105、東軍
※注意書き
いつも誤字報告をしてくださりありがとうございます。
足利義昭ですが、足利義秋としているのはわざとですので誤字ではありません。
永禄九年(1566年)3月末
上田城
「はぁ~...もしも義輝が生きてこの光景を見ていたら大泣きして大喜びするだろうな...」
上田城には上洛する為に多くの将兵が集まっていた。
上洛ルートは大まかに上田城→木曽谷城→金山城→近江観音寺城→京としている。
保科達美濃勢は金山城で、観音寺城で浅井長政が合流する予定となっている。六角が三好についた為だ。なんと愚かな...。
織田と斎藤から何も連絡が来ていないので、邪魔さえしなければ無視する。
それに、稲葉山城は陥落間近らしいから余裕が無いのだろう。まぁー予定通り?美濃三人衆が裏切った為だ。最後の砦の長井も討ち死にしたそうなのでそう長くは持たないだろう。
それと、織田との同盟の話は見直そうかと思っている。と言うのも、同盟相手の徳川を捨て石にして一方的に切り捨てたからだ。なんでも、稲葉山城を落とせば俺達と同盟が結べるし、援軍を送ることでその話を無しにされるのを避けたいためらしい。
俺は道三とはしたが信長とはそんな約束知らんがな...。
「殿、皆様集まっておいでです」
「分かった。今行く...」
昌祐が呼びに来たので俺は各国の代表者及び重臣が集まった大広間に向かった。
広間についたが多くの武将が座っていた。中には広く名の知れた者もいる。
「まずは、お集まり頂き忝ない。此度は亡き公方様の弔い戦と新しき公方様に拝謁する為に集まったとの認識で相違ないか?」
俺が集まった代表者に聞くと間違いないと答えたり頷いたりした。
「では、もう一つ確認させていただく。上洛し三好勢を討伐、新しい公方様に拝謁するまではまとまって動くこと。それ以降は各々が独自の判断で動く、これに相違ないか?」
「「「相違ない」」」
代表者達から確認が取れたので話を進めた。今回多くの諸将が集まっているがそれぞれ思惑は違っている。なので上洛と新しい公方こと義秋に謁見するまでは全員で動くことにし、それ以降は各自で動くことにした。
ぶっちゃけ兵糧も自分達で出してもらっている。俺達は一年分も無いので上洛し三好を京から追い出し兼照を確保したら帰るつもりだ。てか、長く魔都(京)には居たくない。
「では、初対面の者も居るだろうから、どこの誰か名乗って貰おう。私が村上家当主村上義照だ。どうぞ宜しく」
俺は全員に会釈をし、手で右に座っている武将に回した。
「奥州探題、伊達晴宗だ。長く敵対していた者も多いのだろうが亡き上様の仇を討つ為、協力してもらう!!」
俺の横にいたのは伊達家前当主伊達晴宗だ。今回、佐竹が招き、現当主の輝宗が蘆名と相馬とやりあっている為、前当主の晴宗が代わりでやって来たのだった。先に言っておくが家督は輝宗に譲ったが奥州探題はまだ晴宗だ。
「次はワシか...。北条家前当主北条氏康だ。我等とは争った者が多いが此度は目を瞑り協力しあえることを望む」
晴宗の次は氏康だ。今回俺達に次いで次に多くの兵を出している。その数一万三千だ。と言うのも、里見家は上総を差し出して従属と言う形で決着が着きそうな為多くの兵を出せたようだ。完全にお飾りだが一応古河公方の足利義氏も来ている。
その後もそれぞれ名を名乗っていった。
佐竹家当主佐竹義重、武田家当主武田義信、他は二階堂や田村など伊達傘下の大名?国衆?やそれぞれの家臣達だ。家臣で有名所と言えば佐竹配下の鬼真壁と言われた真壁久幹や師匠(塚原卜伝)、武田の山県昌景、高坂昌信、北条の氏康の懐刀と言われる清水吉政や北条五色備の多目元忠等だ。残念ながら北条最強の地黄八幡は関東に居残りの為いない。
「さて此度連合の盟主とさせていただいたが、副盟主として氏康殿を推挙したいがよろしいか?」
俺が諸将に確認をして了解を得た。
まぁ、兵力もあるから文句が言えないのかもしれない。
ちなみ、それぞれの兵力は以下の通りだ。
村上→二万(約一万は美濃で合流。三河攻略軍はそのまま)
北条→一万三千
佐竹→三千
伊達→四千
武田→二千
計四万二千名だ。
「では、出陣するとしよう...」
俺が言うと全員が頷いて広間を出ていった。
(はぁ…、義輝がここまで来た意味はあったんだろうな。それぞれ思惑はあるだろうがまさかここまで纏まるとは思わなかった....。全く、逃げれば良かったものを....将軍の意地を見せよって)
「...馬鹿弟子が...」
義照の呟きは誰にも聞かれることは無かった。義照自身、自分では気付いていなかったが将軍義輝のことをガキだの疫病神と言いつつも愛弟子であり、心の底では認めていたのだった。
その後、兵隊の前で出陣の号令を奥州探題伊達晴宗がかけた後、美濃に入り残りの軍勢と合流し客将の竹中半兵衛と家臣の日根野弘就の案内の元、稲葉山城を横切り近江に向かった。
通過する際、織田から重臣の河尻が使者としてやって来て、西美濃の通過を許す代わりに城攻めを手伝ってくれと言ってきた。
なので、代わりに三河の次は尾張だと伝えたらさっさと通過を認めて逃げ帰って行くのだった。
