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弐拾四

クリスマスイブに1人でも少しは豪勢な夕食にしようと思った裂は思わぬ邪魔に辟易しつつ帰路に着いた。

こんな日に1人で疲れた表情を浮かべていては当日に振られたかデートをすっぽかされたようにしか見えないだろう。

流石にそんな形で視線を集めるのは不本意なので少し早足だ。

そんな裂の事情は知らない監視者達は裂が逃げようとしているのかと疑い早足に成った。

尾行の質は下がり、背後に居るにも関わらず裂は街中の鏡等で自分を負う者達を見付けてしまう。

その中には口元を抑える霞も居り、裂も少しだけ同情してしまう。

隣に居る目付きの鋭い男はやはり四鬼の人員の様で同行している。


……今日はマジで何もせずに家に帰ろう。


そんな裂の決意を知る由も無い監視者達は真面目に付いてきている。

彼等にはそれ以外に選択肢が無いのだから仕方が無いのだが、嫌いな相手に無駄な事をさせていると思うと悪戯心が出るのが人間だ。

特別な寄り道はしないが適当にコンビニに入ったり1人カラオケの料金表を意味深に眺めたり、わざと足を止めて珈琲を飲んだりして監視者を急がせたり慌てて止めたりして遊んでしまう。

そんな風に時間を適当に潰していたのが悪かったのだろう、裂は4度目とも成る大型の獣とも思える息遣いに足を止めた。

繁華街は既に終わり今はただの住宅街だ。

直ぐにスマートフォンを取り出して妖魔探知アプリを見るが何の反応も無い。

メッセージアプリを開き影鬼本家へステルス妖魔の気配を感じたと文章を送り、手袋を脱いでポケットに押し込みコートの内ポケットから魔装召喚用の手袋に付け直す。

背後に振り返って召喚器を装備した事を監視者に右手で左手首を解す様子を見せる。

事情を知らなければ意味の分からない動作で、実際に数人の監視者は意味が分からなかった様だが霞と他数人は状況を察した様だ。

その間にも裂の五感は獣の様な息遣いや鼻に付く嫌な臭いを少しずつ鮮明に察知していく。


……この匂いは汗ってか、イカ臭いって感じだな。


残ったステルス妖魔のプロフィールを思い出す。

裂が追っているのは灰山桐香だが、もう1人は浮気していたサラリーマンだ。

もしサラリーマンなら色欲に関係した妖魔なのかと疑いつつ、スマートフォンの着信を見た。


『妖魔反応は無い。こちらで妖魔とお前の反応は追っておく。ステルス妖魔に遭遇したら生存と情報収集を最優先としろ』

『四鬼の監視は居るが、何か要望は有るのか?』

『無い。向こうは何名か黒子を送り込んでくるだろうが好きにしろ』


それ以上は特に返信はせず、周囲を視線だけで観察する。

息遣いと匂いはどんどん強くなり、息遣いに反応して首だけで左を見れば薄く何かが輪郭を持ち始めていた。

人型では有るが、手足の付き方が明確に人間ではない。

体長は3メートル程度、左足が竹のように細長く胸元まで有るが右足は一輪車の様だ。右手は剣玉の様な十字の形状だが左手はパソコンのキーボードを思わせる角ばってボタンが大量に付いている。

最も人外を象徴するのが頭部で首が長く背中側に倒れており、背中を張って左手と左脇の間からのっぺら坊の様に目も口も無い顔が裂を覗き込んでいた。

自分達の存在を隠す事を放棄した監視者達が走り寄ってきているが、先頭集団以外は妖魔の実体化の方がギリギリで速そうだ。

裂の視線で妖魔が実体化していく様を見て驚愕する監視者達は走りながらスマートフォンを取り出し、反応が無い事を確認した。


「アプリに反応が無い!」

「前の反応で改善出来てないのか、使えない!」


そんな事を言い合った直後に妖魔が完全に実体を持ち、監視者達も裂もアプリが反応した。

一瞬でも気を取られた監視者達だが裂は最初から覚悟が出来ていた。

アプリが反応した瞬間に妖魔と裂の間の空間が歪み、ビジネスホテルの部屋を思わせる扉が現れる。扉には部屋番号の様なプレートが付いているが数字表記は無く、引っ掻き傷の様な線が無数に走っている。不思議な事に線はプレートだけで扉に傷は無い。

