第六章 水の神殿
翌日・午後、東岸の“折れ”の起点。
仮設の安全柵が増え、電源は独立系に切り替えられていた。
孝が改良リング(二号)を台座に据える。呼吸孔は一段増え、木目が浅く鳴る。
真弓は係留ロープと浮力体を点検し、ポンプの吸い口は表の流れに沿うよう微調整を済ませている。
美希は記録と「戻る合図の強制終了」の係。
私は、木鉢の面を指の腹で鎮め、深く息を整えた。
豊郷先生は、鈴を持って三度の合図を確認する。
「段階を守ります。焦らず、けれど遅れず、です」
「はい」——四人の声が揃った。
◇◇◇
一度目。ちり……ん。
吸う、吐く。呼吸を水へ重ねる。
二度目。ちり、ん。
世界が浅く沈み、音が薄紙越しになる。
木鉢の面に、三つの波紋の印がうっすら浮いた。祠の輪郭が“こちら”へ寄る。
『——ええ、そこや。その影の脇や』
嗄れたバリトンが、水の底から上がる。
『御神体は“影”の側に片身だけ埋もっとる。二つの輪が噛み合う刻み。ほな、いっぺん“持ち上げ”行くで。坂田』
「しゃあないなぁ。落とすなよ、掛水」——気の抜けたツッコミが遠くに転がる。
湖面の中央が、静かに膨らんだ。
まず光の輪が二重に重なり、その下で黒い影がほどける。
孝が距離と方位を読み上げ、美希が「無音の帯」の芯に印を入れる。
真弓がボートのロープを少しだけ繰り出した。「引っ張らない。浮きを待つ」
『……よっこら——せ』
冗談めいた掛け声と同時に、遅延が縮む。
孝がタイマーを見た。「0.11→0.07」
「ポンプ、裏返らない」真弓の目がきらりと動く。「“鳴き”が止まってる」
湖面に、石が浮かんだ。
掌二つぶんほどの厚み、二つの輪の刻み。
泥が水にほどけるたび、輪の刻みだけがくっきりする。
私は喉の奥で息を合わせ、手で合図——「近寄らない。待つ」。
三度目の鈴が鳴る前に、ふっと笑いが混じった。
『見えたか。——こいつが、核や』
掛水の声は、少し遠い。
『そっちは器がええ。よう映る。……ほな、渡すで』
水がひと息吸った。
御神体が、こちら側へ“わずかに”寄る。
孝が短く言う。「受けに行く」
真弓が即座に首を振る。「待て。引き寄せない。浮きの癖を見ろ」
御神体は、自分で最短の水路を選ぶように、ゆっくりと岸へ寄ってきた。
私たちはただ、器を整えて待つ。
やがて波が弱まり、石が指先の距離に来る。
孝が両手で水をすくい、水の重みを残したまま木鉢に乗せる。
リングの隙間が、小さく呼吸した。
二つの輪が、木目の上でかすかに合う。
「——受けました」
美希の声が、胸に落ちた。
先生が鈴をそっと鳴らす。ちり……(戻る合図)。
私は目を開け、深く息を吐いた。
◇◇◇
奥里川のほとり。
四人と先生で、川べりに小さな水の祠を組む。
孝の板は軽く、接ぎは呼吸する。
真弓が河原石を運び、基礎を固める。
美希は白砂と塩を薄く撒き、四隅に灯を入れる。
私は御神体の面を川へ向け、指の腹で水を繋ぐ。
「ここからは、ゆっくりです」
先生の声は一定だ。「御神体が自分で楽な位置を見つけます。押さないこと。乾かさないこと」
川の音に合わせ、四人でゆるい拍を刻む。
孝が木枠を押さえ、真弓が石を足して歪みを逃がす。
私の耳は、御神体の呼吸を聴く。
右へ一度、左へ二度——そこで止まる。
面が川の流芯を向いた瞬間、遅延がさらに縮んだ。
「0.07→0.04」孝。
「湖の“鳴き”は止まったまま」真弓。
美希が小さく、ほっと息を漏らす。
川風が、祠の鈴をひと声鳴らした。
表の水が澄み、裏の水が静まる。
音が、ふつうの距離に戻る。
『——ええやん。ええ場所や』
水の底から、笑いが上がった。
『湖の底が、ちいと軽うなった。こっちは、さっきより息がしやすい』
掛水の声は、しかし薄い。
『……琴音ちゃん。器、ありがとうな。そっちの笑い、ちょっとこっちへ来た』
そこで、咳。
「掛水さん」私が呼ぶと、すぐ別の声が割り込んだ。
「おいおい、調子乗るな。省エネや、省エネ」
坂田だ。
「せっかくこっちの所属決まりかけてるのに、無理して居残りする気かいな」
『なんやそれ、言い方よ』
「ほら見ぃ。笑い過ぎや。——生きてる方も、寝る用意しとき」
軽口の向こうで、水がさらに静かになった。
先生が、合図の鈴を三度目に鳴らす。ちり……。
私は耳をほどき、御神体の面に川の水をそっと注いだ。
◇◇◇
暮れなずむ川べりで、簡単な留めの祈りをした。
言葉は短く、拍は浅い。
風は強くも弱くもない。
祠の四隅の灯が、一つも揺れすぎない。
「——よし」
先生が小さく頷く。「今日はここまでにしましょう。御神体はここで休ませます。……湖は、今夜、息をします」
「ポンプの運転は、低負荷に落としておく」
真弓が言う。「“鳴く場所”は立ち入り禁止のまま。看板、増やす」
「ありがとう、真弓くん。助かります」先生は頭を下げた。「孝さん、明朝もう一度、枠の歪みを見てください」
「了解。接ぎが呼吸してるか、朝露で見ます」
「美希さん、記録をまとめてください。公的な線からは一歩も出ないで」
「わかりました」
片付けの合間、孝が私の手首の輪ゴムをそっと弾いた。
ポン——テンポは、ふつうに戻っている。
私は小さく笑って、頷いた。
◇◇◇
夜。
自宅の机に置いた無音マップの上で、鉛筆の線が一本、まっすぐ通った。
“無音の帯”は細り、底の谷に芯が立つ。
その芯の先に、川べりの祠。
音の行き先が、ようやく決まった。
スマホが震える。
《本日分、良好です。御神体は適切な向きです。明日は固定の仕上げと湖面の確認。——よく眠ってください》
先生の文面は短く、一定。
返信を打とうとして、私は指を止めた。
耳の奥で、かすかな笑いが一度、嗚咽が一度——そして、静けさ。
掛水さんが、遠い。
だが、いないわけではない。
明日も、焦らず、けれど遅れず。
窓を少し開けると、川風が一拍だけ入って、すぐに抜けた。
祠の方角で、鈴がほんの一度鳴った気がした。




