第四十一回 徐州奪還 六
人工的な洪水は決して水が引くことはありません。これには城主の呂布も参ってしまい、弱気になりかけた心にさらに拍車がかかってしまいました。
将たちも圧倒的に降伏論が高まり、主戦論を唱えるのは陳宮くらいとなっておりました。
そこを曹操さまは見逃しません。城外より使者が大声で呂布を呼ばわると、呂布は城壁の上に現れました。
目の下には大きい隈を作り、頬は痩け、疲れが出ているのが一目で分かります。使者はそのまま叫びました。
「呂布将軍に申し上げる。将軍も司空閣下も漢の臣であります。互いに誤解があり戦となりましたが、いつまでもいがみ合うのは民のためによろしくない。どうぞ門を開けて司空閣下に帰順なさいませ。今なら地位も領地もそのままでございます」
それを聞いたら呂布は回りの意見など聞いておれません。すぐさま表情を和らげて答えました。
「ああ、私はいつもお慕いする閣下の元で働きたいと思っておりました。なんとも嬉しいお申し出で涙が出る思いです。今すぐ城門を開けますので、ご使者には我が城をご見聞頂きたいと思います」
そしてその場から、門衛に向かって叫びました。
「開門! 開門!」
その命令でゆっくりと城門が開き始めると、使者もニコリと笑って馬首を城門に向けようとしたその時です。
「閉門! 閉門!」
との声に、門衛は慌てて門を閉めます。呂布が声のほうを見ると、果たして眉を吊り上げた陳宮が、呂布へと迫り詰め寄ってきました。
「将軍! 閣下とは誰です! 曹操は民を苦しめる逆賊ですぞ! 狡知に長けた曹操があんな優しい言葉で降伏を勧告するものですか! 降伏などしてご覧なさい! 将軍もご家族も私も明日は刑場です。史書には将軍は愚かだったと一文が書かれ、功績など記されないでしょう! こんな甘言にのってはなりません!」
陳宮は持っていた手槍を使者へと投げ付けてきました。幸い使者には当たりませんでしたが、呂布は真っ青になりました。使者は呂布を見上げて叫びます。
「将軍。これがお答えですか? こんな話、何度も有ると思ってはなりません」
「ご、ご使者! お待ちくだされ! これは陳宮が勝手にやったこと! 私は元々閣下に帰順する考えだったのです」
とやるので、陳宮は泣き崩れて呂布の足にすがり付きます。
「ああ、将軍! これで将軍はおしまいです。秦の白起はどうなりました? 漢の三傑韓信はどうなったでしょう? 国を思い尽くした重臣とて、邪魔者とみなされ殺されます。将軍とて同じです。曹操は大逆無道で帝を抱き込み、民を大勢殺しても自分の野心ためと平気な男です。将軍が正義のために帝を救い、董卓を殺した功績も、歪められて後世に伝えるでしょう。曹操の屋敷は宮殿のようになり、倉には麦や粟や銭が積み重なります。その頃、将軍の骸は荒野に棄てられ、白骨は鼠に齧られているでしょう」
「うぬぬぬぬぬ……」
白起や韓信は国の大英雄で功績は大でしたが、国を揺るがしかねないと殺されてしまいました。
確かに曹操さまは、徐州の民を大勢殺しましたから、陳宮のような人物がいても仕方がありませんよね……。
「ならばどうすればよい? このまま水浸しでは戦にならん」
「はい将軍。私は三通の手紙を書いて、すでに送っております」
「三通だと?」
「はい。一通は張遼のところです」
「張遼のいる盱台は劉備に囲まれているではないか!」
「使者は夜陰に乗じて城に入り込む手はずになっております。張遼が手紙を読めば、あの男のことです、盱台を捨てて戦を最小限に抑えながらもこちらの援軍に来てくれるはずです」
「な、なるほど。張遼が来てくれるなら心強い」
「もう一通は袁術どののところです」
「袁術どのだと?」
「はい。今は皇帝を称しておりますので、さんざんおだてて援軍を出して貰います」
「ほほう、それはいい。そしてもう一通は?」
「都におわす、帝の外戚で車騎将軍の、董承どのです」
「ふむ……? それはなぜだ?」
「実は彼のものはとても野心多き人物で、楊奉や韓暹が邪魔になると追い出しました。車騎将軍といえども曹操に実権を取り上げられ深く恨んでおります」
「ほう、そうなのか」
「ですから、彼を利用して帝に勅令を書かせるのです。曹操に徐州より撤退せよとの命令です」
「おお! 帝の勅令ならば曹操も聞かねばなるまい。ヤツが撤退したら川を元に戻し、武装を強固にできる。これぞ最高の策だ!」
「で、ありましょう?」
呂布は、使者のほうに向いて叫びました。
「ええい、まだいたか! 我らは曹操には屈せず! 早々に帰れ!」
と、先ほどまでの弱気とは違ったので、使者も驚いて逃げ帰りました。
陳宮の手紙の策は成功するのでしょうか?
