第1話 白藤女学院の王子様
5月の朝。
西園寺恭子は、いつも通り白藤女学院へ流れていく通学路の中にいる。
風は穏やかで、誰もが似たような顔で歩いていた。
――今日も、何事もなく終わればいいな。
そんなことをぼんやり考えながら、足だけが勝手に前へ進んでいく。
「おはよう、恭子」
通学路の途中で、東条菊が手を振りながら歩み寄ってきた。
菊はいつも一緒に登校する幼なじみだ。
「おはよう――あ、ちょっと動かないで」
恭子は菊の前に立つと、彼女の曲がったスカーフを直した。
「身だしなみはきちんとしないと、『王子様』のイメージに関わるんじゃないの?」
「私は別にそんなイメージは返上しても構わないんだけどね……」
菊はやれやれと言いたげに肩を竦める。
「私は恭子だけの王子様でいたいな」
「あー、うん。とりあえず直したから行こう」
ほのかに顔を赤らめながら、恭子に直してもらったスカーフをいじる菊。
2人が並んで通学路を歩いていくところを、他の生徒が見ていた。
「東条さん、今日もかっこいいなあ……」
「でもさ、あれ見ててちょっと腹立たない? 西園寺さん、何もしてないのに王子様ゲットじゃん。あんなにイチャついちゃってさ」
生徒たちの憧れと妬みの混じるひそひそとした囁きを、2人は気付かないまま玄関までたどり着く。
教室に入ると、数人のクラスメイトが「おはよう」と挨拶した。
「ねえ、知ってる? 転校生が来るんだってよ、今日」
「へえ、そうなんだ。どんな子なんだろうね、菊」
「え? 別に誰でもいいよ、私は」
菊は自分の席に座った恭子の髪を撫でる。長くて真っ直ぐな黒髪は、艶があって指通りがいい。
「私には恭子がいればいいから……」
「菊は少し友達を増やしたほうがいいんじゃないの?」
イケメンボイスで囁く菊に、恭子は素っ気ない返事を返した。
実際、「白藤女学院の王子様」と呼ばれている菊の周りには人がよく集まる。
しかし、彼女のもっぱらの関心は、恭子にのみ注がれているのであった。
「恭子は私が友達を作ったら……嫉妬してくれるのかな?」
「いや、普通におめでとうって言うけど」
菊と恭子のやり取りに、同級生たちは苦笑いを浮かべるのみ。
「東条さんは相変わらず西園寺さんに懐いてるね。忠犬というか」
「西園寺さんには敵わないでしょ。年季が違うからな~」
そんな会話をしていると、クラス担任の南原が教室に入ってきた。
「お前ら、席つけ~。面倒だから俺に注意させるなよ~」
南原は死んだ魚のような目を生徒たちに向けながら、教壇に立つ。
「あー、お前らはもう知ってると思うが、転校生を紹介する。……ま、よそで問題起こして転がってきた系かもな」
担任はボソッと呟いてから、「北波富士子だ。テキトーに挨拶してくれ」と転校生を手で促した。
南原の言葉に従い、教壇の横に立つ女生徒。
ウェーブのかかった長い茶髪は、明らかに校則違反だが、南原は何も言わない。
教室がざわめく中、富士子はだるそうに爪をいじり、教室の生徒達に視線を向けようともしなかった。
「……北波富士子でーす。えっとぉ……別に何も言うことないです。よろしく」
「じゃあ、北波の席はあっちな」
南原は「もっとなんか自己紹介とかないのか?」などとは口にしない。
もともと怠惰な教師である上に、生徒が何をしようと興味を持たない、無気力人間なのだ。
富士子が最後列、窓際の席まで、ダラダラと歩いていった。
しかし、途中、菊の姿が視界に入り、驚いたように目を見開く。
「え、ここ女子校なのに、男いるじゃん。ウケる」
たしかに、菊の外見はショートボブの髪型、スラッとした高身長で男と見間違えるほどの美形だった。
本人はそういった扱いに慣れているため、特に気にしている様子もなく、「北波さん、これからよろしく」と軽く挨拶する。
恭子にしか興味のない彼女であったが、決して非社交的というわけではない。「王子様」の異名に違わず、人当たりのいい笑顔は爽やかで、女子たちを虜にすることには定評があった。
富士子はしばらくぽーっと菊を見つめていたが、南原が「おい、早く席につけ」と急かす。
