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マグノリアの絆 第四十三回

 横穴は間もなく行き止まりとなり、ちらちらと揺れるオレンヂ色の電光の下に、縦穴がまた、ぽっかりと口を開けていた。やはり、鉄梯子がかかっており、覗きこむと、濡れた岩盤がねっとりと光を帯びていた。どうやら最初の縦穴より、ずっと短いようだ。私が先に降り、少し進んだところで、また行き止まり。壁面に打ち込まれたカンテラは、さらに次の縦穴へと手招くのだった。降りてゆけばまたすぐに段が尽き、横穴の向こうで陰火じみた灯りが「おいでおいで」している。うおおおん、という亡霊たちの合唱はますます高まり、地底で巨大な口を開けた悪魔が私たちを呑み込もうと、身構えているように感じられた。私はさすがに足を止め、辺りを見わたした。後日、何度もこの「道」を行き来するうちに、すっかり慣れてしまうのだが、初めて足を踏み入れたこのときはまだ、先のまったく読めない状況に、内心戸惑っていた。先の読めない不安から逃れるために、例え死ぬほど退屈であろうとも、人間は社会を作り、昨日が延々とコピーされる明日を選んだのだろうか。血なまぐさい小説や新聞記事や映画をみて、他者の災難という安全な蜜をしゃぶり、冒険への飢えをしのぎながら。

 岩盤を補強する材木が朽ちかけていた。その裏側に蝟集いしゅうしているであろう、小動物を想像したくなかった。引き返そうと私が決断するのを、佳苗が待ちこがれているのは判っていた。彼女ははなから現実の冒険など求めてはいない。鳥になりたいか貝になりたいか問われれば、彼女は迷わず貝を選ぶだろう。砂に潜り、ぴったりと閉ざした貝殻の中で死ぬまで夢を見続けるのだろう。蜃気楼とは貝が吐き出す夢なのだという美しい俗信があるが、その貝の中に棲まうのは、一人の虐げられた少女でなければならない。

「どうするの」

 いつもなら苛立たしく感じる彼女の問いも、憐憫しか引き起こさなかった。私は振り返り、チャーミングに微笑んでみせた。それが彼女にどんな効果を及ぼすか、知悉した上で。

「決まってるじゃないの。時計を手にした兎がこの穴へ飛び込むところを、あなたも見たでしょう。さあ、私たちも『時間に遅れないように』しなくちゃ」

 ならばいったい私自身は何を望み、何を期待して彼女と私に無益な冒険を強いているのだろう。そこかしこで、おぞましい生き物が蠢く穴蔵を通り抜け、煤煙に黒ずんだ亡霊たちの国へと、何のために道を急いでいるのだろう。薗子という、一つの鍵を手に入れたから。ただ、開かずの間を覗いてみたい一心なのか。青髭男爵の城で退屈しきった花嫁のように、八つ裂きにされた自身の姿を覗いてみたくて。

 梯子を降りた。次の横穴は思いのほか狭く、ほとんど這い進む恰好。「あの」雨宮京子が、クラスメイトには絶対に見せたくない無様な体勢であり、現に背後には、ほとんどぴたりとくっつくほど間近く佳苗がいるのだが、不可解な心地好さに驚かされた。地の底へ進むにつれて、獣へと退化してゆく快感なのか。だとすれば、飛翔だとか進歩だとか、巷で好まれる上昇や前進は、苦しみにほかなるまい。進化とは、苦悩の痕跡ということになる。この横穴の先に、最初に下ったのと似たような、長い梯子段があらわれた。ずっと下降し続けているのだから、あり得ないことだが、まるで迷路の中を堂々巡りさせられている気分に見舞われた。そうでないことを確信できたのは、ようやく地上に降り立ったときだ。水棲生物の這う岩盤ではなく、足の下には乾いた地面が横たわっていた。

「防空壕みたい」

 佳苗のつぶやきが当を得ていたことを、間もなく知った。丘の上こそ整備されていたが、当時はまだ至る所にこのての穴蔵が、哀しい記憶を孕んだまま残されていた。私と違い、下界育ちの佳苗には馴染みの光景なのだろう。土嚢や空き缶やぼろ布が散乱し、頭上から太いロープが薄気味悪くぶら下がっていた。人工光はない代わりに、前方から入り込む外光が、穴の中を薄蒼く照らしていた。ごわごわした防水布で、穴の口が覆われているらしい。防空壕の入口は、私たちにとって、下界への出口にほかならなかった。

 防水布を掻き分けて、雨の木立に出た。ここが真の常夜町だ。大きなケヤキの梢越しにどす黒い雲が覗き、タールのように重々しく流れている。振動を伴う重低音が、呪いのように地面から身体へと這い上がってくる。私の袖を佳苗が不安げに摘まんだ。正面の黒ずんだ木造建築は、社殿とおぼしく、どうやら防空壕は神社の裏側に位置するらしい。社殿の千木が傾き、屋根はいびつに歪んでいる。拝殿を回りこんで境内に出た。いずれも真っ黒い絵馬は呪詛を書き連ねたようで、狛犬の顔が削れて妖物じみている。手水舎の屋根は崩れ落ち、緑色に濁った水が細かい波紋を無数に浮かべたさまは、蝕まれた皮膚を想わせる。石畳はすでに雑草で覆い尽くされていたが、そこに一筋、人が踏みしめた小径こみちができて、去年の葛が枯れたままぶら下がっている、石の鳥居まで続いているのだった。

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