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マグノリアの絆 第五十一回

 雨宮の指先が髪に触れるのを感じた。次に、首筋をひやりと撫でたのは、銀の指輪だった。痙攣的に体が震えるのを、美架は抑えられなかった。雨宮は言葉を継いだ。

「さっきあなたは、絶滅した謎の人類の遺伝子が、現代人の血の中で生き残っていることを教えてくれたわ。縄文人はもちろん、ネアンデルタール人とは違うけれど、かれらは弥生人に駆逐されたのではなく、吸収されるような恰好で消え去った。それにしても、どうしてこの国では、近代に至るまで山男の目撃例が絶えなかったのかしら」

 飛躍しがちな彼女の言葉の筋道を追うには、けっこうな集中力が必要とされた。けれどもシェーンベルクのようではなく、マーラーの音楽のようにかろうじて調性を保っているため、理解の範疇を超えることはない。たしか美架は、抽象画と無調音楽がどうしても理解できないと言っていたから、雨宮の言葉はダダイズム詩ほどには、意味を逸脱していないのだろう。この奇妙な禅問答は、かつて彼女の「倶楽部」で行われていた会話の雰囲気を、ある程度再現していると思われた。そう考えると、美架は自身が時間を遡り、十四歳の雨宮と対面しているような錯覚さえ覚えた。彼女もまた、十四歳の少女に帰って。

 中学二年生の勅使河原美架を、私は雨宮以上に想像できないのだが。

「遠野物語ですね」

「あの中では、村の女が山男にさらわれた話が頻出するけれど、なぜかれらは積極的に『人間』と混血したがったのでしょう」

「生まれた子は、山男に食べられてしまうという話もありましたか」

「かといって、キングコングみたいな美意識の持ち主だとも思えないものね。有名なサムトの婆のエピソードのように、若い頃に姿を隠した女たちは、一度は帰ってきても、次の瞬間にはまたいなくなってしまう。まるで山そのものに吸収されたかのようだわ。けっきょく山男も、人間だった妻も、そして子供も、つかみどころのない話だけを遺して、どこかへ消えてしまうのね」

 ようやく彼女は、すっかり冷めているであろう紅茶を口へ運んだ。とりあえずこれで、毒を盛られたのではないかという疑惑は消えたことになる。すでに二杯も飲んでおきながら一応、その疑いを消さずに残していたところが、美架らしいといえる。

「実物が決して捕獲されない点では、妖怪と同じでしょうか」

 自他ともに認める不思議好き。口調に熱こそ帯びないが、このての話題を美架が好むのは間違いない。カップとソーサーを、雨宮はゆっくりとテーブルに戻した。

「けれども妖怪と違って、出没する地域が限定されていない。スナカケババは奈良県の妖怪だけど、山男がいるのは遠野の山に限ったことではない」

「アズキトギなら全国に分布するようですが」

「山男は地球上のあらゆる山岳地帯を歩き回っているわ。なぜか日本ではあまり話題にのぼらないけど、中国では野人と呼ばれていて、現代でもこれと行き逢った例が後を絶たないの」

 彼女は言葉をきり、再びカップをソーサーごと手にとると、そのまま宙で静止させた。そうして古い唄を口ずさむように、こうつぶやいた。


 かれらはどこから来たのか。

 かれらは何者か。

 かれらはどこへ行くのか。


「ポール・ゴーギャンですね」

「本来なら、かれらではなく『我々は』なんだけどね。タヒチのプリミティブな女性の生涯を、まるで絵巻のように描いた作品のタイトルだわ。けっきょく未遂に終わったけれど、この絵の完成後にゴーギャンは自殺をはかっているから、いわばかれの遺言になる筈だったと言えるかしら」

 カップを傾ける雨宮の姿に、また少女の面影が重なる。十四歳で死を決意した彼女。けれどもいま、彼女は美架の目の前にいる……ほとんど無意識に、美架は下の唇を人差し指でなぞった。紅茶に毒が入っている可能性は、まだ残っている。十四歳の雨宮京子は、死の道連れを必要としたのではなかったか。

 抑えの効かない戦慄が、背筋を這うのが判った。かつて死を決意した雨宮と、今この場所でカップを傾けている彼女とのミッシングリンクは、けれどもまだ埋められていない。人類が「どこから来たのか」、判らないように。

「何を考えているのか、当ててあげましょうか」

 荘厳ですらあった雰囲気から一転して、彼女は美架に悪戯っぽい目を向けた。

「そう仰言る時点で、的中しているものと予想されます」

「あなたのポーカーフェイスは完璧だわ」

 誉められたのかもしれないが、喜ぶべき場面でもないので、美架は無言のまま、次の言葉を待った。

「もっとも、意識した上ではないのでしょうけど。ただ瞳の中にうつろう感情の痕跡だけは、隠せないものよ。よく古い刑事ドラマで、取り調べ中、被疑者の顔に電気スタンドの灯りを突きつけるシーンがあるけど、あれは威嚇だけが目的ではないのね。ただ……」

「ただ?」覚えず鸚鵡返しに訊いていた。

「人の心の奥底までは、シャーロック・ホームズにも決して見透せない。あるいは自分自身にさえ、決して」

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