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第23章「刹那」

海風が涼しく吹き抜ける夕方の山下公園。港の方角は夕陽に照らされ、赤と金が混ざった光が水面でゆらめいていた。

放課後の人々が散策する中、セナはベンチに腰掛けていた。

胸の奥がざわつき落ち着かない。何度も携帯を見ては時間を確かめ、髪を耳にかけ直す。


ふと、視線の先に見覚えのある黒髪の少年が歩いてくるのを見つけた。

――レイ。


彼女は反射的に立ち上がりかけたが、すぐに思い直して座り直す。

それでも頬がわずかに熱くなり、指先でスカートの裾をぎゅっと握った。


「セナ!早いな。待ったか?」


レイが彼女の前に立ち、何気ない調子で声をかける。


セナは一瞬、素直に「ううん」と答えかけて――慌ててツンと顔をそむけた。


「私を待たせるなんて、下僕のくせに生意気よ」

「はは。わりー」


レイは苦笑しながら、彼女の隣に腰を下ろす。


「それにしても、なんだか懐かしいな。みなとみらいに来るのはあのネックレスの件以来だ」

「……そうね」


セナの表情が少しだけ柔らかくなる。

港の夕陽を見つめながら、彼女はぽつりと呟いた。


「思えば、レイがあのネックレスを拾ったことが……始まりだったのかも」


あの日のことが脳裏に浮かぶ。

とあるライブの日、舞台裏で落としてしまった大切なネックレス。

それを拾ってずっと預かっていたのがレイだった。


あのときから――少しずつ、何かが変わり始めたのだ。


潮風が頬を撫でる。

二人はしばらく言葉を交わさず、ただ横並びに港の景色を眺めていた。

港の水面が夕陽を映し、黄金色に染まっている。

ベンチに並んだ二人の間に、潮風が静かに吹き抜けた。


セナはしばらく沈黙した後、少しためらうように口を開いた。


「ねぇ……バイオリン。上手なのね。いつからやってるの?」


レイはわずかに肩をすくめる。


「四歳か、五歳だった気がする」


「……あんなに凄いのに、どうして教えてくれなかったの?」


セナの瞳には切なさが宿っていた。


レイは一瞬、視線を逸らした。

胸の奥に、忘れたくても忘れられない記憶がよみがえる。


――七年前。

「天才バイオリニスト」ともてはやされ、華やかな舞台に立った日々。

ありとあらゆるジュニアコンクールを総なめにした少年。

だが、喝采と同じ数だけ押し寄せてきた重圧に、心は押し潰された。


両親の期待、世間の眼差し……。

やがて彼は、人前でバイオリンを弾くことをやめた。


「……耐えられなくなったんだ。周りの期待に押しつぶされて……俺は、もう人前で弾けなくなった。」


低く、苦い声でレイは告げた。


セナは言葉を失ったまま、じっとレイを見つめていた。

そして、ふるえる唇で搾り出すように言う。


「……これからも弾いてよ……江ノ島で聴いたとき……私、感動したの。世界一美しい音だと思った。私の歌なんか比べ物にならないくらい尊いものだと思った!!自分が恥ずかしかった!!」

「……セナ……だからあの時……」


セナの瞳には涙が滲んでいる。


「あなたの音は、心を救うのよ」


レイは返す言葉を見つけられなかった。

セナは小さく息を吐き、夕暮れの空を仰ぐ。


「 前に、どうして歌手を目指したのか話したわよね……」


セナは顔を赤らめ、レイの目をまっすぐ見つめ話を続ける。


「……十歳の頃、両親が交通事故で亡くなって落ち込んでいた時……テレビで同い年くらいバイオリニストをみて感動した話」


セナの声は震えていた。


「音楽の力って本当にすごいんだって思った。私は楽器はできなかったけど……歌なら得意だったから。せめて歌で、誰かを救えたらいいなって……そう言ったの覚えてる?」


レイは静かに見つめ返した。

忘れるはずがない。あのときのセナの瞳は、今と同じように真剣だった。


セナは嗚咽をこらえながら、とうとう核心を突いた。


「――あなたなんでしょ?」


涙で濡れた瞳が、レイを射抜く。


「“刹那のバイオリニスト”……レイ=ヴァレンタイン……」


堰を切ったように涙が頬を伝い落ちた。

セナは顔を覆い、肩を震わせながら泣きじゃくる。


夕暮れの港に、少女の嗚咽と波の音だけが響いていた……

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