第四章 掛水、再び
翌日・午後。
研究棟の一室に、低い台と水盤が据えられた。窓は半分だけ開け、風の入り方を整える。
水盤は、奥里川の上流で汲んだもの。台の下には、孝が昨夜仕上げた「呼吸するリング」が組み込まれている。微かな隙間があって、木が膨らんでも割れない。息をする器。
「段階的に行きます。まずは“部屋の水鏡”で像の有無を確かめましょう」
豊郷先生は、静かに言った。「鈴は三つ。合図に使います。最初の合図で呼吸を合わせ、二回目で境界に近づく。……三回目は戻る合図です。必ず守ってください」
私は頷き、椅子に深く座る。両足の裏で床を捉え、背骨を一本に立てる。
美希が後ろに立ち、肩に手を置いた。孝は水盤の脇で時刻と風を記録する。真弓は窓際、風の切れ目を見張る役だ。
「琴音さん。“聴き過ぎない”ことも、役目です」
「はい。戻る合図で必ず戻ります」
先生は、鈴を一度鳴らした。ちり……ん。
私は目を閉じ、胸の奥でその音をなぞる。
水盤が、わずかに冷えた。
二度目。ちり、ん。
呼吸を、音に重ねる。
遠い車のノイズが弱まり、窓の外の鳥の声が薄紙越しになる。
水面の“向こう側”に、気配が立った。
三度目——は、まだ鳴らない。
私は水盤の上に指先を掲げ、耳を一点へ合わせた。
くすっ。
嗄れた笑いが、水の底で弾けた。
つづけて、ひゅう……と、吸い込む音。
笑いと泣きの裏返り。二年前、風が止まった夜にも聴いた、あの“境界の声”。
「……掛水さん?」
思わず声が漏れた。水面が、ほんの少し凪いで、そこに歪んだ光が差す。
『——おお。聴こえとるか、琴音ちゃん』
関西訛りのバリトン。
水の底から上がってくる声は、厚いガラス越しのように重い。
『こっちはな、風が止まってもうてる。息も笑いも、ぜんぶ沈んだままや』
私は背中の美希の手に、指で二回合図を送った。まだ大丈夫、というサイン。
孝が深く息を吸い、先生は鈴を握ったまま様子を見る。
「湖は……鏡の裏面を映しています。祠が見える時があります」
『見えとる。黄泉の奥里坂湖にな、川べりの低い祠が沈んどる。三角の破風に、三つの波紋の印——覚えはあるか?』
私はぞくりとした。祖父のノートの挿絵にまさにその印があった。
「あります。水の神殿の印です」
『ほんでな、祠の核——御神体や、あれが横倒しになっとる。鏡が倒れりゃ、像も倒れる。そら風も通らんわ』
掛水の笑いが、短く咳に変わる。
『ようけは喋られへん。水の上は、息が持たんのや。——せやけど、道はある』
声が、少しだけ近づく。
『器を貸してくれ。そっち側に映るための、静かな面が要る。そしたら、場所をちゃんと言える』
先生が、鈴をそっと鳴らした。ちり……(戻る合図)。
私は目を開け、浅く息を吐く。
水面は、ふつうの明るさを取り戻していた。
「第一段階は成功です。像は届きます。……次は現地での水鏡へ移ります」
先生の声は落ち着いていた。「ただし、条件があります。無音の帯の縁、“折れ”の起点。あそこに小さな祠を仮設し、器を据えます。孝さん、リングはもう一段、湿の逃げ場を増やせますか」
「やってみます」
「真弓くん、現場の電源と安全動線の確保を。鳴く場所には寄りません」
「了解」
「美希さん、記録と“戻る合図”の係をお願いします。私は合図の鈴を持ちます」
先生は最後に、私を見た。
「琴音さん。怖くなったら、すぐ戻る。それだけ、守りましょう」
「はい」
◇◇◇
夕暮れ、東岸の“折れ”の起点。
仮設の台座が並び、その中央に孝の改良リングが据えられた。
組み木の隙間は、前よりもしなやかだ。
リングの上に浅い木鉢、その中へ川の水を一度布で濾して入れる。
周囲には塩と白砂、四隅に灯。風が直接当たらないよう、真弓が風除けを立てる。
「始めます」
先生が鈴を一度。ちり……ん。
私は木鉢の水面を見つめ、指先を重ねる。
二度目。ちり、ん。
世界が浅く沈む。
孝のタイマーが動き、美希が背後の位置につく。真弓は湖面の灯りとポンプの唸りを同時に見張る。
水面に、薄い影。
石の壁。低い屋根。——そして、膝まで水に沈んだ祠。
屋根の破風に、三つの波紋。
『ええ、ええ。そこや。そこが、入口や』
掛水の声が、今度ははっきりしている。
『川が曲がる折れの先。古い橋脚の残りが目印や。そっちの世界の地図で言うたら、東岸・北西向きやろ?』
「一致します」孝が即答する。
『御神体は、祠の中やのうて、“祠の影”にある。横倒しになって、泥の中に片側だけ埋もれとる。二つの輪が噛み合うように刻まれた石や。持ち上げると、鏡がちょっとだけ正面を向く』
私はメモに走り書きする。祠の影/横倒し/二輪の刻み。
『ほんで——』
掛水の声が、わずかに遠のいた。
『——このままやと、黄泉の側が先にあふれる。こっちは、泣き声と笑い声で、もう手一杯や。……せやけど、焦らんでええ。焦ったら、向こうへ引かれる』
最後の言葉だけ、妙にやさしかった。
先生が鈴を鳴らす。ちり……(戻る合図)。
私は、はっきりと目を開けた。
風が一度、通り過ぎる。
木鉢の水面は、静かに呼吸していた。
◇◇◇
「地図を起こします」
孝がリングを外し、木鉢を先生といっしょに片付けながら言った。「旧河道と無音マップ、それに今の目印を重ねる。水深も拾って、到達ルートを組む」
「私も、音の遅延を線にします」
私は頷く。「遅延が最も長い谷が、倒れた鏡の底。そこに祠の影があるはず」
「明日は現場の安全柵を増やす。鳴く場所は作業禁止にして、電源は独立系にする」
真弓が短く言い、ヘルメットのバイザーを上げた。
美希は、先生の横で合図の手順をもう一度確かめる。「戻る合図の前に声が近くなったら、私が強制終了を指示します」
先生は四人の顔を順に見た。
「みなさん、よくできました。像は届く。道も見えました。……あとは、器と手順です。急がず、けれど遅れず」
そのとき、湖の奥で、かすかな拍手のような音がした。
風に紛れて、一瞬だけ。
私は笑ってしまいそうになるのを堪え、深呼吸をした。
掛水さんが、いる。
◇◇◇
夜。
送られてきた孝の試作図を眺めながら、私はメモの端に、二つの輪を描いた。
重なり合い、噛み合う、輪。
風と水。
現世と黄泉。
声と沈黙。
その輪の交点に、御神体がある。
そこへ触れれば、鏡は少しだけ、こちらを向く。
寝る前に、先生から短いメッセージが届いた。
《明日は、私が“鈴”を持って立ちます。琴音さんは耳だけ。重くなったら、迷わず戻ること》
《はい。焦らず、けれど遅れず、です》
送信を押すと、窓の外で風が一度だけ揺れた。
笑いの尾が、ごく薄く、夜に溶けた。