扉が開き、踏み止まる事が出来ない程の吸引力に捕まり裂は逆らわずに扉に軽く踏み出す。

その裂を追って先頭を走っていた2人の監視者が裂の肩を掴んで共に扉に引き摺り込まれる。


「1人では行かせませんよ!」


嫌な顔をして振り返れば案の定、2人の内の1人は霞だった。

もう1人は先程辛さ十倍ラーメンを食べていた男で間近で見れば30代中盤に見える。裂の事は見ておらず、自分を吸い込む扉を観察していたようだ。


……何か、呪われてんのかな?


霞と接近する度にステルス妖魔に遭遇している裂としては心の底から霞と距離を取りたいと思いつつ、扉を抜けて背後の閉まる音を聞いた。


▽▽▽


様々な物が継接ぎに成った妖魔を裂は暫定的に継接ぎ妖魔と呼称する事にして扉が抜けた瞬間に軽く歩調を緩め、扉から少し離れる様に歩いた。

肩を掴んだ2人は吸引力が無くなった瞬間にバランスを崩すが裂の肩を支えに転んだりする事は無く体勢を立て直し手を離した。

裂は背後を見て扉が閉じた事を確認し、今度は首を回して周囲を観察する。

円形の部屋の中央に立つ3人だが扉の背後には丸く大きなベッドが置かれ枕元に何かの操作盤が付いている。

その横には小棚が有り液体の入った瓶やピンク色の小さいビニールが入っている。ビニールの中身は丸く薄い様でビニールはその形状に押し上げられている。


「ラブホか」


呟いてから視線を扉の後ろから別方向に向ければ公園を思わせる砂場や滑り台が設置された一角が有り子供の遊び場の様に成っている。

円形の部屋の中で遊び場から逆側を見れば書類が散乱した事務机が置かれており、事務机の側面は蹴られたように凹んでいる。


……継接ぎ妖魔の脚は一輪車と竹馬か? 左手は仕事でキーボードだろうが、30年前だとパソコンって個人に支給されてたのか?


流石に高校生の裂に企業の設備の歴史は分からない。

そんな物だろうと考えるのを放棄して扉の正面を見れば別の扉が有る。

一般家庭を思わせる曇硝子の付いた木製の扉だ。

扉の向こうに光源が有るのか向こうから光が漏れており、同時に曇硝子に人影が写る。

ちゃんとした人間の影では無く紙芝居を思わせるデフォルメされた人影だ。

女らしい髪が長く胸部が膨らんだ影が、子供らしき小さい人影を抱き上げている。


『ママ、ご飯?』

『そうよ』

『パパは?』

『あの人は要らないのよ』


冷え切った家庭の様だが裂は興味を示さずに背後の2人に振り返った。


「アンタは四鬼だって知ってるが、そちらさんも同じで良いんだよな?」

「あ、ああ。自分は黒子の緋山焼慈(ひやま・しょうじ)だ」

「そうか。俺は妖魔を探す」

「協力させてくれ。自分達もステルス妖魔だからというのも有るが、妖魔討滅は最優先するべき仕事だ」

「好きにしろ」


妖魔の形状や特性は基に成った物に由来する。

裂が見た妖魔の見た形状は右手と脚が娯楽、左手は仕事に関係しそうな形状、顔面はろくろ首を思わせる構造だった。

この部屋はラブホ、子供の遊び場、大人の職場で構成されているが、その外は家庭を思わせる扉で分けられている。

とても褒められた人間ではないのだろうが3人は別に妖魔の基に成っただろう男を非難するつもりは無い。ただこの空間や妖魔の見た目に準じた部分が社会的な問題を起こしていなければ何を抱えていても問題無いと思っている。

