参拾参
それは自分の領域に侵入者が入って来た事を感覚的に認識して目を開いた。
灰で出来た縁の無い半径10メートル程の円形の足場が細い通路で半円の足場に繋がっており、円の中央に灰を積み上げた様な細かい凹凸の有る材質の鎧が立つ。
流線形の兜の下で目を見開き、指から伸びたワイヤーを全て切り侵入者を見た。
細い足場の先に繋がる半円の足場に出て来た侵入者達5人もそれに気付いた。
先頭に大柄な男が居り、次に少女を抱えた少年が続き、女が銃を手にしており、少し遅れて直剣を持った男が来た。
この空間に繋がる灰の円は崩れ去り、侵入者達を追う鎧をワイヤーで追い立てる意味も無くなった。
少女を降ろした少年をそれは見る。
兜の下に隠れていた肉体は内部から鎧に侵食を始め、鎧の隙間から黒い肉が盛り上がる。
鎧が黒い肉に侵食され肘、膝、踵から黒い肉が延びる。突起状に生えた黒い肉から骨が露出し、その骨が刃の様に細く研ぎ澄まされた。
兜に開けられた目、耳からも黒い肉が溢れ流線形の形状に合わせた不気味に吊り上がった瞼が生まれ、爬虫類を思わせる縦にスリットの有る瞳を見開いた。
「灰山が見られている様だが?」
「何だろうな」
兜から溢れ出て吊り上がった大きな耳は30メートル程の距離でも会話を聞き取った。
大柄な男の発した灰山という単語にそれが反応する。
今までは何となく裂を見ていたそれは明確に裂を見た。
嗅覚で灰の匂いを嗅ぎ分け、最も灰の匂いが強い裂に向けて手を伸ばし、指先からワイヤーを射出する。
そのワイヤーは細い通路が有るにも関わらず、円形の足場の端に到達した瞬間に消滅した。
苛立たし気にワイヤーを切って手を力無く垂らし、足を肩幅より少し開き肩を怒らせる。
「ご指名みたいね」
「ほら、悪鬼を相手にするんだし全員で掛かろうぜ」
「まあ妥当な事は言ってるね」
「悪いが俺達は影鬼、影山のフォローが必要だろう。あの悪鬼を相手には接近戦に成るだろうし、お前との連携は無理だ」
「言い訳はお上手」
他の人間達から雑に押し出され裂が半円の足場から細い通路に歩み出す。
「安心しろ。援護に入れる距離には近付いておく」
「嬉しくって涙が出るよ」
やはり雑に伝えられたフォローに裂が雑に返す。
言った手前、流石にフォローはするつもりの様で裂の後を少し離れて4人が追う。
裂が闘技場の前に着くと背後の4人も足を止める。
それは向き合う裂の顔を凝視する。知った顔に面影が有る。似ていると言われると少し微妙な範囲だ。精々が他人の空似程度の物だが、それにはそれだけで充分だった。
……早く来て。
静かに大きく呼吸したそれの意思に呼応して脚部の黒い肉が変貌する。
膝の関節が逆を向き、膝と踵から伸びる刃が姿を変える。
床を向く膝関節から伸びた刃は肉だけで脚部の様に変化し膝関節からしただけが4脚に成る。逆関節に成った踵の刃は生えている、ではなく踵全体が刃に成り蹴りを躱しても刃での斬撃を受ける形状に変化する。
……貴方を、私に。
纏まりの無い思考とも本能とも言えない事で脳内を埋め尽くしながら、それは裂の闘技場への到来を渇望した。
▽▽▽
裂は闘技場に入る前に拳を打ち当て、灰燼鬼の魔装を召喚した。
「装着」
短い詠唱を伴い裂の周囲に灰が積み上がり、裂を包み込んで灰燼鬼に変化する。
闘技場の中央で狼男を思わせる変貌を遂げた悪鬼を見据え、両手首を回して解す。
……客を待たせるのは、良くないんだったか。
胸中で溜息を吐いて灰燼鬼は闘技場内に歩み出す。
全身が完全に闘技場内に入ると背後に灰色の紋章が浮かび上がり、触ってみれば見えない壁が生まれている。
今まで通り、過去に4度も経験した事で今更何の感慨も無く、灰燼鬼は灰燼妖魔に向き直った。
ボクシングの様な顔を守る構えを取り、身体を小さく屈めた灰燼妖魔と今度こそ対峙する。
背後には壁しかない。遠距離攻撃の手段は無い。
……いつも通り、前に出るしかないんだよな。
自分を鼓舞するでもなく、ただ当たり前の事を確認し灰燼鬼は細かいステップで闘技場の中央に陣取る灰燼妖魔に向けて踏み出した。
焦らされたのだろう、灰燼妖魔は灰燼鬼の間合いを図る様なステップとは異なり直線で間合いという概念すら捨て去った様な突撃を仕掛けてくる。
約8メートルの距離は一瞬で詰まり、灰燼妖魔は大きく跳躍して四肢で灰燼鬼を押し潰そうと飛び掛かって来る。
猫背にも関わらず床から全高3メートル程の巨体の灰燼妖魔が全身で放つ攻撃を全高2.5メートル程の灰燼鬼は大きく避ける必要が有る。
横は腕を伸ばされる可能性が高く、後方は壁で逃場が無い。
敵を視界から外す危険性は有るが最も安全性の高い前方に身を屈めて踏み込んだ灰燼鬼は踵に意識を集中して普段は膝程度の長さの刃を腰の高さまで強引に生やす。
