マグノリアの絆 第四十六回
少年が、見る間に瞠目するのがわかった。その戯画的なまでの驚愕へ、毒のある笑みを送りながら、さらにレインコートから肩を露出させた。まるで肌脱ぎになる娼婦のポーズだが、下にはまだ、学校の制服を着ていた。裸になるよりも、むしろこの制服がかれへもたらす効果のほうが大きい筈だった。薗子という「時計を持った兎」を見失った今となっては、切実に代わりを必要としていた。チェシャーキャットほどに、かれが友好的だとは決して思えなかったが。いきなり切り札を示して、かれの度肝を抜いておく戦略は、必ずしも無効ではない気がした。
咽の鳴る音を聴いた。この若すぎる肉食獣は、飢えていて孤独だった。自身の何倍も大きな草食動物を眼前に、たじろいでいた。眼前の豊穣な血と肉は、かれの飢えを飽くまで満たすであろう。けれどもこの場で牙を剥き、爪を露わにして襲いかかったとたん、完膚なきまでに踏み潰されることは、判りきっているのだ。男の子にしては異様に赤い唇から、乾ききった声が洩れた。
「おまえたち……アマデウス女子なのか」
アマデウスはモーツァルトのミドルネームとして知られるが、「神の恩寵を受ける」という意味をもつ。仰々しい名前をつけたものだが、この場に限れば、少年の上に呪文めいた効果を及ぼしたようだ。ノイシュバンシュタイン城が夢のお城であるように、かれにとってのアマデウス女子学園は、どうしても登ることのできない丘の上に君臨する天使の領域なのだろう。
わざと返事を保留にしたまま、私はレインコートを肩まで引き上げた。複雑な定理を組み立てる数学者のように、現在かれは小振りな脳髄をフル回転させているのだろう。下手な駆け引きは許されない。巨大ではあれ、旨みたっぷりの獲物をまんまと取り逃がしたあかつきには、血が出るほど地団駄を踏まなければならない。沈黙に耐えかねた佳苗が口を開こうとする気配を感じた。レインコート越しに彼女の二の腕をつねった。悲鳴が、かろうじて洩れない程度に。こちらから沈黙を破れば力関係が逆転しかねない。あとはろくでもないカードしか残っていないのだから、思わせぶりなポーカーフェイスで通すのが得策というもの。
少年は一度、きゅっと眉をひそめ、次に狡猾な笑みを舌でなぞった。唇に劣らず、赤い舌は、何らかの薬品を常習的に舐めているのかもしれない。とりあえず勝負は、私たちにとって有利に進み始めたとおぼしい。
「そうかい、判ったよ。ついて来な」
踵で器用に回転し、背を向けた。下手な真似をすれば、いつでも振り向けるぞという意思表示に違いないが、その背中は痛ましいほど貧弱に見えた。私はフードを被りなおした。もの問いたげな佳苗の視線は、片目を閉じて受け流した。もちろん私にも、かれの思惑は判らない。ただ睨み合いの結果、何らかの誤解が生じ、私たちが過大評価されたのは確かだ。「どこへ行くの?」などと佳苗に言われては、株が暴落してしまうのだ。何を知っているのか、どこまで判っているのか、曖昧な表情の下に伏せたまま、いつ牙を剥くか判らない盲導犬を、しばらくのあいだ手懐けておくしかない。事実、私たちは――とくに私は――この世界について何も知らないのであり、この世界に今のところ居場所を持たない点では、二人とも同類なのだから。
少年の背中は、市場の雑踏を蛇のようにすり抜けてゆく。歩くと少し猫背気味になり、またしても薗子の姿と二重写しになる。盗品市は意外に広く、迷路のように入り組んでいる。品物を買う客と同じくらい、物を持ち込んで店主から金を受け取っている客がいる。かれらは私たちに目もくれず、違法な売買に夢中である。違法であるがゆえに、熱が入るのかもしれない。少年は一度も振り向かない。寒そうに丸めた背中を眺めながら、私は密かに「盲導犬」と渾名をつけた。
「見ろよ、あいつは掏摸だぜ」
やはり振り向きもせず、盲導犬がつぶやいた。
わずかに動いた顎の方向へ目を遣ると、この蒸し暑い中、みょうにぶ厚いセーターを着た男が、すぐに視界に飛びこんできた。頭頂は禿げ上がり、残りの髪が濡れるにまかせて見苦しく貼りついている。私はなぜかユトリロが描き殴った道化師を思い浮かべた。黄色と黒の縞模様は雑踏の中で目立っていたし、一人だけ品定めするでもなく、人待ち顔で佇んでいるのだから、いかにも怪しい。森の中では、虎はかえって木立に紛れるというけれど、「掏摸」の姿は、動物園の檻の中で意気消沈している、見せ物の虎にほかならない。私が抱く疑問を承知していたように、盲導犬は言葉を継いだ。
「古着屋がやつらのボスなんだ。掏摸だけじゃねえ。乞食にせよかっぱらいにせよ、雑踏でひと稼ぎしようって輩は、誰だって古着屋の手下にならなきゃいけねえ。連中は同業者組合だなんて、大見得きってるけどな」
「そう」




