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続々・ドッとライジング!〜黄泉沈む水底〜  作者: やご八郎


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第二章 沈む街の伝承

 翌日、研究棟のゼミ室。

 豊郷先生の声は、板書のチョーク音と同じ速さで、静かに耳へ入ってきた。黒板の三つの円——『風』『炎』『水』——のうち、先生は『水』の円を指で軽く叩く。


「まず前提だけ確認します。水は現世の記憶を留める器です。澄んでいるあいだは黄泉の魂も安んじますが、濁ると記憶が腐り、黄泉が騒がしくなります。錯乱した魂が黄泉口へ殺到すれば、風は止まり、輪廻が滞ります。だから今は、観察を積む段階です」


 先生は四人を見渡し、短く頷いた。


「琴音さん——湖の“無音の時間”を観察してください。時刻、方角、風の強さ、体感も記録に残します」

「……はい」

「孝さんは組み木の応用です。湿に強い“呼吸する接ぎ”の試作を。炎の台座の理を、今度は水へ移しましょう」

「やってみます」

「美希さんは、産院や保健センターの公開データと、可能なら聞き取りの範囲で数字の揺れ方を見てください。個人情報の線引きも、あなたに任せます」

「わかりました」

「真弓くん——現場の配置図とポンプの運転記録を見せてもらえますか。止めろとは言いません。“鳴く場所”を避けるための調整なら、できるはずです」

「……父ちゃんと相談します。俺にできること、やります」


 先生は最後に『水』の円へ視線を戻した。


「対処の原則は、鏡を澄ませることです。御神体を正しい場所へ戻せれば、風は自然に戻ります。急がず、けれど遅れず。積み上げましょう」


 言葉が部屋に沈む。二年前の春と同じ、けれどまったく違う緊張が、静かに始まっていた。


◇◇◇


 昼休み、湖の東岸。

 私は三脚にスマホを固定して、連続録音と風向・風速・方角・時刻を合わせて記録する。膝の上には祖父のノートから写した等深線の写しと、方角ごとに色を変えた付箋。合図に、指先で小石を一つ、水へ放る。チャプ、と鳴り——


「……今」


 音が吸われる。遠い車のノイズ、鳥の声、衣擦れ——ぜんぶが湖の一点へ落ちていく。十秒、十五、二十——戻る。付箋に「12:14/北西/無音19秒」と書き込む。繰り返すたび、“沈黙の帯”が紙の上で太っていった。


 孝からメッセージが来る。

《接ぎの試作、呼吸孔アリで仮組みOK。水槽で膨張テスト中》

 写真には、小さな組み木のリング。隙間が生きて、呼吸している。

《湿気で鳴く音を拾いたい。夜、工房に寄れる?》

《行く。19時過ぎ》と返す。


 真弓からも。

《ポンプの運転ログ、父ちゃんからもらった。止められんけど回転の山谷は調整できる。鳴く場所、図で教えてくれ》

《東岸の北西向き。古い川の痕の“折れ”が怪しい》

《了解。無茶はしない》


 ここにいる全員が、二年前の春以来、前より慎重だ。あの“春”に学んだ手順と呼吸が、いまも身体に残っている。


◇◇◇


 図書館で合流した美希は、公開データと聞き取りの境目をきっちり線引きしたメモを持ってきた。


「数字は揺れてる。季節性から外れた微増。でも、個別事案に踏み込まない範囲で止める」

「ありがとう」


 私は無音の時刻と、彼女のメモの日内変動を並べる。午後の“沈黙”が伸びている。夕刻に向けて、まるで鏡が重くなるように。


 ページの端に、私は小さく書いた。

 水が濁る=記憶が腐る。

 記憶が腐る=向こう(黄泉)が騒ぐ。

 騒ぐ=黄泉口へ殺到→風が止まる→輪廻が滞る。

 結果=「宿らない」。

 線で結び、最後に円で囲む。——だから、水を澄ませる。


 当たり前の図式。でも、現場の音に当てると、たしかに輪郭が浮かぶ。


◇◇◇


 夕方、再び湖畔。四人で“第二ラウンド”。

 風は弱く、光が浅い。私は方角ごとに手拍子を二回、一定のテンポで鳴らす。孝が距離を取り、遅延を測る。真弓は水面の反射を撮り、美希は風の“切れ目”を読む。


「北西、入ります」

 私が手を打つ。パ、ン——間——スピーカーからの返りが遅れる。

 孝がストップウォッチを止める。「遅延、0.18秒」

「午前は0.06だった」美希がメモを見る。「三倍」

 真弓が小さく息を呑む。「湖が、下に引いてる感じ」


 私は湖面を覗き込む。水は透明に見える。けれど、音は濁っている。ふと、鏡の底で屋根のような影が揺れた。低くて、石を積んだ角度。祠の、破風に似ている。


「見えた?」

「……うん。一瞬」


 記録の付箋に、赤鉛筆で小さく×印。“像の出現”。風が止む。世界の縁が、やわらかく沈む。そのとき——


 笑い声が、かすかに上がって、すぐ泣き声に変わった。どちらとも言えない、あの裏返りの声。美希が肩をすくめ、孝がスマホを握り直す。真弓は、拳をゆっくり開いた。


「……今日は、ここまで」

 私は言った。「明日、先生に“無音マップ”を見せる。ポンプの山谷と重ねて、“鳴く場所”を避ける段取りをつけよう」

「了解」

「工房でリングの続き、見せて」

「任せろ」


 背を向けると、湖の音がまた、背骨を撫でた。“遅れ”は、確実に伸びている。鏡が倒れる速度は、速い。


◇◇◇


 夜、孝の小さな工房。木の匂い、刃物の鈍い光。テーブルの上に、呼吸するリングが三つ。


「水槽へ沈めて八時間。呼吸孔ありが一番歪みが少なかった」

 孝は淡々と説明する。「膨張と収縮が“行き場”を見つければ、器は割れない」

「器が割れないと、像が正しく宿る」

「そう」


 彼は苦笑した。「俺たち、理屈っぽくなったよな」

「二年前に比べたら、ね」

 でも、その理屈が、誰かの涙を減らすなら、いくらでも理屈っぽくなる。


 工房を出ると、風が一度だけ鳴った。耳の奥で、かすかなバリトンが笑った気がして、私は振り返る。何もいない。けれど、何もいないことが、救いのように感じられた。


◇◇◇


 帰宅して、豊郷先生に無音マップ(試案)を送る。東岸から北西へ伸びる沈黙の帯。それは、古地図に描かれた旧河道の線と、ほぼ重なっていた。


《拝見しました。良い積み上げです。旧河道との一致は重要な手がかりになります》

 すぐ返信が届く。

《明日、現地で“鏡の角度”を確かめます。危険は避けますが、水鏡の試みを段階的に行います》

 最後に一行。

《みなさん、よく眠ってください。焦らず、けれど遅れず、です》


 スマホを伏せ、灯りを落とす。耳はまだ、湖の遅延を覚えている。それでも、目を閉じれば、眠りは来る——はずだ。


 枕元で、風が、ごく弱く揺れた。声にはならない。けれど、道はあると、たしかに告げる揺れだった。

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