ほぼ勘で行った事だが、懸念は当たった様で左踵から生やした刃が衝撃を受けて砕かれ、灰燼鬼は衝撃に逆らわずに飛び床を転がり闘技場中央で体勢を立て直した。
灰燼妖魔を見れば右踵の刃が両手斧の様なサイズに大きくなっており着地と同時に見もせずに適当な方向に振り回された様だ。
……流石に灰燼鬼らしいリーチの誤魔化し方してきやがる。
肘から生えた刃も数センチ単位で後退して躱したとしても直前で伸ばしてくるだろう。
灰燼鬼を相手にする場合は距離で躱すのではなく、軌道で躱さなくてはならない。
普段は自分が行うリーチを誤認させる攻撃を自分がされる事を念頭に入れ、肉食獣の様に手を床に着いて4脚で振り返る灰燼妖魔に構え直す。
位置は入れ替わり立地の不利は無くなったが体格差の不利は変わらない。
前に出るしかない状況も変わらない。
大きく息を吸って、前に出る。
灰燼妖魔も同様に距離を詰めて来て、右手を振り被った。肘刃が1メートルの肉立ち包丁の様に変化しクロールの様な振りで灰燼鬼の兜を狙って振り下ろされる。
灰燼鬼はギリギリで避ける様な事はせずに大きく左に飛んで躱す。
先程まで灰燼鬼の兜が有った高さに到達する直前で肉立ち包丁が分厚く変化し、ギリギリの回避では間に合わなかった打撃が床を打つ。
巨体が発する打撃による衝撃で床が揺れて灰が大量に舞う。
極めて短い距離ではあるが床を踏み締める事が難しい衝撃が起き、巻き上がる灰がほんの少し視界を阻害する。
足場を崩し視界を阻害する基本的な崩し技に接近を妨害された灰燼鬼は姿勢を保つ為に腰を落とす。揺れる床に苛立った様に左拳で床を打撃し、その勢いからクラウチングスタートに似た姿勢で灰燼妖魔に踏み込む。
灰の中心で最も視界が悪い距離では有るが、全く見えない様な灰では無い。低い姿勢からの右アッパーを灰燼妖魔の肘を振り下ろした右肩に向けて放つ。
しかし4脚を持った灰燼妖魔は多少姿勢を崩しても素早く姿勢を整えられる。後方に躱す為に身体を左側に倒しアッパーの間合いから逃れる。
……灰燼鬼相手の躱し方じゃねえな。
アッパーの影に隠した肘刃を伸ばし、右肘に仕込まれた緑玉のスラスターを吹かしアッパーに偽装した肘刃を加速させる。
地面から脚が離れる程の推力を得た斬撃は灰燼妖魔の右肩を深く裂き、肘の向きを変えて身体を右回転させ着地しながら右横薙ぎの斬撃で灰燼妖魔の右腕を切り離しに掛かる。
灰燼妖魔は切られた事で混乱する様な感覚は持っていない。斬撃を受けた事を危機と察知し本能的に灰燼鬼から更に距離を取って右腕を切断されるのを躱す。
灰燼妖魔が下がった事で再び距離が出来、深く切傷の入った灰燼妖魔の右腕から黒い靄が立ち上る。
それを目視で確認した灰燼妖魔は右手を灰燼鬼に向ける。
闘技場に入る前にその動作を見ていた灰燼鬼は闘技場中央である右側に向けて身体を倒す様に灰燼妖魔の指先の向きから身体を離す。
その直感は正しく、灰燼妖魔の右指先から鎧達を操っていたワイヤーが放たれる。
ワイヤーが灰燼鬼に直撃する事は無かったが、灰燼妖魔は灰燼鬼を追う様に指を曲げてワイヤーによる斬撃を灰燼鬼に向けた。
左肘刃を伸ばした灰燼鬼が下段からの斬撃でワイヤーを迎撃すると問題無く切断出来る事が分かり、半端な距離で半端な姿勢をしている灰燼妖魔に向けて踏み込む。左肘刃を上下に振るってワイヤーを連続で切断し距離を詰める。
灰燼妖魔の迎撃は蹴りだった。
右半身が最初から灰燼鬼に向いている事を利用して右手も左手も床に付けて身体を捻り右足による蹴りを放つ。
逆関節の蹴りでは有るが、元々生えていた膝刃が変化した黒い肉の脚も含めた蹴りだ。黒い肉は蹴り始めに槍の形に変化し蹴りでありながら刺突と成って灰燼鬼の踏み込みを迎え撃つ。
身体を倒した所から前方に踏み込んだ為に極端な前傾姿勢に成っていた灰燼鬼は眼前に迫る槍を首を横に振って躱し、顔と槍の間に左腕を挟む。左肘刃を槍に対して並行に沿わせて肘のスラスターを吹かし踏み込みを加速させる。
黒い肉の槍は灰燼鬼に裂かれながらも茨の様に不規則な棘を生やし、灰燼鬼の左腕に細かい傷を与えていく。
……やっぱ攻撃範囲の見切りは難しいか。
灰燼妖魔の変化量は辛うじて灰燼鬼の鎧を突破出来ない程度だった様で茨は細く灰の装甲を削るに留まっている。
対して黒い肉の槍は踏み込みに合わせて深く両断されており、灰燼鬼はそのまま左肘刃を振り切って灰燼妖魔の右腕に横向きに斬撃を放つ。茨に踏み込みを邪魔され右腕の切断には届かなかったが、腕の7割の深さまで切り付ける事は出来た。
左肘のスラスターを細かく吹かし、勢いを殺さずに灰燼鬼は左回転を行いながら灰燼妖魔に見えない場所で右肘刃の刃渡りを伸ばす。そのまま裏拳の要領で刃を振るい、後退しようとする灰燼妖魔の右腕を完全に切断した。
……鎧の硬度は高くない。見切りも対応も甘い。基の鬼は弱い、もしくは鬼みたいな見た目の普通の妖魔か?
