第五章 黄泉の水底
翌夕、東岸の“折れ”の起点。
仮設の祠は低く、灯は四隅に小さく揺れている。リングは昨夜よりもさらにしなやかな呼吸孔を持ち、木肌が細く鳴いた。水鉢に張った川水は、一度布で濾してから、指の腹で静かに面を鎮めた。
「段階を守って進めます。合図は三度。最後は必ず戻る。いいですね」
「はい」
先生の声は落ち着いていた。鈴を握る右手に、薄い包帯が見える。二年前の春から、何も変わらない言葉の速さ。
私は腰を落とし、背骨を一本に揃える。
後ろに立つ孝が、私の椅子の背に指先をそっと置いた。触れているかいないかの軽さ。呼吸が、不思議とすぐに合った。
一度目。——ちり……ん。
吸う、吐く。風が面へ沈む。
二度目。——ちり、ん。
世界が浅く沈み、音が薄紙越しに離れていく。
水面に、縞模様の光。
石積み。低い屋根。三つの波紋の印。
——祠の像が“こちら”に浮いた。鏡はまだ倒れているが、輪郭が掴める。
『ええ、そこや。その影や』
水の底から、嗄れたバリトン。
『御神体は祠の中やのうて、“影”の方や。底の泥に片側だけ潜っとる。二つの輪が噛み合う刻み。わしと坂田、今から黄泉の側でいっぺん持ち上げてみるわ』
「先生、記録入ります」
美希が短く言う。孝は方位を取り、真弓は湖面と灯りの列を同時に監視した。
『……よっこら——せ』
冗談みたいな掛け声の直後、水がひと息吸った。
鏡が、ほんのわずか、こちらを向く。
同時に、湖面遠くの灯りが一列だけ上向きに揺れた。
「いま、向いた」
私の声に、孝の指が一瞬だけ力を持った。すぐ離れる。
「遅延、0.18→0.11に短縮」
「“鳴き”が弱まってる」真弓が言う。「ポンプの波形、裏返らない」
『まだいける。もう半分——』
掛水の声が、笑って、すぐに咳へと裏返る。
『坂田、頼むわ』
遠くで相棒の「はいはい」と気の抜けた返事。水の底で、二人の息が揃った。
次の瞬間、湖が深く沈んだ。
泣き声が押し寄せ、笑い声がはじけ、また泣きに戻る。
鳥がいっせいに立ち、風が切れ、祠の影がこちら側に濃く浮く。
私は指を水面に近づけた。冷たさが、皮膚の表面で輪を描く。
「——戻る合図」
先生の鈴が鳴る。ちり……。
私ははっとして、目を開いた。行き過ぎる前に戻る。
水面は、ふつうの光を取り戻していた。
「第一段・成功です。角度は動く。御神体が反応している」
先生は淡々とまとめる。「この状態で、御神体が現世にも像を落とすはずです。今日のうちに湖面の発光が見られる可能性があります」
その言葉を待っていたかのように、湖の中央が薄く発光した。
最初は、月が雲ににじんだような、弱い光。
次に、輪が二つ、重なって浮かんだ。
二つの輪——刻みの映り。
私の胸が熱くなる。
孝が無言で親指を立て、視線だけこちらに投げた。だいじょうぶ、の合図。私は小さく頷き、呼吸を一つ整える。
◇◇◇
曇りの切れ間から夕光が差し、湖面の像が鮮明になる。
真弓が手早くロープを準備し、仮設ボートを係留する杭を打つ。
「今夜は引き上げまではやらん。位置出しを正確に。……“鳴く場所”には寄らない」
「孝さん、リングの仮枠をボートへ積みますか」
「軽い板を四枚だけ。明日、固定を強くする」
孝は作業手袋をつけ、工具を手早く仕分けた。
私の手首に自分の輪ゴムを巻き替え、軽く弾く。
「テンポ、ずれてない?」
「……うん。合ってる」
それだけ。けれど、胸の震えが静かに落ち着く。
「先生、微弱ですが水面から声が混じります」
美希がスマホの波形を示す。
声、というより息の擦れ。ときどきくすっと笑う、あの端。
「記録に残しましょう。……戻る合図は私が責任を持ちます」先生が頷いた。
◇◇◇
夜の入口。
湖の中央に浮かぶ二つの輪は、光を細く細く保っている。
私たちはボートに乗らず、岸から方位と距離を測り続けた。
“無音の帯”の地図に、明確な芯が通る。底の谷。
そこに、祠の影。
その影の脇に、御神体。
風が、ほんの一度だけ止まった。
遠くで犬が吠え、どこかの家の窓が閉まる。
そして、きわめて静かな拍手が一つ、水に溶けた。
『よし。今日はここまでや』
底からの声。
『器、ようできとる。明日、浮かす。……ええか、焦らんといてな。焦ったら、向こうへ引かれる』
そのやさしい抑えに、胸の奥がふっと軽くなる。
先生が最後の鈴を鳴らした。ちり……(終了)。
◇◇◇
解散の前、ロープを巻く真弓がぽつりと言った。
「……坂田さん、元気かね」
誰も返事をしなかった。
代わりに、湖の端で風鈴がひと声、鳴いた。
帰り道、孝が少しだけ歩調を落としてくれた。
「手、冷えた?」
「……少し」
「はい」
ポケットから使い捨てカイロが出てくる。
私は笑いかけ、言い直した。
「ありがとう」
「焦らず、遅れず」
「うん」
そのやりとりは、風の中ですぐに散った。
けれど、呼吸だけは揃ったまま、坂の上まで続いた。
◇◇◇
夜、先生から短い連絡。
《本日の像・方位・遅延、良好です。明日、安全柵増設後に小規模の引き上げを試みます。みなさん、よく眠ってください》
私は短く返信し、窓を少しだけ開けた。
遠い水の上で、笑いが、いっぺんだけ弾けた気がした。
それから、泣きが少しだけ混ざって、すぐに消えた。
——明日、浮かす。
風がうなずいたような気配が、部屋の隅で静かにほどけた。




