135 地獄に仏(間者)
元亀六年(1575年)6月
一乗谷
「おお!村上が誠にそう申したか!! 」
「はい。次期管領様の元服とあっては盛大に祝いたいと。国が落ち着いていたら自らお祝いを申し上げに来たいと……」
「なんと!義照が来るか!ハハハ、田舎者の村上はワシを虚仮にしていると思ったが存外そうではないのかもしれぬな!」
吉家の報告に義景は大いに喜んだ。
そして、次の龍興の報告で顔を曇らせる。
「それと、村上との密約ですが美濃を攻める間は条件付きですが結べました。内容は....」
密約の内容は
・朝倉が美濃に攻め込んだ際は織田から援軍要請があれば出陣する。
・斎藤龍興が総大将となり美濃に攻めた場合のみ、織田から援軍要請が来ても半年は黙殺する(名ばかり総大将の場合は別)。
・村上領地に攻め込んだ場合密約は破棄し越前を滅ぼす。
密約の内容を話すと義景は怒鳴りそうになったが、一旦我慢して落ち着いて考え出した。
どうしてそんな面倒な密約なのかと。
「・・・そうか。龍興を旗頭にするなら元美濃守護故、見逃すと言うのか。今の美濃守護は義照であるしな」
義景は自己解釈をし一人納得していた。実際は違うのだが....。
そして、村上が出てこぬのなら織田を滅ぼすなど容易いと思い、来年に備えて戦の準備を勧めさせるのだった。
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東で比較的平穏が保たれている頃、西側は血で血を洗う戦が続き正に地獄と化していた。
それに、関わっているのは主に四家。
中国の雄、毛利家。
裏切られ裏切り、肥前、筑前を領有した龍造寺家。
九州探題にして没落し始めた名門、大友家。
そして、薩摩、大隅、日向の一部を領有した鬼、島津家である。
大友家は始め、毛利、龍造寺、島津から攻められまさに四面楚歌だった。
だが宗麟は、娘が嫁いだ久我三休に頼みこみ、朝廷に島津との和睦と同盟の仲立ちを依頼し、同盟を結んだ。久我三休の父は久我晴通といい、兄弟に近衛稙家、慶寿院と近衛一族でもある。その為、朝廷への取り成しは割りと簡単に進んだ。
だが島津から条件として南肥後を割譲と奪った後肥前の領有を認めさせられた。
初め島津は日向を求めたが大友は決して認めず、変わりとして南肥後で手打ちとした。
従属していた南肥後の相良は大友によって島津に差し出されたのだ。
勿論、相良家臣団からの反発は凄まじかったが相良は仕方なしと自身の無力さから受け入れた。
義陽達は島津に使い潰されると思いつつ、島津義久の元に赴いたが意外にも丁重にもてなされた。
特に武勇で名を馳せている次男、島津義弘がだ。
なんと義弘自ら出迎えたのだ。これには相良達は驚くしかなく、義久にも挨拶をしたが、無下にされることはなく義弘の指揮下に入るよう言われる。
そして島津は大友によって龍造寺家臣にされ、圧政に苦しんでいた有馬義貞に接触し離反させ、そこを足掛かりに肥前に攻め込んだ。
だが、義貞は嫡男義純と妻を龍造寺に殺されてしまう。
有馬が裏切り島津が二万の軍勢で肥前に攻め込むと、有馬の旧領はすんなりと取り返し、龍造寺の三城城を制圧した。
そしてそのまま、肥前を奪おうとしたが、居る筈の無い龍造寺軍が待ち構えており、多くの死者を出す戦が起こった。
隆信は有馬の裏切りと島津の侵攻を聞いて憤慨しそのまま肥後を攻めようとしたが鍋島や四天王と呼ばれる側近達から即座に肥後攻め中止を求められ、即座にほぼ全軍で撤退した。
そして肥後の方は最低限の兵士しか居なかったが、鍋島主導の偽装工作と龍造寺隆信に扮した円城寺信胤が居たことで撤退したことを大友軍に悟らせなかったのだ。
結果で言えば島津は敗北し、有馬義貞、上原尚近、新納忠堯、種子島時堯等、そして一門の島津義虎、島津以久を失い、島津義弘は瀕死の重傷を負う。
龍造寺も無傷とは行かず、両弾二島と言われる犬塚鎮家、上瀧信重、等有力家臣、そして、四天王でもある百武賢兼を失った。
百武はもう少しで殿をしていた島津義弘の首を取りかけたが、島津兵に邪魔をされ討ち取れず、逆に討ち取られてしまった。だが、最後に意地を見せ義弘に槍を突き刺し道連れにしようとした。
槍は鎧を貫通し腹に深々と刺さり義弘もその場で倒れてしまう。
敗北した島津軍は高城城(諫早城)まで撤退し守りを固めざるを得ず、龍造寺軍も強行軍だった為負傷者が多く追撃は諦めたのだった。
そして城に運び込まれた瀕死の義弘は....。
高城城