3人は内装を見ても何も気にせずに冷めた家庭らしい人影が写る木製の扉に向かい、裂が何の警戒も無く扉を開く。

警戒して開く事を前提に考えていた焼慈は驚いて懐の札を落とし掛けるが霞は諦めた様に溜息を吐いて裂に続いた。

扉を抜けた先はビジネスホテルの様な通路が続いており、しかし歪に捻じれており廊下の先では床が横から縦に掛けて少しずつ変わっていっている。


「抽象画とか心象風景の絵画みたいですね」

「今までみたいに小型の妖魔が居ない」

「基本的には灰山君を先頭に自分達は後方から支援と考えて良いのか?」

「好きにしろ」

「緋山さん、灰山君に協調性は求めるだけ無駄なので私達なりに身を守りつつ支援しまし

ょう」

「そ、そうなのか?」


10歳以上は年下の霞に言われ困惑する焼慈だが裂も同意見だ。

そもそも裂は今まで通信での支援を受ける事は有っても誰かと共闘する事は無かった。前回の恐竜妖魔で四鬼と共闘したのが鬼との初めての共闘なくらいで、黒子だって影鬼の黒子と共闘した事は無いので霞以外の黒子との共闘すら初めてだ。


「共闘なんて慣れない事をするくらいなら単独のつもりの方が良い。だから好きにしろと言っている」

「成程。青山の言う通りだな」


納得した焼慈は裂が捻じれた廊下を歩いていくのを見て溜息を吐いて付いていく。その背後を霞が後方を警戒しながら続く。

捻じれた廊下は重力が操作されているのか捻じれに合わせて床が横に成っているのに普通に歩く事が出来た。

ビジネスホテルらしく壁には複数の扉が有り、しかし扉の形状は家庭で使われる様なデザインの物からホテルらしい無機質な扉も有る。

試しに裂が適当な曇硝子の嵌った木製の扉を開くと一般家庭のリビングの様な部屋だ。机は一般的な4人用の物が置かれ、椅子も2つは大人用で2つは子供用だが食事は3人分だ。大人用が1つ、子供用が2つで大人が1人省かれている。

