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マグノリアの絆 第四十九回

  ◇

「お茶にしましょうか」

 日が暮れかかっているのではあるまいか。

 外界から二重に閉ざされたこの部屋に永くいると、時間への観念が、限りなく希薄になってくる。肉眼では判らないが、高地の空気が平地より確実に希薄であるように。ここで流れる時間もまた、限りなくのろく進むか、あるいは止まってしまっているのではないかと疑われた。

 淀みなく語り続ける雨宮京子の声を聞くうちに、いつしか自身の座標を見失っていた。倉庫内のアトリエに腰かけているのではなく、スモッグの黒雲に覆われた「下界」、常夜町をさまよっていた。目に染みる酸を孕んだ空気まで、知覚していた気がする。いったい「丘」の上の住人である「京子さん」に、どうしてそれを呼吸できたのか。逆に、下界からいきなり丘へ引き上げられたとき、森田佳苗はなぜ無事で済んだのだろう。高山病にもならずに。

「何を考えているの?」

 笑みを含んだ声で、雨宮が尋ねていた。

 もしもこれが「仕事中」であれば、片時もぼんやりしてはいない。全身は常時、戦闘態勢にあり、おのれの守備範囲に神経のビームを、蜘蛛の巣状に張り巡らせている。うっすらと埃が積もっているとか、鍋がかすかに焦げ臭いとか。異変はたちまちセンサーに引っかかり、女郎蜘蛛のように彼女を飛んで向かわせるだろう。いわんやオーナーのような「大物」と同室しているケースにおいてをや、である。けれども今日は、あくまで客として招かれている。客が家政婦のように振る舞っては、かえって失礼にあたる。

「高山病についてです」

 ほとんど無自覚なまま、そう答えていた。雨宮は、とくに驚いた様子もなく、チャーミングに肩を竦めた。十四歳の少女の面影が、一瞬、二重写しになる。

「その問題は、お茶を煎れてからにしましょうか」

「私が……」

 追って立ち上がりかけた美架を、雨宮は軽く手をあげて制した。ちなみに勅使河原美架は、「私」を「わたくし」と発音する。

「座ってて。そもそもあなたには、キッチンの位置が判らないでしょう」

 再び腰をおろし、見上げた。ちょうど彼女の頭部を縁取る格好で、「ソロモンの星」がいきなり目に飛び込んできた。まるで禍々(まがまが)しい後光のようだ。美架がそう考えている間に、雨宮は舞踏的に背を向け、緋色の絨毯を右側へ回りこみ、星の描かれた幕の後ろへ隠れた。女優が舞台袖へ退場するさまを見る思いがした。

 独り取り残されてみると、あらためてこの空間の異様さが迫ってくるようだ。雨宮の隠れた辺りから、いつまで経っても、もの音は聴こえてこない。思えば美架はこの舞台のシナリオを知らないのだから、女優が次の場面で同じ衣装のまま、紅茶のセットを持って登場するとは限らない。たとえば純白のドレスに着替え、光り輝くナイフを手に現れたとしても、納得せざるを得ないだろう。ちょうど目の前には解剖台が横たわっているし、この場所は日の光から永久に隔てられている。

 ぞっ、と、不穏な気配を感じて、彼女は振り向いた。けれども、むろんそこに人影はなく、ただ薄闇の中に例の「ユニコーンと獅子」がじっとうずくまっているばかり。これら奇怪な鉄の塊は、ダイオードの眼玉に赤い光を暗く宿したまま、血腥なまぐさい記憶を黙々と反芻しているように思えた。「この場所」で何が行われたのか、彼女はまだ聞かされていない……雨宮京子はなかなか現れず、手持ち無沙汰なまま、美架は解剖台を軽く指でなぞった。作業台なのだと雨宮は言ったし、実際に彼女の凝りに凝った人形やアクセサリーはここで誕生したのだろう。けれども、最もこの上に置かれるのに相応しいのは、やはり等身大の人体にほかなるまい。たとえそれが人形であっても……

 人形ガラテア)

 彼女は息を呑み、誤って刃に触れたかのように、冷たい金属の上から手を引いた。銀色の盆を手にした雨宮が、そこに佇んでいた。

「何かお気づきかしら、鹿苑寺めいたんていさん」

 ナイフもなければ、純白のドレスも着ていない。まして古い映画フィルムの中の吸血鬼(ヴァンパイアのように、唇の端から一筋の鮮血を滴らせているわけでもない。にもかかわらず、その瞬間、美架には雨宮の姿が生きている人間には見えなかった。

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