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マグノリアの絆 第四十八回

 影のように、少年は贋ポアロに忍び寄ると、二言、三言、何事かを囁いた様子。間もなく眼前にあらわれた男は、ひどく憤慨しているようだった。

「ふん。おれがちっと本気を出せば、おまえらみたいなコワッパくらい、ぶちのめしてやるのは簡単なんだぞ。今日だけは勘弁してやるから、とっととモノを返せ」

 間近で見ると名探偵に似ているのは背格好だけで、憮然とした顔からは決定的に知性が欠如していた。この尊大な成り上がり者は何のために生まれてきたのだろう。何のために生きているのだろう。心も姿も醜いだけの、こんな人間が生きている価値など、微塵もない筈なのに。今すぐ死ぬべきなのに。フードの奥から観察しながら、そう思わずにはいられなかった。不良少年の一人と見なされているとはいえ、私が他人から、これほど尊大な口を聞かれるのは初めてだった。けれども湧いてきた感情は怒りを素通りした嫌悪感以外の何ものでもなかった。古生代のおぞましい生き物がゲロゲロと鳴いている姿をいきなり目にしたような。

 盲導犬はまた、赤い唇を舐めた。

「オイラたちが盗ったとは一言も言っちゃいねえぜ。ずっと隣に立っていた縞模様のおっさんを覚えてないのか?」

 みる間に男の目が見開かれ、ジャンク屋のほうを慌ててかえりみた。山高帽が転げ落ち、禿げ上がった頭頂が露わになった。その顔もまた、ユトリロのピエロとそっくりに思えてきた。盲導犬は帽子を拾い上げ、水滴と泥を軽くはたいて差し出した。すれっからしのわりに、舞台の上で貴人を演じるような動作で。

 いや、さっきから私は、かれの仕草が猫のようにしなやかなことに気づいていた。少年の渾名を、胸の内で「盲導猫」に修正した。もうどうねこ。これでずいぶん、違和感が消えるようだ。

「縞々のおっさんなら、とっくの昔にトンズラしてるよ。さっきも言っただろう。ただオイラたちには、あんたの財布を取り返してやることなら、できるって」

 男は引ったくるように山高帽を受け取り、ぐいぐいと頭にねじ込んだ。膨らんだ頬から、獣じみた唸り声が洩れた。ヒトではなくケダモノのままオトナになった、得体の知れない生き物の唸り声だ。それから突然、いかにも卑しい笑顔を浮かべると、べたべたと粘りつくような声で言った。

「へえ、そいつは有り難い。いやとても助かるよ。お小遣いなら、たっぷりとあげるからね」

 この男は、ずっとこんな調子で生きてきたのだろう。相手や状況によって態度を豹変させる。弱い者を蔑み、怒鳴りつけ、慈悲のカケラも示さない反面、強者にはぺこぺこと猫撫で声で接し、甘い汁は一滴も逃すまいと、常にぶ厚い舌をべろべろと蠢かせている。人間ではない。とても人間とは呼べない。今すぐ死ぬべき存在について、私はぼんやりと考えていた。

 おそらくこの男は、私たちが掏摸の素性に心当たりがあり、子供っぽい冒険心から、財布の奪還を提案していると踏んだのだろう。うまくゆけばしめたものだし、私たちを追跡することで、みずから取り返す算段がつくかもしれない。なあに、うまくいったところで、餓鬼どもに金なんか一銭も渡す必要はない。恫喝して蹴散らしてやるまでだ、と。もちろん盲導猫にも、そんな心理は手に取るように読めている。自身の手の甲をぺろりと舐めて、かれは言う。

「なあ、おっさん。オイラたちはおっさんの財布の中身なんか、少しもアテにしちゃいねえし。まして掏摸の野郎がどんなヤカラだか、知る由もねえ」

「なに?」

「早い話が、カネは一銭も返らねえと言ってるんだ。え? あんたの顔もニヤついたり目を吊り上げたり、お忙しい限りだな。ただ、カネ以外のものは残らず返してやれるぜ。それでもあんたにとっては、ずいぶん助かるんじゃないか。サツに拾われちゃヤバいものだって、入っているんだろう」

 男の顔が戯画的に赤くなり、蒼くなった。自慢の髭が水滴の重みで、だらしなく垂れ下がっていた。絶句するさまを見届けてから、盲導猫は畳みかけた。

「なに、簡単な話さ。これから教える合い言葉を覚えて、ある場所へ行ってもらうだけでいい」

「独りで行けというのか」

「ガラにもなく怖がっているのかい? オイラたちみたいな餓鬼でも、いたほうが心強いとでも?」

「財布をネタにユスられるのは厭だ」

 盲導猫が私に目配せするのが判った。美少女のような切れ長の目尻に、瞬時、漆黒の瞳が移ろい、また、今やすっかりうなだれている男へ向けられた。

「信じる信じないは、おっさんの自由だよ。オイラたちは、ここでおさらばだ。一応、住所を渡しておくぜ。あの子から受け取ってくれ」

 あの子、という言葉の違和感に驚いたのか、男はびくりと顔を上げてこちらを見た。今だ。という電気的な声が、脳裏に響いた。私はフードを被ったまま、レインコートのボタンを一つずつ、ゆっくりと外した。男に凝視されているのを感じた。少年に顔を見せたときと同じように、自分が場末に立つ娼婦のような気がした。ボタンを外し終えたところで、レインコートの前を左右に大きく開き、フードごと背中へ脱ぎ捨てた。薄汚れた抜け殻が地面に落ちたあと、私はたっぷり十五秒数えてから、顔を上げた。驚愕しきった男の表情が、そこにあった。

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