10 皇妃の思惑と宵闇の魔術師
いずれは皇帝も出てきそうですが、マルクに似てマイペースなんだろうなと思っています。
「良く来てくれたわね、ショーン・ロック。楽にして頂戴」
呼びかける声はコロコロと鈴を転がすように美しいが、それを堪能する余裕は、ショーンにはなかった。
「こ、皇妃様のお召しとあれば、私に否やはございません」
とうに成人した息子がいるとは思えぬほどの若さと美貌を保つ皇妃が、上品な笑い声を上げる。
「あらあら、マルク付き筆頭護衛の貴方が、そんなに緊張するなんてどうしたのかしら?」
楽しげな皇妃の声も、今のショーンには恐怖を煽る一因でしかない。
「ショーン、いつまで顔を伏せているのかしら。私は、楽にせよと言ったわよ?」
「は、はい……」
ショーンは覚悟を決めて顔を上げ、そのまま上を向いて目を閉じ、大きくため息をついた。皇太子筆頭護衛であるショーンは、数々の修羅場を潜り抜けてきた。命の危険を感じた事だってある。そんなショーンが、今、人生始まって以来の危機を感じていた。
微笑む皇妃からも何やら恐ろしいオーラを感じるが、同席している女性からは、コチラを押し潰してきそうな圧を感じる。
「貴方は会うのは初めてかしら?こちらはマーサ。『宵闇の魔術師』と言った方が分かるかしらね?」
知ってます!とショーンは心の中で叫んだ。
『宵闇の魔術師』は、かつて平民ながら最年少で王宮魔術師の頂点へ登り詰め、数々の伝説を残した人物だ。S級冒険者に惚れ込み怒涛のアプローチで結婚まで漕ぎ着け、あっさり引退した事でも有名である。
「先日は、ウチの夫と娘がお世話になったそうで。ご挨拶をしたかったんですよ」
穏やかながらも、笑顔で殺気を飛ばしてくる元王宮魔術師に、ショーンの背中の汗が止まらない。視察で皇宮にいない皇太子を心底呪い、久々の休日で浮かれていた数刻前までの自分をぶん殴ってやりたい。
「ねぇショーン? 私、マーサから信じられない話を聞かされたのよ。筆頭護衛であり、あの子の幼馴染でもある貴方に、是非真偽を確かめたいのだけど、いいかしら?」
嫋やかに小首を傾げる王妃に、ショーンはカクカクと言葉もなく頷くしかなかった。このか弱げな皇妃が怒るとどれほど恐ろしいか、幼少期から皇太子と悪さをする度に、共にドギつい罰を受けてきたショーンには嫌と言うほど刷り込まれている。
「マルクがね? マーサの末娘を本人の同意もなしに権力で妃に召し上げようとして、冒険者ギルド、魔術師ギルド、薬師ギルド、鍛治師ギルドから厳重抗議を受けているらしいの。本当のことかしら?」
ざざざざざーっとショーンの血の気が引く。各ギルドからの抗議は冒険者ギルド長ライズから可能性は示唆されていたが、まさか本当に……。しかもなぜか魔術師ギルドまで増えている上に、皇妃に即バレしているとは。
「特にマーサの夫からの抗議が強くてね? 当然よねぇ、娘の事だもの。それで彼、皇国を出るとまで言っているらしいの。我が国の伝説的なS級冒険者が国外に流出なんて、そんな事が現実となったら、我が国はどうなると思う?」
単身で竜を屠る武力を持つ冒険者の国外流出。単純な戦力の流出では済まない。ダルカスは人望も厚く、後進の指導にも熱心で、彼のお陰でドーン皇国の冒険者の質は高い。ダルカスが皇国を去れば、彼を慕う有力な冒険者達も次々と国外に流出するだろう。
「薬師ギルドと鍛治師ギルドもねぇ。今の高品質で安価なポーションや剣や武具が皇国軍に卸されなくなったら困るわね」