「義久様。義弘様の施術は終わりました」
「おい!義弘はどうなんだ!!」
「歳兄(歳久)!!弘兄(義弘)はどうなんだ!」
部屋の外で待っていた義久、家久の二人は部屋の中から出た来た坊主と歳久に詰め寄った。
坊主が中で何をしていたかと言うと手術をしていた。
初め話を聞いた三人は激怒しつつもお抱えの金瘡医達が不可能と言った為、他に手が無かったので認め、立ち会おうと中に入ろうとしたが、戦から引き上げたばかりであまりにも汚かったので坊主によって追い出されたのだ。
義久は勿論反発し斬り殺そうとまでしたが、歳久が止め、その場で身に付けていた鎧兜や服を脱ぎ捨て褌一丁になり立ち会うとし、坊主もそれを認めた。と言うか認めなかったら殺されると感じたからだ。
そして、手術は終わり今に至る。
「正直に申し上げます。ここ数日が山です」
「貴様!!」 「家久止めんか!話しはまだ終わってない!それに兄者(義弘)はまだ生きている!」
家久が坊主に掴みかかったが歳久が必死に止める。
「貫いた槍は内臓を傷付けており、生きているのが不思議なくらいでした。また、右の太股を深く斬られており、最悪歩くことが出来なくなっているかもしれません。傷は全て縫合しましたのでこれ以上悪化することはありません。後は義弘様の気力次第になります」
坊主が頭を下げて言うと義久も引き下がるしかなかった。普段なら既に死んでいる傷なのにまだ生きていたからだ。
「・・・分かった。洪庵、他の者達の治療もしてくれ...」
「畏まりました...」
(はぁ…まさかこのようなことになるとは。頭と大殿に知らせるには丁度良いかもしれぬな)
手術をした坊主の洪庵は義久の家臣に案内され部屋を後にした。
残ったのは島津四兄弟だけだ。
「まさか義弘が洪庵を連れてきたことが救いになるとは...」
義久は眠っている義弘を見ながら口を溢す。その言葉に歳久も家久も頷く。
「うちの金瘡医達は、手の施しようがないと言っていたがあの者はやりおった。弘兄はあんな坊主をどこで拾って来たんだ?」
家久はそう言うと義久は悩んだ。だが、歳久は洪庵から聞いていたのだった。
「洪庵が言うには元々豊後で南蛮の医術を学ぼうとしたが、南蛮人に洗礼を受けなければ教えないと言われ諦めて近くの寺で治療をしていた所を噂を聞いた義弘兄上に連れ去ら...招かれたらしい」
歳久が言うと二人は驚いていた。そんな人物を大友は野放しにしていたからだ。
「だが、あの訛りはこの辺に住んでる者ではないぞ?どこからやってきた?」
「さぁ?そこまでは知らん。だが、東の方だろう。後で聞けばいいだろう。それよりもこれからだ」
歳久はそう言うと三人で今後について話し合うのだった。
そして、龍造寺と島津が激戦を繰り広げていた頃、豊前で争っていた毛利と大友はと言うと...。
「・・・これ以上は無理だな」
毛利家当主隆元がそう言うと周りの家臣達は悔しさから顔を歪めた。
大友と毛利の状況は豊後水道で毛利水軍は大友の豊後水軍と南蛮人の扱うガレオン船と激突し、ガレオン船からの砲撃で毛利水軍は敗走、ほぼ全滅した。
だが、地上では長らく角隈石宗、戸次道雪に手を焼いていたが元春が石宗を討ち取り、遂に豊前を完全に掌握した。
だが、これ以上の戦線維持能力は毛利家に無かったのだ。
簡単に言えば銭が無いのだ。
特に、この五年間は激戦続きで銭は湯水の如く出ていき毛利家の財政は火の車になっている。
これまでなんとか保っていられたのは博多、美保関、赤間関、そして石見銀山があったからだが、博多を手放してしまってからは借金地獄に陥った。
戦線が九州だけならこんなことにはならなかっただろう。
現在、九州は大友、四国から大友の同盟している四国同盟軍(一条、河野、三好)、そして東からは山名に攻められている。
「隆景が村上水軍と共に四国勢を押さえてくれているがそう長くはないだろう。福原、京に登り幕府に停戦の仲介を頼んでくれ」
「畏まりました。直ぐに向かいます」
「他の者は徹底して防衛にあたり戦線の維持だ。これ以上の侵攻は行うな」
「「ははぁ!!」」
二ヶ月後、幕府の仲介によって毛利と大友の間で和睦が成立した。
毛利は苦労して手に入れた豊前の長岩城までの領地を手放すことになったが長きにおける毛利と大友の戦に終わりを迎えた。
ちなみに大友が豊前の一部割譲で和睦に同意したのも毛利と同じ理由である。
そして、大友は宣教師達との繋がりが深くなり後に大きな災いをもたらすことになるとはこの時誰も想像すらしていないのであった。




