だ」と諸手を挙げて喜んでいる。恭子が風邪をひいた時、彼女の家族よりも真っ先に気づき、恭子のもとへ駆けつける菊に、恭子の家族は何も違和感を抱いていなかった。
物件の下見を終えたあと、恭子が何気なくスマホを見ると、「あ」と声を上げる。
「菊、くるみさんがケーキ焼いたから遊びに来てって」
「お、いいね。お茶しに行こうか」
くるみの家を訪れると、みのりとさおりが当然のようにいた。
「西園寺さん、東条さん、いらっしゃーい」
「あなたの家じゃないでしょ、みのり」
我が家のように寛ぐみのりに、さおりが苦言を呈する。
この3人組は相変わらず仲良しだった。
「西園寺さんにお菓子食べてもらうのは初めてだね。ドキドキする……」
くるみがパウンドケーキをテーブルに乗せる。
彼女は、再びお菓子を作れるようになるまで立ち直った。それには、みのりとさおりの応援もあっただろう。
恭子はケーキを口に運び、「美味しい」と顔を綻ばせた。
「くるみさんのお菓子、もっと早く食べたかったな。こんな美味しいものを今まで食べてこなかったなんて、人生損してる」
「でしょ〜? くるみはパティシエになるために、毎日練習してっからねっ!」
みのりが我がことのように胸を張っているのは、とても微笑ましい。
「みのりさんは、水泳で全日本に出るんだっけ?」
「そうそう! これで優勝したらオリンピックも狙えるよ!」
「友人にオリンピック選手が出たら、私も鼻が高いわね」
「え、さおりもすごいじゃん! こないだ小説の新人賞取ってデビューするんでしょ?」
「会社員と兼業だけどね。流石に小説1本で食っていく覚悟はないわ」
さおりは控えめな態度で肩をすくめる。
恭子は夢を叶えていくクラスメイトを、誇りに思った。
「私たちも頑張らないとね、菊」
「うん。恭子に美味しいケーキを作れるように頑張る」
「え? 何の話?」
「え? 恭子がくるみさんのケーキ美味しいって言うから、私も負けられないなと……」
「今までの話聞いてた?」
恭子と菊の相変わらずの漫才ぶりに、3人娘は腹を抱えて笑っている。
その後、住む家を決め、家具を運び込み、2人はやっと生活基盤ができた。
春休みは長い。大学生活が始まるまでまだ余裕はある。
2人は同じバイト先に雇われて、一緒に働くことになっていた。家賃は2人で折半するので安く済む。
新しい家のキッチンは小さい。コンロが2口、流しは鍋を入れたらそれだけでいっぱいになってしまう。
料理番は特に決めていないが、菊が「恭子のために上達したい」と言い張って聞かないので、しばらくは彼女の料理を味わうことになりそうだ。
実際、菊は料理がうまい。彼女の作った炒飯を見ただけでわかる。パラパラに仕上がっている炒飯は、野菜や海老なども入っていて、口に運ぶと自然と笑みになった。
「菊がいてくれると、生活が快適だね」
「当然。恭子に苦労はさせないよ。掃除洗濯、何でも任せて」
「私も何か分担するよ。菊を家政婦にしたいわけじゃないし」
あとで家事分担を話し合って決めよう、と恭子は思う。
菊の献身をそのまま受けると、本気で身の回りの世話をすべて菊が受け持ってしまうだろう。
それが彼女の幸せではあるのだろうが、恭子だけ何もしないのも申し訳ないというか、手持ち無沙汰なのである。
「あ、そうだ。はいこれ」
菊が思い出したように、小さな箱を取りだした。
中を開けると、指輪が入っている。
「虫除け。これをお互い、左手の薬指につければ、変な男が寄ってこないって寸法」
「菊っていつも準備がいいね」
菊は恭子の左手を持ち上げ、うやうやしく薬指に指輪を嵌めた。
サイズは測ったようにピッタリで、菊の観察眼が窺える。
自分の指に指輪を嵌めようとする菊に、「待って」と恭子がストップをかけた。
「どうせなら、私がつけるよ。こういうの、お互いがやったほうが雰囲気出るでしょ」
恭子が菊の左手を手に取り、薬指に指輪を嵌める。
お互いの指に光る指輪を、天井の蛍光灯にかざした。
菊の顔を見ると、真っ赤に茹で上がったような色をして、目からは涙がこぼれそうになっている。
「泣かないでよ」
「ごめん……嬉しくて……」
「よしよし」
抱きついてくる菊の背中を、恭子は優しく撫でた。
恭子はあの夏のことを、きっと一生忘れない。
菊と駆け抜けた嵐のような高校生活は、こうしてささやかな幸せを残している。
穏やかな春休み、菊とどこに行こうか。
きっとどこでも、彼女と一緒なら大丈夫。
窓の外には、桜の花びらが風に舞っていた。
〈了〉