◇
張遼は盱台の城の中で使者から手紙を受け取りました。兄者さんは鼠一匹通すまいと城の回りを囲んでいただけなので、互いに兵糧だけが減るだけの戦でしたが、張遼は手紙を読んで唸りました。
「む、むう。下邳が水攻めを受けて、戦どころではないから、城を捨てて救援に来て欲しい、か……」
「左様でございます。みんな張遼さまの到着を心待ちにしております」
「うむ。そんな状況ならば急援に向かおう。厄介なのは関羽だけだ。ヤツはどの辺に控えておるのだろう?」
張遼は城門に出て、囲んでいる兵士たちをグルリと確認します。
「あそこだ」
張遼が指差した先には、旗印に『関』の文字です。逆に兄者さんを示す『鎮東将軍 劉備』の旗は、まったく反対側にありました。
「ふふん。これはいい。劉備は戦下手だ。こちら側にはなんの脅威も感じない。夜になったら、こちらを襲撃して、そのまま下邳を目指すぞ!」
となって、倉から粟を引き出して、兵士に腹一杯食事をさせました。
やがて夜になったところで、張遼は城門を開けさせ、そのまま中央突破を試みます。兄者さんの兵士たちも、今まで戦などなかったところに夜襲ですから驚いてしまって、蜘蛛の子を散らすようになってしまいました。
張遼の軍はまるで無人の野を駆けるが如くです。そこに大きな幕舎が見えてきました。明らかに将の幕舎です。そこに兄者さんがいると、張遼はニヤリと笑いました。
「ちょうどよい。このまま劉備を討ち取ってしまおう」
そう呟いて、自身の兵に襲撃の合図を出そうとして止めました。
「な、なんだ? 脅威を感じるぞ?」
張遼は身震いをして馬の手綱を引きますと、幕舎の垂れ幕がパッと開いて、九尺もあろう大将がサッと馬に股がりました。
「げぇ! 関羽!」
「張遼! 潔く儂と刃を交えん!」
雲長さんは、馬を駆けさせ、張遼に近づいて行きます。張遼も油断しておりました。雲長さんとは力が均衡しているので、ここで勝負のつかないじれったい一騎討ちなどしていられないと、兵士に城に戻るように命じましたが、一万の兵が急に方向転換出来ません。
「覚悟!!」
雲長さんの薙刀が水平に張遼に迫ります。しかし寸止めで張遼には当たりませんでした。ですが張遼は馬の上で身をよじったために、落馬してしまったのです。そこに叫んだのは兄者さんでした。
「そら捕らえよ! 我らが張遼を捕らえたぞ!」
そのとたんに、味方の兵士からは歓喜の声が上がり、敵の兵士は投降しました。張遼は大変悔しそうに顔を歪めました。
「くく、無念。しかし関羽! そなたの旗は向こうにあったはずだ! なぜ劉備の陣幕におった!」
「分からぬか、張遼! これぞ“兵は詭道なり”だ。そなたはまだまだ修行が足りん!」
詭道とは、敵を欺くということです。
その言葉に張遼はガックリと頭を下げました。
威張っている雲長さんの横腹を兄者さんは肘でつついて小声で話します。
「なにが詭道だい。オメエが寂しいからって酒持ってたまたまオイラのとこに来てただけじゃねぇか」
「いいから兄者は黙って頷いておいてくだされ」
ヘコーですわ。
でもこうして希代の名将、張遼を捕らえることが出来たのでした。




