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続々・ドッとライジング!〜黄泉沈む水底〜  作者: やご八郎


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第三章 湖に沈む影


 翌夕、私たちは東岸の見晴らしの良い突端で集まった。

 風は穏やか、雲は薄い。湖は相変わらず“静かすぎる鏡”のままだ。


「角度を確かめます」

 私は三脚に取り付けた小さな反射板(銀のカード)を水面と平行にし、スマホの傾斜計で“面”を合わせる。孝が水平器を覗き、美希は風の切れ目を読む。真弓は岸から数メートル離れた桟橋の先で、光の入り方を撮る。


 反射板をほんの一度だけ傾けた瞬間――湖面の像が“ふわり”と奥へ沈んだ。

 私の頬を冷気が撫でる。


「今、落ちた」

「見えた」孝が短く言う。「像が下に逃げる。……鏡が向こう側へ倒れてる」

 美希が風速を読み上げる。「北西から1.2。昨日より弱いのに、像は深い」

 真弓のシャッター音が、かすかに遅れて返った。「反射の輪郭が二重になってる。表の街と……もう一つの、奥里坂」


 湖の鏡が——裏面を映し始めている。


◇◇◇


 夕闇が降り、灯りが点き始める。

 私たちは手拍子と録音、反射板の微調整を繰り返し、“倒れた鏡の深さ”をプロットしていった。

 “無音の帯”はさらに太り、古い等深線の“折れ”と重なって、黒い舌のような形を作る。


 そのとき、真弓のスマホが震えた。

《現場でトラブル。ポンプB系が過熱、緊急停止。圧力の波形が乱れてる。いったん戻る》

 顔を上げた真弓の目に、迷いはなかった。「すぐ行ってくる。……ここ、気をつけて」

「無茶は、なしで」美希が言い、彼は軽く手を挙げて走った。


「行こう、私たちも」

 私は記録用紙をクリップで留め、孝と美希とともに湖の南側、浜崎建設の仮設桟橋へ向かった。


◇◇◇


 仮設灯の白い光に、ホースと鉄骨が青く光る。

 職人たちが無言で動き回る中、真弓がヘルメットの顎紐を引き、計器盤の前に立っていた。


「B系、軸受けの温度が一気に上がった。吐出の脈動がひどい。……鳴いてる」

「鳴く?」孝が覗き込む。

「回転が一定にならないんだ。……ほら、泣き声と笑い声の間みたいな、あの裏返る音」

 耳を澄ます。

 モーターの唸りに混じって、確かに波形がひっくり返る瞬間がある。押しと吸いが入れ替わるように、音が笑って、泣く。


 私は湖面を見た。

 水は暗い鏡だ。表の灯りの列が、そのまま底へ沈んでいく。

 ……そして、一列、余計な灯りがある。


「——一本、増えてます」

 私が指差すと、美希も息を飲んだ。「あれ、向こう側の灯り」

 孝がスマホをかざす。「位置情報、表側に灯りはない」

 湖底の向こうの街が、表の明かりと干渉している。


「B系、停止します」

 真弓がスイッチを切る。唸りが止み、世界が一瞬、静かになった。

 すぐに別の低い音が満ちる。空気が押し戻される音。

 ポンプの筐体に、小さな手で叩くみたいな振動が走った。私は思わず一歩下がる。


「ここ、ダメだ。古い川の“折れ”に近い」

 真弓が顎で示す。

 旧河道と無音の帯が重なる“折れ”。さっきまでプロットしていた、あの黒い舌の先だ。


「移設、できる?」

「完全移設は無理。けど、吸い口の向きなら変えられる。……“向こう”へ向けない」

 真弓は工具を受け取り、ホースの角度をわずかにずらした。

 孝が手元灯をさして支える。

「よし。これで、湖の表の流れに合わせた」


 再起動。

 唸り音が戻る。今度は、波形の裏返りが起きない。

 ホッとしかけた瞬間、風が“はらり”と切れ、湖面の灯りが深く揺らいだ。

 反射の一列が、底で点滅する。——それは、合図のようにも見えた。


◇◇◇


 作業が落ち着き、私たちは岸に腰をおろした。

 真弓が軍手を外し、額の汗を拭う。


「父ちゃんと話つける。“鳴く場所”には、これ以上近づかない」

「助かる」

 孝が無音マップを広げた。「折れの先が、やっぱり強い。鏡はそこから倒れてる」

 美希は、暗がりの湖に視線を落とした。「明日、もう少し広く音を取る。データで“深さ”を描ければ、先生が鏡の角度を計算できる」


 私は湖を見つめたまま、喉の奥で小さく息を合わせた。

 “無音”が来る。

 ——来た。


 灯りの列がいっせいに沈み、水の底に“奥里坂”の輪郭が現れる。

 道路、橋、屋根……そして、川べりの低い祠。

 ほんの一瞬、破風の角度が表の世界に重なった。

 次の瞬間、音が戻り、像は消えた。


「……確かに、あった」

 美希の声が震える。「水の神殿、向こう側に」

 孝は拳を握りしめた。「先生に写真送る」

 真弓は黙って頷き、湖に背を向けるように立ち上がった。

「今日のところは、これで切ろう。……焦らず、遅れずだ」


◇◇◇


 帰り際、足元の砂利がかすかに鳴った。

 風はない。

 なのに、水面が一箇所だけ波打っている。

 私は立ち止まった。耳の焦点をそこへ合わせる。


 ——くすっ。


 笑いの端。

 すぐに、ひゅっと引かれ、嗚咽に似た音へ変わる。

 裏返りの向こうで、誰かが息をしている。


 私は振り返らなかった。

 振り返れば、境界が一歩、近づく。

 それでも、胸の中で小さく言う。どうか、待って——まだ、器の準備ができていない。


◇◇◇


 夜更け、各自の端末に先生から一斉メッセージが届いた。

《映像、拝見しました。祠の像、確かに確認できます》

《明日、段階的に“水鏡”の試みを行います。琴音さんは無理をせず、器を整えることを優先してください》

《鳴く場所の調整、真弓くん感謝します。みなさん、よく休んでください。》


 短い文面に、二年前の春と同じ落ち着きが宿っている。

 私は“無音の帯”の地図を机に広げ、灯りを落とした。


 暗闇の奥で、水が一度だけ呼吸した気がした。

 深く、沈み、また戻る——その往復に、かすかな笑いが混じった。


 まだ、届かない。

 でも、そこにいる。

 明日、水鏡を試す。

 湖は、もうこちらを見ている。

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