若き天才薬師、シャンティが所属する薬師ギルド。彼女が研究、開発した魔力茸や忌避の薬草は、魔獣を狩る上で今や欠かせないアイテムとなっている。魔力茸や忌避の薬草の権利は薬師シャンティと共に薬師ギルドにガチガチに守られており、薬師ギルドを敵に回したらそれらを手に入れる事は困難だろう。
それに、鬼才アンディの所属する鍛冶師ギルド。鍛冶師アンディの考案した剣や防具は従来の武器よりもはるかに強く軽く、彼の剣や防具に魅了された熱狂的なファンたちによって高値で取引されている。それらが皇家のせいで手に入らなくなると、暴動が起るかもしれない。
シャンティやアンディを敵に回すことは、皇国軍の弱体化に、そして皇国の弱体化に繋がるのだ。
「それに魔術師ギルドも完全に敵に回すわぁ。マーサが天才と認める魔術師なんて稀有な存在、魔術師ギルドが放って置くはずないものねぇ」
「えぇ。あの子は才能のある子ですからね。ギルド長を初めとする重鎮達にも、ものすごく期待されているんですよ」
『宵闇の魔術師』ことマーサが所属する魔術師ギルド。魔術大国である皇国の魔術師を統べるギルドだ。いくら皇家といえど、魔術師ギルドを怒らせることは得策ではない。
皇妃はキラキラと目を輝かせる。
「まぁ素直で可愛らしい子なだけでなく、優秀なのねぇ。私も早く会ってみたいわぁ」
皇妃の言葉に、しかしマーサは悲し気に首を振った。
「それが、リャーナはすっかり皇国を怖がってしまって。お目にかかるのは難しいかと……」
「まぁまぁまぁ。なんて残念なの! そんな優秀で可愛らしい子に、私、会ってみたいのに」
ショーンに聞かせるための当て擦りと分かっていても、ショーンは嫌な汗が止まらなかった。しかし、マルクの名誉を守るためにも、これだけは言っておかなくてはならない。
「私のやり方が不味かったことは謝罪いたします。リャーナ嬢に誤解を与え、怯えさせてしまったことも。しかし、マルク様があの魔術陣の作成者にお会いしたいと熱望していたのは本当です。それぐらい、あの結界の魔術陣にマルク様は感銘を受けたのです。カージン王国の王太子がその作成者でないと分かった時の落胆ときたら、見ていられぬ程でした。リャーナ嬢が魔術陣の作成者と分かった時、他人に興味がなさすぎて、『皇太子は実は皇国が開発した魔導人形じゃないか』と噂されていたあのマルク様が、リャーナ嬢を妃にしたいと仰ったんです! それに、魔術がきっかけでしたが、リャーナ嬢自身も好ましく思われているようなんです! マルク様はリャーナ嬢に嫌われてしまったのではないかと、魔術も手につかない状態です」
「え?」
ポカンと、皇妃は珍しく表情を出した。皇妃という地位について十数年経つが、こんな風に驚いた姿を見たことはなかった。
「ショ、ショーン? 今の話は本当なの? 本当に、あの魔術馬鹿の息子の話? 大陸一の美姫と謳われるビェンナ国のエリザ姫との茶会を、魔術師ギルドの定例発表会があるからと断った、あの朴念仁の話なの?」
「はい。マルク様はリャーナ嬢への謝罪のために、『女性の好むエスコート』や『これで完璧! はずさない贈り物集』を読み込んで、謝罪を兼ねたデートに誘おうと熱心に研究されています」
「……地方から出てきた新人兵士向けのあの指南書? ド定番過ぎてこなれた淑女には鼻で笑われるわよ? 皇都育ちの生粋の皇族なのに、恋愛に関しては初心者以下の知識しかないってことね…」
「まぁリャーナは、カージン王国の元文官ですが、ド貧乏、……いえ、慎ましい生活でしたから、そんなド定番でも目をキラキラさせて喜びそうですけど……」
マーサも頬に手を当てて溜息をつく。あの本にある薔薇の花束やら高級菓子なんぞ貰い、真っ赤になるリャーナが容易に想像できた。うん、チョロい。
