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続々・ドッとライジング!〜黄泉沈む水底〜  作者: やご八郎


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第一章 水の記憶

※初見の方は本話末《登場人物紹介》をご覧ください

 秋の風が、街路樹の葉をかすかに鳴らしていた。

 奥里坂は、山から降りる冷気と川の匂いがまじる季節になると、町全体の音がほんの少し澄む。耳を澄ませば、遠くの踏切、校舎の窓、湖の面──それぞれの「呼吸」が揃っていくのがわかる。

 私は、それを“町の律動”と呼んでいる。


 ◇◇◇


 昼下がりの学食で、壁のテレビが不意に音量を上げた。

「──市内の産婦人科で、流産・死産の件数が例年より増加しています。専門家は統計の偏りの可能性を指摘する一方で──」


 ざわ、と空気が動く。トレーを抱えた学生が立ち止まり、数秒だけ画面を見て、また歩き出した。

 私は箸を置いた。頬の内側がひやりとする。隣で孝が、遅れてテレビを見上げる。


「……また“変な年”ってこと?」

「まだ断定はできない。でも、嫌な感じ」

 言いながら、私は自分の呼吸と学食のざわめきを合わせる。金属と皿と靴音──それらが一瞬だけ遠のき、耳の奥で別の音が立ち上がった。

 水の音が、細くなる。糸のように。


「お、琴音。うまい?」

 真弓が向かいに腰を下ろした。作業着の名札には〈浜崎建設〉。再開発現場からそのまま来たらしく、袖口に土埃がついている。


「まあまあ。そっちは?」

「湖の周り、地盤がちょい固くてさ。重機が鳴きっぱなし」

「鳴く?」孝が食いつく。「機械音、変?」

「うん。回転が一定でなくなる。……ほら、風が止まったときの、あの感じ」

 言いながら真弓は、作業靴のかかとで床を小さく踏んだ。音が、広がらない。床の振動が、そこで終わる。


「──湖、見に行こう」

 私が言うと、美希が苦笑した。「授業、あとで出席取るからね」

 彼女は三年生。豊郷先生のゼミで忙しいのに、私たちの“胸騒ぎ”に付き合ってくれる。そういう人だ。


 ◇◇◇


 大学の裏手の坂を下りると、奥里坂湖が一枚の金属のように光っていた。

 風はあるのに、さざなみが立たない。鳥の羽音だけが水面に落ちて、すぐに吸い込まれる。

 私は足を止め、湖畔の石へ手を触れた。冷たい。けれど、ただの冷たさじゃない。指先で、記憶の層を撫でたときのような、ひんやりした重みがある。


「濁ってる……?」

 美希が、水際を覗き込む。


 目に見える濁りは少ない。透明度も、数字にすれば“問題なし”かもしれない。

 けれど、水の奥で──音が澱んでいる。

 私は、喉の奥で小さく息を合わせた。湖の呼吸と、自分の呼吸を揃える。

 ……途端に、周囲の音がひとつ、ひとつ、消えた。


「今、止まった?」孝の声が低くなる。

「うん。湖の“音”が、抜けてる」

 そんなとき、湖面に微かなゆらぎ。遠くの山の影が、水の底へ沈んでいくように見えた。鏡が、奥側へ倒れるみたいに。


「戻ろう。先生に報告」

 美希の言葉に頷き、私たちは坂を上り直した。振り返ると、さっきまであったはずの風鈴の音が、どこにもなかった。


 ◇◇◇


 研究棟の一室。豊郷先生の部屋は、相変わらず紙の匂いが濃い。

「──見てきました。湖面の音が途切れます。たぶん、地脈の変調と関係が」

 先生は、眉を下げて笑った。「よく気づきましたね」


 白い紙の上に、先生は三つの丸を描く。『風』『炎』『水』。

「風は息、息はいのち。炎はその躍動。水は、そのいのちの記憶を留める器──でしたね?」

「はい」私は息を飲む。

「この町では、記憶はよく働く。だからこそ、風が巡り、炎が灯り、水が澄む。……逆もまた然り。どれかが濁れば、他も狂う」


 先生は、ペンを『水』の丸に置いた。

黄泉よみと現世は、表裏一体。水は、その“裏面”を映す鏡でもある。現世の記憶が清い水に留まっている間、黄泉の魂は安定して眠れる。……だが水が澱み、記憶が濁れば、向こうの魂は錯乱し、生を求めて境界へ殺到する。黄泉口が詰まれば、風が吹かぬ。輪廻が滞り、生命なき身体が……」


 先生は言葉を切り、私たちを見た。

「──水子が増える。理屈は、そういうことです」


 私は握った拳を、そっとほどいた。指先が汗で冷たい。

 ニュースのアナウンサーの声が、遅れて胸に届く。

 嫌な感じ、ではない。これはもう、“異変が始まっている”感触だ。


「再開発で地脈が動いたんだろ」真弓が低く言う。「湖の下で、何かが鳴いてる」

「……鳴き声?」

「機械の唸りと混ざる、変な声。赤ん坊みたいな……いや、違う、あれは──」

 真弓はそこで口をつぐみ、天井を見た。言葉にすると、戻ってくるものがある。

 私も、喉の奥で揺れた音を飲み込む。


「琴音さん」

 先生が私の名を呼ぶ。「あなたは“聴ける”。水に残るものの、気配を」

「……耳が、勝手に合わせにいくんです。怖いんですけど、放っておけない」

「放っておけないのが、学問と、縁というものです」


 先生は、机の引き出しから古い写真を取り出した。

 川べりに、低い石の祠。水が澄んだ頃の奥里坂だ。

「水の神殿は、もともと川のほとりにあった。流れが変わり、湖ができ、祠は沈んだ。……水は記憶を蓄え、鏡として向こうを映す。鏡が濁れば、映るものも澱む。黄泉が乱れれば、現世の風が止まる。──今、起きているのは、そういう事態でしょう」