ハッと我に返った彼女は、早足で自分の机に向かった。まるで照れ隠しのようである。
「……マジでタイプなんだけど。絶対落とす」
そんな小さな独り言は、富士子が着席する音に紛れ、誰の耳にも入らない。
「ああ、ちょうどいい。東条、北波にあとで学校の案内してやってくれ。いつも王子様ごっこしてるお前ならエスコートくらいできるよな?」
南原の言葉には棘があったが、菊は意に介さず「わかりました」と頷いた。
そのままホームルームと1時間目の授業に入り、転校生が来た以外はいつもの学校生活と大差はない。
しかし、この日が決定的な事件の始まりでもあったのだ。
昼休み、恭子と菊は一緒に学生食堂に来ていた。
2人はいつも、親にお小遣いを渡され、学校がある日は毎日食堂で食事を済ませる。
普段と違うところといえば、北波富士子が一緒にくっついてきたことだ。
「ねえねえ、東条さん。連絡先交換しましょうよ~。どこらへん住んでるの?」
恭子と菊が向かい合うようにテーブルを挟み、富士子は菊の隣を陣取ってベタベタと肩に寄りかかっている。
菊はそんな彼女を避けようと身体を傾けるが、富士子がそれを追ってきて椅子から転げ落ちそうになったので諦めた。
一方の恭子は、学食の親子丼を食べながら、富士子にどんな話題を振ればいいのか考えている。
「ねえ、北波さんは、前の学校どんなところだったの?」
まずは当たり障りのない話題から、と言葉のキャッチボールを試みた。
「は? 話しかけんなよブス。今アタシは東条さんと話してるの、見てわかんねえのかよ。眼科行けば?」
一瞬だけ、箸を持った手が止まる。初対面でそんな毒気のある言葉を食らうとは思わず、恭子は我が耳を疑った。
……言葉のキャッチボールどころか、石を埋め込んだ雪玉を投げつけられた気分である。
そして、これはまずい、と恭子は向かいに座っている菊を見た。
――菊の瞳孔が大きく開き気味になっている。
「……北波さん。恭子に無礼な態度を取るのは、やめてもらえないかな」
硬い声色と、明らかに怒っているのがわかる禍々しいオーラ。
菊のそれを浴びたものは、もれなく萎縮するのが通常であった。
しかし、富士子はまったく気付いている様子がない。
「ね~ぇ、東条さん、今度デートしよ? もちろん、そこの貞子みたいな女は抜きで、ね?」
菊の腕に絡みついてくるのを、彼女は無表情で振りほどく。
「北波さん、いい加減にしてくれるかな。恭子を馬鹿にするなら、学校案内は他の人に頼んでくれないか」
「ええ~? 南原先生のご指名でしょ? そんなにこんな地味女が大事?」
富士子の言葉に、菊は迷わず「そうだよ」と頷いた。
「私は恭子がこの世界の何よりも大切。だから、それを蔑む人は許さない」
「ふーん……アタシこの女きらーい」
子供のようにぷいっとそっぽを向く富士子に、恭子は驚いた。面と向かって人の悪口を言う人間というのは珍しいものだ。1周回って清々しさすらある。
対して、菊は完全に機嫌を悪くしていた。
「恭子、食べ終わった? じゃあ、もうここを出よう。昼休みがもったいない」
菊は自分と恭子の分の食器を下げて、彼女の手を取り、食堂の扉に足早に向かう。
「えっ、ちょっと待ってよ! ガチでアタシを置いてくの!? まだ食べてるのに!」
富士子は菊にダル絡みしていたので、まだカルボナーラを半分も食べていない。
それを無視して、菊は恭子と手を繋いだまま、教室に向かって廊下を歩いた。
「許せない……許せない……。私の恭子をブスだと……?」
ブツブツと口の中でつぶやきながら、菊は険しい顔をしている。
「なんかすごい人が来ちゃったね、菊」
恭子もあれほど罵倒されて何も感じないというわけではない。
ただ、彼女はああいった人間を相手取って騒ぎを大きくしたくないのだ。
「恭子は優しすぎる。もっと怒っていいんだよ」
「うーん、でも、代わりに菊が怒ってくれるから、なんか怒るタイミングを見失うんだよね」
菊は何も言わなかったが、耳がほんのり赤らんでいることに恭子は気付いていた。
〈続く〉