「ショーンさんとやら。ウチの亭主が皇太子殿下は、リャーナの魔術と胸にしか興味がないと言ってたんだけどね?」
マーサが視線に圧を込めれば、ショーンは真っ青になって否定の声をあげる。
「そ、それは誤解です!」
ショーンは必死で説明をした。マルクが魔術にしか興味がなかったのは事実だが、リャーナの素直さも好ましく思っていること、胸云々はリャーナが勘違いしていること。順序立てて話すと、マーサもなんとか誤解を解いてくれた。
「成る程ね……。全く、ウチの亭主も迂闊だが、あんた達も気が早いというか……。リャーナの気持ちを全く考えずに話を進めるから、こんな事になるんだよ」
「そ、それについては申し訳なく…。しかしマルク様が女性に、女性に興味を持つなんて初めてで! しかもリャーナ嬢は身分以外は完璧な方! これを逃がせば一生、マルク様は独身だと思うと……」
ショーンの目には涙が浮かんでいる。筆頭護衛の普段の苦労が偲ばれて、皇妃とマーサは少しだけ怒りを収めてやることにした。
ちらり、と皇妃はマーサに視線を向ける。マーサはそれにあえて視線をそらし、気づかぬ振りをする。
「ねえ、マーサ。リャーナちゃんをウチにお嫁にやる気はない?」
「本人が嫌がっていますからねぇ」
皇妃の期待の籠った言葉に、マーサはサラリと流す。
「ウチのマルク、魔術馬鹿ではあるけど、公務をきちんとこなすし、皇太子としては申し分のない子よ?」
「悪い御方ではないと、そちらの護衛様のお話を聞いていたら分かりましたけどね。マルク様と結婚したら将来の皇妃じゃないですか。リャーナには荷が重いと思いますよ? 政略結婚は貴族としての義務でしょう? 平民以下の生活をしてきたあの子に、好きでもない男と結婚しろとは言えませんね。あの子、今は恋愛結婚に憧れていますから」
リャーナは今、シャンティとアンディの様な互いに想い合う恋愛結婚に憧れを持っているのだ。自己評価が著しく低いあの娘は、そんな人並みの幸せすら望むことを分不相応だと思っているが。
「まぁ! じゃあ、リャーナちゃんがマルクを好きになったら、お嫁に出してもいいって事ね!」
「皇妃様! 無理にくっ付けようと画策なさったら、本当に私ら、国を出ますよ?」
「分かってるわよ、マーサ。私がそんなヘマをする筈無いじゃない。うちの馬鹿息子はキッチリ躾直して、改めてリャーナちゃんにアタックさせるわ! 貴女だって、うちの息子と皇国が後ろ盾の方が本当は安心でしょう?」
マーサは皇妃と視線を合わせ、首を振って否定する。
「あの子1人守れないほど柔じゃないですよ。ウチの旦那は強いですからね」
「マーサ。私は可愛い娘と孫が欲しいのよぅ〜」
とうとう本音を暴露して、皇妃は取り出したハンカチをギチギチに締め上げる。
「祖国から数人の供のみ連れて皇国に嫁いで、祖国と違う風習に四苦八苦しながら仕事ばっかりの朴念仁の夫を頑張って20年以上支えてきたのよ? 一粒種の息子は可愛かったのは5歳まで。仏頂面の夫そっくりに育って、口を開けば魔術と仕事のことばかり。嫁どころか人間に興味をもたず、ナントカ派のナントカ論は素晴らしいとかよく分からない事ばかり喋ってる。国を荒らさず、民を飢えさせず、身を粉にして頑張ってきたのに、その挙句があの2人に囲まれた老後なんてぇ。嫌なのよ、癒しが欲しいのよ、娘とか孫とかとキャッキャッと優雅にお茶したいのよ。私の夢はそんなに我儘なものなの? 皇妃は癒しを求めちゃダメなの?」
色々とぶち撒けている皇妃に、ショーンは心の中で耳に蓋をした。これは一介の護衛官が聞いてはいけないモノだ。皇帝に、国に忠義を誓った身には、過ぎた情報だ。
