マグノリアの絆 第五十回
「いいえ、何も」
首を振ると戦慄が攪拌されるような気がした。自身の髪の先が首筋をひやりと刺した。
「そうかしら。私の思い込みかもしれないけど、あなたはすでに予見している。というより、これはあまり好きな表現ではないけれど、嗅ぎとっていると言うべきかしら」
「嗅ぎとっている?」
「ええ。死臭のようなものを、私から」
茶器の並べられる音だけが、冷たく響いた。解剖台のある部屋に、優雅な香りが漂い始めた。再び向かい側に腰をおろすと、雨宮は組んだ指の上で、唇を三日月の形にゆがめた。
「高山植物と狩猟の話、聞かせてくださる?」
植物ではなく高山病と言った筈だし、狩猟のことは一言も口にしなかったが。美架はただ黙ってカップを持ち上げ、唇を潤した。砂糖の類いは初めからなかった。紅茶には、煎れた人間の個性が抽出されるのだろうか。優雅で上品。それでいて、どこか危険な味がした。間もなく彼女は、ソーサーとカップを音もたてずに置いた。
「何かの雑誌で読んだのですが、私たちはふつう、いきなり高地へ行くと息苦しくなります。希薄な酸素を取り込むには、肺に負担がかかりすぎるからです。ところがアンデス地方のような高地に初めから住んでいる人々には、それが起こりません」
「興味深いわ」最初のポーズを崩さずに、雨宮は先を促した。
「たとえばアンデスの人は、血液中に酸素の濃度を高く保つそうです。そういった遺伝子を持つからです。エチオピア高原や、チベットに住む人もまた、高地に適した遺伝子をもつわけです。けれども、この三つの地方は南米、アフリカ、アジアと、ずいぶん遠く離れていますね」
「つまり、混血した可能性が非常に少ない」
「お見事です。高地に適応した一つの集団が移動できた可能性はゼロ、もしくはゼロに限りなく近い。かといって、体の作りを改変するほどの変化が、そう頻繁に起こるとは考えがたい。ところが最近の研究によると、かれらはそれぞれ異なる道をたどって、環境に適応したというのです。たとえばチベットの人は、デニソワ人という、何万年も前に絶滅した謎の人類と混血することによって、高地に強い遺伝子を得たと申します」
美架が再びカップを傾けるさまを、雨宮ははやり、同じ姿勢で眺めていた。その目を見れば、決して退屈しているわけではないことが判った。芝居の独白のように、雨宮はつぶやいた。
「進化は現在進行形で行われている」
「はい。肌や目の色にしても、顔や体つきに至っても、たった一種類の生物にしては、私たちはあまりにも多様です。アフリカの人とインドの人とは、アフリカゾウとインドゾウのようなまったくの別種ではないのですから」
「ところが現実はチベット高原で起きた事例のように、大昔から積極的な遺伝子の改変すら行われてきた」
なぜか、咽が渇く。地下にいるせいだろうか。とくに空気が乾燥しているとは、思えないのだが。また紅茶を口に運ぶと、美架はほとんど飲みほしていた。
「私たちは、みずから考えているほど、単純な種族ではないのかもしれません」
「単一民族など絵空事に過ぎないように、ね。もう一杯いかが?」
雨宮はポットを手にすると音もなく席を立ち、解剖台を回りこんで美架の背後に立った。再びカップが満たされたとき、さっきから雨宮がまったく紅茶に口をつけていないことに、ようやく思い至った。
「咽が渇きませんか」
「どうしてそう思うの?」彼女はまだ背後に立っていた。
「あれだけ永く、話されたのですから」
「この歳になるとね、水分にせよ栄養分にせよ、あまり必要でなくなるの。これは退化と呼ぶべきものでしょうけど、ならば人間は、退化するために生きてゆくのかしらね」
幽かな香水の匂いが、紅茶の香りに混ざる。複雑な薔薇。雨宮の香水を意識したのは、これが初めてかもしれない。彼女は無理に首を曲げても見えない位置に立っているので、美架は正面を向いたままこたえた。
「水分や養分を必要としなくなることは、進化のようにも見えます」
ふわりと、笑い混じりの吐息がかかる。
「でも間もなく死んでしまうわ。進んでゆく変化の先には、絶滅あるのみでしょう。究極の形態まで進化した爬虫類たちが、一斉に消え去らなければならなかったように。ね、あなたはさっき、絶滅した人類のことに触れたわね」
「デニソワ人ですか」
「現生人類と平行して、一時期は複数のニンゲンが棲息していた。ところがネアンデルタール人をはじめ、かれらはみんな絶滅してしまった。現生人類ばかりを除いて。これはとても奇妙なことじゃないかしら。いえ、決してあり得ないと断言できるかもしれない」
「かれらは必ず生きている」
「ナショナル ジオグラフィック(日本版)」2017年4月号を参考にしました。