入ってみると奥にはカウンターのキッチンが有り、興味本位で裂が冷蔵庫を開いて見ると腐っていたり劣化している食材が入っている。

フライパンと鍋は料理で使われた痕は有るが洗われていない。

洗い物を後回しにしているのかと思えば洗わないまま何度も使われた様で酷く汚れている。

もしやと思って裂が机に置かれた皿を見れば同じ様に洗わないまま使い回されている様だ。


「相当に問題の有る家庭環境だったようですね」

「その様だ。一体、何が有って浮気に繋がったのだろうな」

「卵が先だろうが鶏が先だろうが妖魔が居るのは同じ事だ」


男が浮気に走ったから女が壊れたのか、女が壊れていたから男が他の女に逃げたのか。

そんな話は30年も前の話で今はどうでも良い。仮に関係が有るなら関係も含めて全て破壊してしまえば良い。

鬼らしい短絡的で暴力的な思考で結論付けた裂は小型の妖魔や迷宮の主が居ない為に興味を失い部屋を出ようとする。


「待て。少し観察する時間をくれないか」

「知らん」


焼慈の静止に短く答えた裂は黒子2人が室内の観察をしようとしているのを無視して廊下に続く扉を開く。

廊下の様子は先程とは変わっておらず特に問題無く出る事が出来た。

その様子に慌てた焼慈が急いで裂を追い、霞が溜息を吐きつつ後を追う。

捻じれた廊下は感覚を狂わせる。

最初に居た部屋の有る扉に続く廊下も捻じれており、今では最初に居た部屋が捻じれた位置に有る様に見える。

最初に居た部屋が正常な重力に従った部屋だったのか疑問を覚える。


……まあまあ。地球だって反対側じゃ重力の向きが反対なんだし、驚くのも可笑しな話か。


自分の知識の中から異常事態に類似した物を探してパニックを防ぐ。

災害時にも使えるメンタルコントロールのテクニックの1つだと灰燼鬼の指南書の中に有った記述を思い出して裂は小さく溜息を吐く。

霞はステルス妖魔が4回目なので混乱はしているが深呼吸して自分を落ち着けるよう努めている。

焼慈はまだ感覚を慣らすのに苦労している様だがパニックは起こさない様だ。こちらは霞の様な慣れでは無く年の甲と言った様子だ。

面倒を避ける為に2人の顔色を確認した裂は直ぐに廊下の先を目指す。

今までの様に小型の妖魔が居るかと警戒はしているが最初の単眼妖魔の様に一本道だ。

廊下の最奥は目視できる程度の長さだ。部屋は多いが裂は寄り道する気が無いので真っ直ぐに最奥を目指す。

最奥はエレベータに成っており不思議な事に上の階へのボタンしかない。

ここが1階だというなら受付が見当たらないが、裂は考えるのを止めてボタンを押した。


「少しは躊躇とか観察とかしないのか!?」

「親玉が控えているんだ、体力は無駄に出来ない」

「そうかもしれないが、これではステルス妖魔の調査が進まない」

「それはお前たちの都合だ。自分達でどうにかしろ」


焼慈が黒子な理由を何となく察した裂はエレベータが着くと直ぐに乗り込み上階へのボタンを見た。

今の階は1階らしいが複数のボタンは真っ黒で、最上階らしいRというボタンだけが押せる様だ。


「もう動かすぞ。残るなら勝手にしろ」

「くっ、行くさ!」

「必要に応じて戻れば良いじゃないですか。今は生存を第一に考えましょう」


焼慈を宥める霞も乗り込んだのを見て裂はRのボタンを押した。

普通のエレベータらしく扉が閉まり上昇する感覚と共に扉の窓の風景が下に流れていく。

上昇速度は速く正確に何階分の上昇をしているのかは分からないが明らかに10は超えた所で裂は数えるのを止めた。

そもそも1階の廊下と重力は捻じれていたしこのエレベータがまともな物理法則に従っているとも思えない。

高層ビル用の高速エレベータのような勢いで上昇するが、やがて勢いは弱まり床に押し付けられるような慣性を感じている間にエレベータが止まり扉が開く。

ビルの屋上を思わせる広場に直接繋がっていた事に違和感は覚えるが現実世界ではないのだから考えるだけ無駄だ。

焼慈や霞の様な黒子は周囲の状況も利用して初めて妖魔と勝負に成るので綿密な調査をしたいだろうが、裂は知った事では無い。

最悪、妖魔にどちらかが殺されようが裂は知った事では無い。

司法取引にも黒子や四鬼を守れという内容は無かったので契約違反と言われる筋合いも無い。

自分の中で理論武装を完了した裂は警戒心の薄い足取りでエレベータから出る。

やはり屋上だった様で左右は網の柵で囲われ、迷宮で初めて空が見えた。

空色でも、夕日に染まった訳でも無く、夜空でもない。

紫の空に緑色の雲が浮いている。

太陽らしき光源は無く夜なのかと思うが月や星は見えない。

異世界らしく何でも有りだと思いながら柵で用意された通路を裂は進んでいく。

通路は幅2メートル程なのだが、その通路は連絡通路の様で隣のビルに繋がっている。


……今までのパターンだとあのビルが闘技場か?