まだ切断した体積は精々が2割だが、灰燼妖魔にとっての鎧の部分と黒い肉の部分の扱いは不明だ。鎧は音を立てながら落ちていくが消滅する様子は無い。
鬼としての知識の中では鎧の形を持っていても本体から切り離されれば消滅する筈だ。
灰燼鬼の兜の中で裂は唇を舐め、鎧は妖魔が取り込んだ金属の塊と割り切り黒い肉を標的と定めた。
仮に悪鬼だとしても目撃例は少なく、切り離された部位がどの様に変化するか裂は知らない。
だからやる事は変わらない。
ただ妖魔の体積を討滅まで削ぎ落し続ける。
右腕を切断された妖魔の動きは鈍い。
距離を取る様な事はせず、灰燼鬼は着地と同時に刃を灰として霧散させ、妖魔の懐に潜り込んでいく。
▽▽▽
灰燼鬼と灰燼妖魔の攻防を見守りつつ、通路で待機している麻琴は竜泉に声を掛けた。
「鎧が消えないわね。もし知っていたら、そして教えて貰えるなら聞きたいのだけど、業炎鬼が討滅した灰燼鬼の魔装はどうなっているのかしら?」
「あ~、正直言うと知らないんだよね。業炎鬼だけで処理された件で資料は普段は見れなくてさ」
「そう」
腕を組んで何かを思案する麻琴を見た竜泉の感想は『危険』だ。
潤が職員として姉貴分として個人的に麻琴を気に入っているなら良い。しかし荒事の覚えも無い少女が家業が犯罪組織だからと言ってここまで冷静な事は異常だ。
池袋地下通路に居たという事は高校生でありながら影鬼側のスタッフの1人だと想像も付く。
そして潤とどの様な会話が有ったか分からないが、麻琴は正確にステルス妖魔から逃走し四鬼でも異端鬼でも良いから戦力と合流する為に最善を尽くしていた。普通ならパニックを起こして逃走中に倒れ満足に全力での逃走も不可能だ。
更に迷宮に取り込まれてからの行動も可笑しい。
司法取引の本人である裂を四鬼との間に挟むという判断、自身の体力を把握し裂に抱き上げられて抵抗しない判断、たった今の切断された鎧への指摘と四鬼側の人間に切り込む判断。
卒業間際とはいえ高校生が持っている冷静さと判断力では無い。
今は恐らく高校生という事もありこんな最前線に来るだけあって影鬼の組織内でも大した影響力は無い筈だ。
だが、大学に進み、卒業後も順調に実績を積めば、影鬼の中でも確実に頭角を現すだろう。
だから竜泉は麻琴に四鬼と争わない様に釘を刺す事にした。
「そうだね。もし帰還して資料を見る事が出来たら教えようか?」
「……止めておきましょう。お互いに接触は神経を使うでしょう?」
ここで乗って来る様なら監視も付け易い。
だが麻琴は避けた。
そもそも司法取引をしている裂が居るのだ、わざわざ監視の可能性が高い現実世界で竜泉と麻琴の間で情報交換をしなくても竜泉から裂に必要な情報としてリークすれば良い。
罠だと気付かれたのか麻琴の表情から真意は読み取れないが、不発に終わった搦め手は早々に切り捨てて竜泉は麻琴への危機意識を強めた。
「私は別に四鬼と敵対したくは無いのよ。ほら、敵が多いと面倒でしょう?」
「成程ね。ま、結局は灰山君が妖魔を倒してくれないと意味は無いか」
「大丈夫よ」
「え?」
今までの声とは違った。
信頼では無い。
希望でも無い。
ただ面白くも無い映画を観ているような、そんな退屈そうな態度で麻琴は灰燼鬼を見ていた。
「大丈夫よ」
竜泉が聞き直したのかと思って繰り返された言葉はやはり退屈そうだった。