同盟相手を見捨てて欲を出すからだ。まぁ、もう織田と同盟する気は無いが...。
関東連合が近江に入ろうとしている頃、越後長尾勢はおよそ二万五千もの軍勢を引き連れて越前に入っていた。蘆名との国境と反乱鎮圧の軍を除き全軍連れてきたのだ。
「長尾弾正景虎、上様(義秋)に拝謁致します」
「そちが長尾殿か?此度はワシの呼び掛けに良く応じてくれた!礼を言う」
義秋はそう言うと頭を下げた。これには景虎も幕臣も慌てた。
普通将軍が頭を下げること等しないからだ。
「義秋様、他にも関東より多くの軍勢が向かっております。使者の話では、奥州探題の伊達家、常陸の佐竹、古河公方様と北条家、それと、兄君(義輝)の武術の師であり信濃、甲斐守護の村上も逆賊三好、六角を討伐する為に馳せ参じております」
側にいた幕臣の一人が気前良く報告した。義秋もここまで多くの大名が馳せ参じてくれることを心から喜んだ。
「それで、いつ三好、六角を討伐する為に出陣するのだ?」
「上様、長尾殿は来られたばかり、暫く休息していただき、その後に..」
「明日一日兵を休ませ、明後日にはここ(越前)を出陣致します。逆賊三好に時間を与える訳には参りません」
義秋の問いに一緒にいた朝倉義景は暫く後にしようとした。と言うのも、長尾勢が早すぎて朝倉側の用意が間に合っていなかったからだ。
しかし、そんな事を知らない景虎は明後日には出陣すると宣言してしまった。
義秋が朝倉も既に準備が出来ていると思っており大喜びした。その為義景は何も言えなくなり、慌てて重臣の山崎に昼夜問わず準備をさせるのだった。
そして、景虎は宣言通り出陣した。
義景も山崎の必死の準備のお陰で何とか出陣に漕ぎ着け面目を守った。しかし、当初の予定より兵は少なく一万五千となった。
そして、その頃三好三人衆は朝廷に踏み込んだ為、傀儡にしようとした義栄を将軍にすることが出来なかったが、四国からほぼ全軍を引き連れて京に入っていた。
そして、関東連合に対しては六角を、長尾朝倉に対しては比叡山に莫大な金を贈り僧兵を味方につけていた。
だが、三好に味方したこの二組はこの後、地獄を見ることになるのだった。
永禄九年(1566年)4月
近江国観音寺城
「何故だ..何故こうなった・・・こんな筈ではなかった・・・」
六角承禎は眼前の関東連合軍と浅井の兵を見て儚く呟いた。
六角は先代定頼の頃から足利義晴、義輝と二代続けて保護し後ろ楯として三好に対抗していた。義輝が三好と和睦し京に戻った後も幕府に一定の影響力を持っていた。
しかし、六年前のたった一度の敗北から六角の栄華は崩れだした。
浅井家の反乱、野良田の戦いだ。
浅井勢は一万、六角勢は二万五千と圧倒的な戦力差があった。
そして、浅井家は全軍で目の前におり今川家のように奇襲される心配は皆無だった。
そして、序盤は我等が圧倒的に押しており勝利は間違いなかった。だが、結果は敗北した。兵達は勝利を確信し油断してしまった。そしてそこを浅井に突かれ軍は乱れ敗北した。
その敗北は大きく、立て直すために和睦し停戦していた美濃斎藤家と同盟を結んだ。美濃から浅井を攻めて貰うためだ。そして、斎藤と同盟している村上の力も借りようと密かに画策した。
しかし、それは幻に終わった。
斎藤家は当主だった斎藤義龍を失った後、国が乱れ折角の好機を無に帰してしまった。あの時、当主となった龍興が国をまとめていれば、裏切り者の浅井を蹴散らし斎藤家の援軍として尾張の織田を滅ぼすのは容易かっただろう。
仕方なく、独力で浅井家に戦を仕掛けたが、朝倉家が浅井家に援軍を送ってきた為敗北し、城を失った。そして、観音寺城も一時包囲された。だが、浅井家、朝倉家は落とすことは出来ず撤退した。
その後、浅井家を攻め城を取り返し何とか六角家の権威を取り戻す足掛かりを作ったが今度は息子の義治がやらかした。
観音寺騒動である。
承禎が信頼しており六角の両藤と言われた後藤但馬守とその子を誅殺してしまった。
この一件で浅井家に寝返る者が続出し、最後は将軍義輝によって義治は隠居、義定が後を継ぎ、重臣達との合議制といった内容でまとめられ、完全な崩壊は免れた。だが、重臣達の力が増し六角家の権威は完全に地に落ちた。
そして、とどめを義治がやってしまった。隠居させられていた義治は三好三人衆の口車にのり、覚慶(義秋)を殺そうとしたのだ。
六角家の方針としては六角家の権威を取り戻すために、憎い浅井家、朝倉家と和睦して覚慶を助けようと決めていたのにだ。
義治のせいで、六角家は三好家に付かざるを得なくなり、現在、六万近い兵に囲まれた。
本来なら勝ち目が無いので鈎の陣の時のように甲賀に逃げるがそれすら出来なかった。
多くの甲賀忍が義照に付いていった為だ。そして残っていた者達の大半も村上に仕官した者達を通じて既に六角家を去っていたのである。
「ワシは..ワシはどこで間違えたのだ...。父上(定頼)、申し訳ありません...ワシの代で家を滅ぼしてしまいます...」
承禎は一人泣き崩れた。だが、六角の滅亡は刻々と近付くのだった。