隣のビルの屋上は柵で囲われているが他には何も無い。

建物内に繋がる様な物も無い事からボス部屋だろうと裂は考えた。

黒子達の事は元々意識の外に有るので焼慈も霞にも声は掛けずに裂は闘技場らしき隣の建物に向けて歩き出す。

その裂の肩を焼慈が掴んだ。


「待てっ」


意味が分からずに首だけで振り返れば焼慈が非常に焦った様子で裂を睨んでいる。

何かを言おうとしているが言葉を選んでいる様で短い呼気を出しては止めてを繰り返している。

視線だけを霞に動かしてみれば困惑しておりこれは黒子としてでなく焼慈としての行動だと分かった。

裂は焼慈の手を振り払いながら振り返り、睨み付ける事で視線を固定させながら腹に拳を叩き込んだ。

完全な不意打ちに苦悶の表情を浮かべて腹を抑える焼慈の背中に肘を叩き下ろす。地面に倒れた焼慈の腹を爪先で思い切り蹴り上げて柵に叩き付ける。


「灰山君!?」

「妖魔討滅の邪魔だ」


焼慈が動けなくなったのを確認した裂は興味を失って闘技場に向けて歩き出す。

振り返る際に視界に入った霞は今まで裂に見せなかった厳しい視線を突き付けてくるが、裂からしたら四鬼が異端鬼に向ける正しい視線だと考えている。

今まで間違っていた事が正しい形に直ったのだと思い自分の歩調で裂は闘技場に踏み込んだ。

まずは入口周辺で周囲を見渡す。

ビルの屋上らしく四角の闘技場は金網で囲われている。

屋上に有る給水タンクやビル内に繋がる構造体は存在せず、ただ平坦なコンクリートの床が広がっているだけだ。

もう1歩踏み出し完全にビルに踏み込むと背後に見慣れた魔法陣が展開し、触ってみれば硬く連絡通路と闘技場を隔てている。

魔法陣の隙間から見える焼慈は怒りに顔を歪ませ、霞は溜息を吐いて焼慈に肩を貸していた。

焼慈の事情に興味は無い。

継接ぎ妖魔の関係者なのかもしれない。

ステルス妖魔の調査が仕事に含まれていたのかもしれない。

裂が思い付く理由はその程度だが真相が分かっても1晩で焼慈の名前も含めて忘れるだろう。

魔法陣から手を放して闘技場の中心に向けて歩いてみれば、闘技場の奥から人間の汗臭い刺激臭が漂ってくる。

裂が継接ぎ妖魔を認識し始めた瞬間から透明だった継接ぎ妖魔が輪郭を持ち始めた。

子供の遊具の脚部と右腕、仕事道具と思わしき左腕、人外な首の長さを持った頭部。

それらが不思議な色の空から降り注ぐ奇妙な光によって影を持ち、10秒程度で完全に実体化を果たした。

首は迷宮に取り込まれる直前とは異なり左脇に回されず前に垂れて身体の前に伸ばされ目も無いのに裂を睨みつけている。

裂もただ実体化を待っていた訳では無く、両拳を打ち付け魔装を召喚する。


「装甲」


短い詠唱に合わせて灰を積み上げた艶の無い魔装が召喚され、裂を灰燼鬼へと変貌させた。

継接ぎ妖魔の実体化が完了した瞬間に約10メートルの距離を詰める為に走り出す。

ボクシングスタイルの構えで顔面を守りつつ、身を低くする事で正面から胴体へ攻撃される危険性を減らす。

継接ぎ妖魔は一輪車を軸に回転し、右手の剣玉の玉を振り回して灰燼鬼を迎撃する。

胴体を横から殴り付ける剣玉に対し、灰燼鬼は上半身を後方へ仰け反らせて回避した。脚は止めておらず、回避が完了した瞬間に上半身は前傾姿勢に戻し継接ぎ妖魔に肉薄する。

10メートルの距離はその工房で詰まり、彼我の距離1メートルでの攻防に移る。

灰燼鬼の左拳によるジャブが2発、剣玉の根本である肘付近を捉えた。

右腕を殴られた事で右半身が仰け反る継接ぎ妖魔は左脚の竹馬を振り上げ、先端で灰燼鬼の右腕を切り付ける。

竹馬の先端で削られた灰燼鬼の右前腕に薄く傷が入り灰が飛散する。

右腕が蹴り上げられた事で頭部の左側に打ち上げられ、肘刃が継接ぎ妖魔にその切っ先を向けた。蹴られた衝撃を強引に踏み止り、1歩踏み込んで継接ぎ妖魔の懐に潜り込んで右肘の刃を継接ぎ妖魔の腹に叩き込む。