「じゃあ、どうすれば」孝が身を乗り出す。

「鏡を澄ませる。水の“核”を正しい場所へ戻す。理屈は簡単、手順は難儀です」

 先生は小さく笑い、私の方へ写真を滑らせた。

「水面は、鏡。器が要る。──琴音さん、あなたが“器”になれるかもしれません」


 喉が鳴る音が、やけに大きく聞こえた。

 器。

 水が映すものを、そのまま引き受ける器。

 怖い。けれど、私の耳は、すでに湖の方を向いている。


 窓の外で、風が一度だけ強く吹いた。すぐに、静まる。

 秋の光が机の縁を白く洗い、紙の上の『水』の丸だけが、わずかに影を濃くした。


 ◇◇◇


 帰り道、湖の方角から、いっせいに鳥が立った。

 羽音の群れが空にひろがり、しばらくして、また音が消える。

 あの夏の夜に似ている──でも違う。

 今回は、水だ。水が、町の記憶を鈍らせている。


 私は胸の内で、そっと言った。

 どうか、忘れたふりをしないで。

 水は、見ている。風が、聴いている。


 そして、まだ笑いの声が──向こう側に、残っているのなら。


 風よ、水よ。どうか、道を教えて。


 秋の気配が、頬を撫でた。湖面は静かで、静かすぎた。

 私は一度だけ振り返り、歩みを早めた。

 次に“止まる”前に、間に合うように。


 今日はここまでにしよう──と四人で目配せした。 明日、研究室で集まり、やるべきことを決める。観察を積む。焦らず、遅れず。


《登場人物紹介(第三部)》

水島琴音みずしま・ことね

 本作の主人公。大学一年生。豊郷ゼミ所属。地誌と民俗に通じ、記録魔で観察眼が鋭い。“水に宿る記憶”の気配を聴き取る感受性を持つ。


山下孝やました・たかし

 大学一年生。組み木細工に魅せられて建築を志望。耳が良く、音の違和感や“風のリズム”に敏感。仲間の「共鳴役」。


山下美希やました・みき

 大学三年生(一浪)。豊郷ゼミ所属。冷静さと決断力を併せ持つ。過去の異変を経験しつつも、学びと未来への歩みを止めない。


浜崎真弓はまさき・まゆみ

 浜崎建設勤務。実直で度胸がある現場肌。面倒見の良さが持ち味で、要所で体が先に動くタイプ。幼馴染として四人を長く支える。


豊郷惣一とよさと・そういち

 民俗学者。奥里坂大学・特別教授。穏やかな語り口の奥に確かな覚悟を秘め、“風・炎・水”の理を研究と実務の両輪で整える案内人。


掛水慎太郎かけみず・しんたろう

 お笑い芸人。深夜ラジオ《ドッとライジング!》MC。境界越しに届く“声”で当事者たちを導くメッセンジャー的存在。


坂田亮介さかた・りょうすけ

 掛水の相方。軽妙な“もう一つの声”。時に境界の隙から伝言を残し、空気を和ませつつ背中を押す。



《用語ミニガイド(第三部・導入)》

・奥里坂:山と川と湖を抱く街。古い風習と“伝わらないのに伝わる噂”が根づく。

・風:息と声のリズム=命の流れ。乱れると“音”が薄れ、世界が静止に傾く。

・炎:命の躍動=現世の力の源。正しい“ことわり”の器に灯ると流れを押し戻す。

・水:現世の記憶を留める器であり、黄泉を映す“鏡”。澄めば魂は安定し、濁れば記憶が腐り、黄泉は乱れる。

黄泉よみ:現世の“裏面”。形は似て非なる鏡世界。

・黄泉口:現世と黄泉の境界の裂け目。風(輪廻の流れ)の通り道でもある。詰まると流れが滞る。

・水子:輪廻が滞り、命の流れが宿らぬまま生まれる悲劇。湖の濁り(記憶の濁り)が進むと増えるとされる。

・水の神殿:川辺に祀られた古い祠/神殿。水に記憶を澄ませ、鏡を正す“核”を持つ。

・御神体:神殿の核。正しい場所に安んずることで鏡(現世と黄泉)の歪みを整える。

水鏡みずかがみ:水面を媒介に境界越しの“像”や“声”が現れる現象。器となる者の素養が問われる。

・組み木:理を形にした台座。正しい手順で“風/炎/水”を導く器になる。

・地脈:土地をめぐる見えない流れ。再開発などで変調すると、風・水・記憶のバランスに影響が出る。

・奥里坂湖/奥里川:街の“水の記憶”を支える湖と川。澄みは巡り、濁りは停滞を招く。


※初見の方へ:本編は単独でもお読みいただけます。必要に応じて本後書きの一覧をご参照ください。

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