でも心の隅で、ほんの少しだけ皇妃に同感してしまったとしても仕方がない。マルクは敬愛する皇太子であり、一生を捧げるに相応しい人だが、魔術の話に夢中になっている時の彼は、本当に面倒くさいのだ。
「えぇ、えぇ、分かっています。分かっていますよ、皇妃様。ですが、うちのリャーナはこれまで生国で散々な目に遭っているんですよ。それなのに好きでもない男に嫁げなんて無理強いは絶対にしたくないんですよ。誰も自分の子どもには幸せになってもらいたいじゃないですか」
そんなマーサの言葉にも、皇妃はめげなかった。皇妃として培ってきた交渉のイロハを駆使して、なんとかマーサを口説き落そうとする。
「……ねぇ、マーサ。いきなりお嫁さんと言うのは、私も無理があると思うのよ。だから、リャーナちゃんに、マルクのお友達になってもらえないかしら。あの子も、可愛い女の子とちょっとずつでも会話できるようになったら、少しは女性にも興味を持つようになるかもしれないでしょう?」
「リャーナが嫌がっていますからねぇ」
「でも。大部分は誤解だって分かってくれたでしょ? ウチのマルクはそりゃあ魔術バカで朴念仁だけど、リャーナちゃんから搾取しようだなんて思ってないわ! あの子はあの子なりに、リャーナちゃんを大事に思って、守ろうとしているのよ。お願い、マーサ。あの子にチャンスをやって欲しいの。馬鹿な息子が、ようやく人並みの感情を持ったのよ。母親として応援してあげたいのよ」
皇妃は目の前でギュッと手を組み、マーサに祈るような目を向ける。大きな瞳は潤み、今にも涙が溢れそうだ。ショーンは皇妃の母親らしい一面に、胸が温かくなった。息子を真摯に思う姿は、まるで聖母のようではないか。
「皇妃様。私にその手は通じませんよ?」
「チッ」
マーサの冷めた目に、皇妃は舌打ちを漏らす。うっかり皇妃に絆されそうになっていたショーンは、心の中でひたすら兵法を暗唱しつづけることにした。2人の会話が怖すぎて、これ以上は聞きたくなかったのだ。
「わたしらは、娘に皇妃なんて重荷は持たせたくないんですよ。万が一にあの子と皇太子殿下が好き合ったとしても、賛成はできませんね。リャーナは元は平民でしかも孤児。いくら能力が高くても、身分ってものはどうしようもない。貴族でないというだけで、周囲からの反発も多いでしょう。親としたら、そんな苦労の多い結婚なんて勧めたくはありませんね」
淡々と告げて、マーサは席を立つ。皇妃が残念そうな顔をしていたが、たぶんあれは諦めていない。失敗だったかもしれないわ、とマーサは苦々しく思った。
当初の目的では、皇妃に皇太子殿下のやらかしを諫めてもらうつもりだった。それは、十分に叶えられそうだ。女心の欠片も分かっていないマルクを、皇妃はそれはもうぎっちぎちに教育し直してくれるだろう。
誤算だったのは皇妃に予想以上にリャーナに興味を持たれてしまったことだ。
念願だった息子の嫁や孫との楽しい老後が叶うかもしれないと、すっかり心が奪われてしまっている。そんな皇妃にあの可愛いリャーナを会せたらどうなるか。息子以上にリャーナに執着するかもしれない。
魔術師ギルドで重鎮たちちリャーナを会わせた時の猫かわいがりっぷりを思い出し、マーサは溜息を吐く。あの重鎮たちは、変人が多い魔術師の中でも屈指のへそ曲がりだ。たとえどれほど優秀な魔術師相手でも、いつもなら早々にあんな甘い顔を見せたりしないのだ。そんな癖の強い重鎮たちの懐にスルリと入り込み、孫の様に可愛がられるリャーナは、ある意味、大物だと言える。
「困った子だよ。誰かれ構わず、魅了しちまうんだからね」
末娘の無自覚なタラシぶりに、苦労の絶えない母だった。