竹馬による蹴りを強引に耐えた上での肘打ちなので踏み込みの勢いは弱い。

妖魔への有効打は体積を削る事だ。その為、刃による突きは有効打には成り辛い。

まずは互いの立ち回りを見合う攻防は継接ぎ妖魔が肘打ちによって約2メートル後退した事で睨み合いに成る。


……竹だと思ったら竹馬か。益々子供の遊びみたいだな。


灰燼鬼の鎧の下で自分の唇を軽く舐めた裂は睨み合いを長くは続けずに踏み出した。

剣玉の玉は最初から回収されておらず、大回りで継接ぎ妖魔の周囲を回転しており再び灰燼鬼に向けて左側から飛来する。

糸が継接ぎ妖魔に巻き付いているが気にした様子は無く、何かしら対策が有るのだろうと考えつつ灰燼鬼は玉を置き去りにする速度で踏み込んだ。

長い首を利用した右からの頭突きを右半身を前にした右アッパーで迎撃し、腰に溜める事が出来た左拳で継接ぎ妖魔の胸部を殴り飛ばす。

体勢の崩れた継接ぎ妖魔に腰の入った強打を耐える事は出来ず、殴られた衝撃に吹き飛び仰向けに倒れ込む。長い首はアッパーの衝撃で先に飛んでいた為に後頭部らしき部分を床に強かに打ち付け、剣玉の玉は制御を失って地面に落ちた。


「切り飛ばす」


宣言と同時に右足の踵から灰が集まった鋭い刃が生える。

倒れた継接ぎ妖魔に向けて灰燼鬼は飛び蹴りの様に跳躍し、右肘に仕込まれたスラスターが緑光の推進力を噴き出す。

削岩機の様に灰燼鬼が空中で回転し、踵刃がスライサーに成る様に身を捻って継接ぎ妖魔に突撃する。


「旋風刃っ」


短く鋭い呼気と共に呟かれた声は緑光のスラスター音と踵刃が継接ぎ妖魔を細切れにする音に紛れて裂自身にも聞こえない。

高速で回転した灰燼鬼が踵刃で何度も継接ぎ妖魔を切り裂き擦れ違い、床を削って滑りながら身を反転して着地する。

仰向けに倒れた継接ぎ妖魔は身体の正面を足から頭部に掛けてミキサーの様に回転する踵刃の斬撃を受けたのだ。身体全身に深い切傷を受けて各所が床に達する程の深さで細切れに切断されていた。

切断面からは妖魔が消滅する際に発せられる特有の黒い靄が溢れている。最も大きな肉片でも全身に対して9割が切り離された事で妖魔としての形状を保っている事が不可能に成り静かに消滅していく。

黒い靄の量に合わせる様に足場や柵の輪郭が薄くなり、現実世界が薄っすらと見えてくる。


……今回は精々が20分程度だったか。


今までのステルス妖魔の迷宮としては非常に短時間だ。

迷宮の主以外に小型の妖魔に遭遇しなかったのは不思議だし、左手のキーボードによる攻撃方法は不明なままだ。

しかし、妖魔の全てを観察する必要は無い。

出来れば妖魔が何か行動を起こす暇すら与えず、輪郭を持ち始めて動けない段階で攻め始めるべきだった。

自分の臆病さを反省しつつ、灰燼鬼の魔装を解いた裂は空に向けて大きく息を吐く。

まだ完全に現実世界に戻ってはいないが、既にビルや柵はほぼ見えなくなっている。

連絡通路の有った方から霞が焼慈に肩を貸したまま近寄って来る。

今までなら四鬼と異端鬼という事で逃げた裂だが、今回は司法取引を結んだ相手でもあるので逃げられない。


……さて、あの黒子の事はどうしたもんかね。


妖魔討滅に邪魔だったので行動出来なく成る程度に痛めつけてしまった。

その事を注意されるかと思うと気が重く成り、同時に痛めつけた事実には何の感想も裂は抱かなかった。

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