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続々・ドッとライジング!〜黄泉沈む水底〜  作者: やご八郎


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第七章 水面の別れ

 翌朝。

 川べりの小さな祠は夜露を受けて、木肌がしっとり息をしていた。

 孝が枠の歪みを点検し、呼吸孔に詰まりがないか細い針でそっと掃く。

 真弓は立入禁止の柵を増やし、発電機の負荷を落として回転の裏返りが出ないことを確かめる。

 美希は記録台帳の余白に、昨夜以降の遅延の推移を追記した。


「0.04 → 0.02。……いい傾向です」

「湖の“鳴き”もない」真弓がうなずく。「ここ、落ち着いてる」


 風はほどよく、陽は浅く。

 水の鏡に、こちらの世界がそのまま映る時間が伸びている。


◇◇◇


 仕上げを終えると、四人で湖へ向かった。

 東岸の“折れ”の起点。

 まだ朝の色が残る湖面に、二つの輪が淡く沈み、その周囲の水は驚くほど静かだった。

 “無音の帯”は細り、底の谷に線が一本通っている。


「……戻りきったわけじゃない。でも、“遅れ”はほとんど消えてる」

 私は耳の焦点を解き、深く息を吐いた。

 孝がスマホのタイマーを下ろす。「0.02……人の会話の拍と同じくらいだ」

 美希は筆圧を抜く。「この数字、産院の公開統計の揺れとも“拍”が合う。少なくとも、悪化は止まった」

 真弓は湖の中央を見たまま、短く言う。「水が軽い。昨日の重さが、ない」


 ——そのとき、湖の真ん中で薄い拍手が一つ。

 風に紛れ、音にはならない。けれど、確かに合図だった。


◇◇◇


 私たちは川べりの祠へ戻り、最後の確認に入った。

 豊郷先生が鈴を持ち、三度の合図を指で示す。


「本日は“送る”儀ではありません。鏡が澄んだことの確認と、向こうからの伝言があれば受けるだけです。無理はしません。戻る合図を最優先します」


 私は椅子に座り、背骨を一本に立てる。

 孝が、椅子の背にそっと指先を置いた。

 呼吸が、すぐ合う。

 先生が一度、鈴を鳴らす。ちり……ん。

 吸う、吐く。

 二度目。ちり、ん。

 世界が浅く沈み、水面に薄い影が立つ。


 三度目は、まだ鳴らない。

 水の鏡に、人影がひとつ——いや、ふたつ。

 片方がこちらに手を振り、もう片方が白いフリップを掲げた。


「……坂田さん」

 先に姿がはっきりしたのは、坂田だった。

 いつもの気の抜けた笑顔。声はほとんど届かないのに、口の動きと仕草で意味が伝わってくる。


 坂田は胸の前で手を合わせ、ゆっくり礼をした。

 ありがとう——そう言っている。

 それから、横の影を親指でさす。掛水。

 フリップをぐいと上げる。

 そこに大きく、手書きの文字。


 「元気でな!」


 喉の奥が熱くなった。

 声は届かない。だから声の代わりに、文字。

 掛水はフリップをこちらへ向けたまま、むにゃっと笑った。

 いい笑いだった。あの夜の、まっすぐな笑い。


 坂田が、両手のひらを前へ押し出す。

 ——押すな、追うな。

 向こう側の合図だ。

 私は小さく頷き、背中の孝の指に一回だけ合図を返す。大丈夫。


 掛水がフリップをめくる。

 「焦らず、遅れず」

 もう一枚。

 「器、ありがとう」

 最後に、横向きのへたくそなハート。

 坂田が慌てて取り上げ、「アホか」と大げさに突っ込む仕草をしてみせる。

 私たちは、笑って、泣いた。声を出さないまま。


 先生が、鈴をそっと握り直す。

 戻る合図の前に、坂田が指を一本立てた。最後に一言、という合図。

 彼は口を大きく開いて、ゆっくり動かした。


 お・し・あ・わ・せ・に


 美希が肩を震わせ、真弓が息を吸い、孝の指先が一瞬だけ強くなる。

 私は、まっすぐに頷いた。


 先生が鈴を鳴らす。ちり……。

 水面の像がほどける。

 フリップの白だけが一度、光って、消えた。


◇◇◇


 祠の四隅の灯は、揺れすぎず、消えすぎず。

 川の音はふつうの距離に戻り、風は一定の歩幅で通り過ぎる。


「……終わりました」

 美希が書板を閉じる。

 真弓が柵の杭を叩き直し、孝は枠の呼吸孔を一つずつ撫でるように点検した。

 私は耳をほどき、木鉢の水面へ指の腹で静かな返礼を描く。輪を一度、ふたたび。


「みなさん、よくやってくださいました」

 先生の声が落ち着いている。「像は澄み、伝言は届きました。……これからは、ここが“道しるべ”になります。呼べば、水は答える」


 私は、川面に映る空を見た。

 二つの輪はもう見えない。

 けれど、輪の跡は、たしかに残っている。

 “道”の跡。

 笑いの跡。


◇◇◇


 片付けのあと、四人で短い拍を合わせた。

 パン、パン。

 ひと呼吸。

 パン。


 孝が私に輪ゴムを差し出す。

 「預かって。しばらく、テンポ係」

 「……うん。焦らず、遅れず」

 それだけ。

 それで十分だった。


 帰り道、湖を振り返る。

 “無音の帯”は、もう帯ではない。

 水は、音を正しく返し始めている。

 風は、笑いを運ぶ準備をしている。


 元気でな!


 紙の白と、あのバリトンの記憶が、胸の奥で同時に灯った。

 別れは、静かで、確かだった。

 ——そして、水は、前へ流れていく。

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