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マグノリアの絆 第四十五回

 円錐形の屋根のてっぺんには三角形の旗がかかげられ、雨の中で萎んでいた。旗には、顔のある三日月が描かれているのが、かろうじて見分けられた。佳苗がつぶやいた。

「三日月サアカス団」

「知ってるの?」

「私が丘へ上がる前に、かかっていたのを覚えているわ。子供なら、タダで覗く方法があるらしいの。上級生に誘われて見に行った子もいるけど、私は勇気がなかった。そのうち学校でも問題になって、厳しい罰が与えられた。無関係な私まで、机の上に何時間も正座させられたの」

「そう」

 私の声は素っ気なく響いたろう。理不尽な体罰の話には興味がなく、ただ、佳苗が「サアカス」と発音したところは気に入った。闇を孕んだテントや、いかがわしい三日月の旗も好もしい。テレビに映るグランドサーカスはつまらない。白々しい光の中で徹底的に闇が排除され、野球中継と何ら変わらない、ただのスポーツが繰り広げられる。私がスポーツ全般に抱いている感情は、憎しみに近かった。体育の授業という名目で裸に近い恰好を女生徒に強要し、外を走り回らせるなど論外。私はこれらの授業をボイコットするために、遠慮なく家紋を振りかざした。

 荒れ地を過ぎると住宅地に足を踏み入れた。舗装が行き届いていないため、砂利道が淋しく鳴った。大家が住むとおぼしい二階建てと、マッチ箱のような十軒ほどの貸家が何セットも並んでいた。マッチ箱の玄関は磨り硝子の引き戸で、なぜかどこも鉢植えの万年青おもとが軒下で萎れかけていた。

「あんまり行くと、帰り道が判らなくなるわ」

 佳苗の言うとおり、路地は迷路のように入り組んでおり、振り返れば、重なり合う屋根で、すでに来た方角が閉ざされている。雨のせいか、やはり道行く人影はない。どこかからラジオとおぼしく、騒々しい話し声が洩れてくるばかり。陰険な目つきの猫が、忍び足で横切ったあと、私は演技的に肩を竦めた。

「サアカスを目印にすればいいじゃない」

 街の奥へ進むほど、反対に闇は深まってゆくようだった。初めてすれ違った通行人は傘をささず、誰も乗っていないベビーカーを押していた。まだ二十代と思われるが、縮れ毛が貼りついた頬に、癒しがたい狂気を宿していた。始終何事か口走っており、すれ違う瞬間、こうつぶやくのがはっきりと聞こえた。

「ココヲ、スギ、テ、カナシミ、ノ、マチ」

 軒を並べた商店は、まだ闇市の面影を色濃く引きずっていた。商品の半分は盗品としか思えなかった。魚介類は汚染され、吊された肉塊に腐敗が忍び寄っていた。進駐軍の払い下げ品の中には、銃刀法に反するものが平気で混じっていた。十歳くらいだろうか、私たちと同じように薄汚いレインコートを身にまとった少年が、大人の背に身を隠しながら、黒ずんだ林檎をひとつ、盗んだ。私と目が合った瞬間、野良猫じみた眼が暗い光を宿した。

 薗子の眼と似ていた。

 前方には真っ黒い巨大な壁のような、工場の群れが立ちふさがっていた。路地をひとつ曲がると、ブリキの看板が塀に打ち付けられていた。「DeadEnd」の文字が、錆の中にかろうじて読めた。一方は細長いコンクリートの塀で、もう一方は飲食店の裏口が連なり、たしかに三十メートルほど先で行き止まりになっている。さっきの少年が、そこにぽつんと佇んでいた。

 フードは外され、よれよれのハンチングから蓬髪がはみ出していた。片手で壁にもたれ、もう片方の手の中では、林檎があらかた齧り尽くされていた。

「おまえたち、女だな」

 整いすぎた、蝋細工のような顔だち。口の端を引きつらせる笑いかた。林檎をもう一口齧ると、そのまま後ろへ放り投げた。

「素人なのかい? そんなにきょときょとしてたんじゃ、甘栗ひとつ盗めやしないぜ」

 飲食店の裏口から、湯気とともに、むっとするような臭気が洩れてくる。厨房から聞こえる声は、けたたましい韓国語だ。もう一方の壁はポスターで埋め尽くされており、無許可で上から次々と貼ってゆくのか、ぶ厚い膨らみが波打って見える。少年は帽子の唾を摘まみ、私たちを吟味するように身を乗り出した。佳苗が私の肩をつかみ、懸命に身を隠そうとした。れたように少年が言う。

「なあ、お互いのためにならない話なら、ぼんやり待っちゃいねえよ。まさかママのお使いで、こんな泥棒市をほっつき歩いてるわけじゃあるめえ。え? 儲け話のほうから、寄って来てやったんじゃねえか。オイラたち、ちょっと組んでお仕事するだけでよ、今晩はおろか、二、三日は寝ながら三食、ビフテキが食えらあ」

 歳に似合わず、かれの言葉遣いにはもの慣れた凄みが感じられた。かれは丘の上には決して存在しない人種であり、剥き出しの野性だった。ちょうどかれがもたれている壁に、真新しいポスターが貼られていた。べったりと塗られた深紅の地いっぱいに、顔のある三日月が描かれていた。例のサアカス団のポスターに違いない。私は少年を真っ直ぐ見つめたまま、自身のフードをゆっくりと後ろへずらした。

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