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マグノリアの絆 第四十四回

 鳥居は全体を蘚苔類に蝕まれ、大きく右に傾いていた。近くで爆弾が炸裂し、土台を揺るがしたのかもしれない。その向こうに広がる光景を目にしたとき、私は息を呑まずにはいられなかった。この廃社は成金どもの棲まう丘を背に、街の中でもっとも小高い場所を占めているのだろう。だから向こうの海へゆるやかに傾斜してゆく街の全景が、ほぼ俯瞰できた。最初、私の網膜が部分的に色彩の識別能力を失ったのかと考えたほど。ぞわぞわと芽吹き始めた神木と濃緑色の鳥居の間に覗くのは、ひたすら黒と灰色で構成されたパノラマだった。空襲で破壊し尽くされたまま、油じみた雨の中に放置されているように見えた。けれども身体を這い上がってくる振動は、この黒い街が生きている証拠であり、巨大な心臓の音にほかならない。無数の煙突は、そのいかにも不健全な形をした先端からありったけの煙を吐き出し、黒い雲の下で火の粉をちらした。あたかも、得体の知れない怪物が呼吸するように。私が最初に廃墟を連想したのは、街全体がグロテスクに歪んでいるからだ。

 鳥居の下まで歩を進めた。私たち以外の人影はまった見えなかった。はるか下方まで、無人の急な石段がしょんぼりと、雨に打たれていた。私たちがとっくに薗子を見失っていたことを、あらためて思い知らされた。石段の幅は狭く、所々が崩れ落ち、明らかな機銃掃射の痕まで残っていた。低空へ飛来したマスタング戦闘機が、逃げまどう民間人をゲーム感覚で撃ったことが密かに伝えられている。三島由紀夫の短篇にもそんな場面が出てくる。油じみた雨がレインコートを黒く汚した。海底に身を潜めた生き物の背のように、階段は靴の下でぬるぬる滑り、私たちを眼下へ放り出そうと目論んだ。血痕としか思えない、どす黒い染みが方々に付着していた。それらは持ち主の身体が崩壊した後も独自の生命を得て、粘菌のように周囲の苔を貪り食いながら、目に見えぬ速度で増殖し続けているのかもしれない。

 佳苗は沈黙したまま。胸の裡で渦巻いているであろう不安や不満を口にしないよう、懸命に耐えているのが判った。薗子を追うための手がかりはすでに途絶えていた。これから茫漠とした街へ踏み込んだところで、彼女の背中を再び見いだせる可能性は限りなくゼロに近い。統計学的にゼロではないというだけで、事実上はゼロだろう。奇跡が起きない限りは。あるいは、考えられないことだが、薗子が私たちの「尾行」に気づいていて、隠れんぼに飽いた子供のように、もの陰からひょっこりと顔を出さない限り。

 階段の下はがらんどうの荒れ地。市街地と丘を隔てる役目を果たしているらしく、上から眺めた印象よりはるか先まで続いていた。薗子の背中が左右に揺れながら紛れこんでいないか、目を凝らしたけれど、やはり人の気配はまったくない。枯れ草の間にカラスノエンドウがはびこり、冬の間に凍え、縮こまった土を、旺盛なヨモギやドクダミの芽が引き裂いていた。おびただしい瓦礫を一旦空高く持ち上げ、あらためて蒔き散らしたように、鉄くずや煉瓦やコンクリート片や石の塊がごろごろと落ちていた。金網の一部やもぎとられたドアや歪んだ看板や用途の知れない機械が転がっていた。無数の錆びた鉄釘やボルトが靴底に気味悪く触れた。セルロイドの少女人形が丸裸で雨に汚されながら、恨めしげに私を見上げた。覚えず顔をそむけると、前方に黒々とうずくまる工場の群が、今では海をすっかり覆い隠していた。いかにも弱々しく、佳苗が私の袖を引いたのはそのとき。

 彼女の視線を無言で追った。右側は背の高い枯れ草の原で、その先にいぢけた灌木が列をなしていた。私は覚えず足を止め、灌木の向こうにずんぐりと横たわっている円柱を、戦慄とともに眺めた。異星人が駆る未知の飛行物体のイメージが、真っ先に頭をよぎった。これほど巨大な異物にどういうわけか今まで気づかなかったことも、忽然と飛来した印象を呼び起こすのに手を貸した。屋根にあたる円錐の部分は、かつてけばけばしい極彩色に塗り分けられていたのだろう。けれども今ではすっかり色褪せ、薄汚れ、灰色の雨の下で終わりのないもの想いに耽っていた。あるかなきかの風を受けて、全体がゆうらりと揺れるさまは、もの哀しい夢を想わせると同時に、それが決して金属のような硬い物質でできているのではないことを示していた。

 曲馬団サーカス天幕テントだった。

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